『沖縄全戦没者・平和の礎刻銘者清明祭』参加記①

2008年04月13日 00時05分36秒 | 沖縄現地情報

4月12日、糸満市「平和祈念堂」において、沖縄戦で亡くなった県民だけでは無く、日本兵や外国人も含めた24万609柱の全戦没者を供養する「清明祭(シーミー:墓参りをして先祖供養する行事)」が行われました。
<平和の礎>
きっかけは、平和祈念公園で行われる毎年の清明祭が、亡くなった県民の名前が刻まれた礎(イシジ)の前には遺族がいるが、県外者や外国人の場所には、誰もいいない事に気を掛けていた「沖縄平和祈念堂」比嘉正詔所長が、関係者に考えを伝えたところ、多くの人の賛同を得て、ボランティアを中心に今回第一回目の開催に至った。

▲<山田真山画伯の作品(1940年に帰郷し沖縄戦を体験、長男・三男を亡くす。1957年に平和の悲願を込めて、この作品制作を発表をする。当時県内の小・中・高生も拠金応援した。丸18年後、90歳で完成。>
私は、発起人の一人「月桃庵」玉城女将から聞いて、お願いして参加させて頂いた。
<祭壇>

▲<「清明祭のお重」並べ方に作法あり、正解は県立博物館「ふれあい体験室」で>
2時から始まった。比嘉所長の「沖縄戦では、たくさんの人が亡くなられたが、摩文仁(マブニ)の丘のこの土地は、周辺のガマから8万人が出て来て助かった土地である。平和祈念堂の清明祭を懸け橋に全戦没者の魂が眠るムートゥーヤ(本家)として、全世界に発信したい。」の挨拶で始まった。
その後「弥勒世のお願い」をウチナー口で、平良とみさんが朗読した。以下、要訳。
<朗読を行う「平良とみ」さん>
「くま摩文仁をぅてー、今(ナマ)から63年前(ニンメ)、大戦(ウーイクサ)ぬシーラ入(イ)っち、あたら命(ヌチ)ぬ多(ウホ)―く、失(ウシ)なーりやびたん。沖縄(ウチナー)ぬ大戦(ウーイクサ)をぅて、あたら命落(ヌチウ)とぅしみーそち、平和ぬ礎(イシジ)んかい名(ナー)ぬ書き留(トミ)みらったる、沖縄(ウチナー)・大和(ヤマトウ)・アメリカ・大韓民国・イギリス・朝鮮民主主義人民共和国・台湾ぬ24万609名ぬ方々んかい申上(ウンヌキ)やびーん。
不足不足(ウスクブスコ)ー。汝不足不足(ナーブスクブスク)、持分職分(ムチブンスクブン)のー、持(ム)たちうたびみしぇーびり。
持分職分のー、立派デイバ)に仕成(シーナチ)ち、うさぎやびーくとぅ、24万609名ぬ子孫(ックワゥンマガ)はじみ、世界御万人(シケーウマンチュ)ぬちゃー、見守(ミーマン)てぃうたびみしぇーびり。」
⇒<訳>「ここ摩文仁では、今から63年前、沖縄戦の最後の激しい戦闘が行われ、多くの尊い生命が失われました。沖縄戦で亡くなられ、平和の礎に刻銘された沖縄・本土・アメリカ・大韓民国・イギリス・朝鮮民主主義人民共和国・台湾の24万609名に申し上げます。人間一人ひとりには、それぞれ長所も短所もありますが、どうか、持分(人としてこの世に生まれた使命)職分(職場で果たすべき役割)を一人ひとりにお与え下さい。平和を築くための持分・職分は、キチンと果たせさせますので、あなた方の子孫や孫、そして、全ての人々をお守りください。

▲<左、沖縄県遺族連合会仲宗根会長の献花。右、主催者財団法人沖縄協会尚理事の献花>
⇒後半に続く。