琉球稲作発祥の地『受水走水』とは?

2008年04月08日 00時05分14秒 | 沖縄現地情報

▲<みーばるマリンセンター付近の案内板>
沖縄本島南部、南城市玉城百名「百名ビーチ」の山際に、琉球稲作発祥の地と言われる「受水走水(ウキンジュハインジュ)」があります。

▲<左、西側の水田傍にある石碑。右、水田の奥には湧水口がある。>
大昔、中国に大変おいしい御米と呼ばれる食料があり、そこへ渡った「アマミキヨ」が、琉球に持ち帰りたいと「守(ニライカナイの神)」に願い出たが、稲の種子は国外持ち出し禁止であると許されなかった。
その後も、北山王の使者「伊波安司守」が中国に渡った際にも「守」に願い出た。「守」は、あまりにも熱心に請うので、鶴が運ぶ事を条件で許可し、自分が大切に育てていた鶴を与え「ここの稲が熟す頃、鶴を放し鶴に稲の種子を咥えて運ぶように言いつけなさい」と言った。
<東側水田の上にある石碑>
守に教えられた通り、稲の種子を持って帰るように鶴を放した。鶴は稲の種子を見つけ、種子を咥えて飛んでいる最中、暴風にあって新原集落の「カラウカハ」という泉のある所に落ちて死んだ。

▲<東側奥の湧水口。美しくて豊富な水が、とうとうと下の水田に流れていた。>
鶴の咥えた稲穂が「カラウカハ」で芽を出したのを「アマミキヨ」が見つけ、「受水走水」の御穂田に水田を作り移植した。
稲は、ぐんぐんのびて実り豊作した。始めは一ますだったが、二ます、三ますと水田を作り全部豊作し、琉球中に稲の種子を配布した。始めに稲を植えたこの三ますの水田を三穂田と呼ぶようになった。

▲<西側の湧水口には、拝みの方が4名いたので近寄れませんでした。>
この地は、「東御廻いの拝所」として霊域となっていて、旧正月の初午(ウシ)の日には、田植えの行事「親田御願」が行われる。この行事を終えないと、この地域一帯の田植えは始まらなかったと言われる。
※「玉城村の文化財概要」より