晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠-4 5/6

2018-05-06 | 山・峠

2018.5.6(日)曇り 大栗峠考(45)

 大栗峠の地蔵さまや石碑の銘文については既に考察しているので略しシデ山側にある平坦な広場について考えてみたい。どこかで「茶店があったんやで」と聴いたが周囲にその痕跡は無く、建物があったというのは信じがたい。ただし、和知側数百メートルのところの地蔵さまの広場と和知から尾根に登り着いたところの広場には建物があったというのは事実らしい。前者は六地蔵様だったそうだが今では一体である。里に下ろしてお祀りするならすべて下ろすだろうから盗まれたものだろうか。ここには瓦が残っているので、少なくとも六地蔵の小屋はあったようだ。巷間道をまたぐ建物があって、通行人はその下をくぐって通ったということが言われているが、残された瓦はそれほどの数ではないし、そのような建物を作る必要も考えられない。後者の建物は茶店であって村のおばあさんが通って店を出していたと聞いた。この場所は確認できていないが、昭和40年代には柱などの残骸があったそうだから間違いはなさそうだ。(北山の峠 下)さて、峠の広場であるが、このような広場がある峠はわたしが今まで歩いた峠では大栗峠と木住峠だけである。この二つの広場は明らかに人の手によって平らにならされた形跡がある。洞峠も北側が広くなっていたと思うが、自然の広場ではなかったか。

大栗峠地蔵さま向かい側の広場と和知道六地蔵(今は一体のみ)の広場、共にベンチがしつらわれている。
 人が休憩するだけならさほど広い場所は要らない、やはり牛馬、荷車で休憩するならそれなりの広さが必要となる。木住峠の場合は峠自体も狭いので、広場もさして広くはないが、それだけに場所の確保は余計必要となるだろう。もうひとつの考え方は物資の保管場所、デポジットである。物資輸送の盛んな大きな峠では峠の付近に石室があり、麓の村から運び上げた物資をそこに保管し、後日反対の側の村人が登ってきて受け取るというシステムがあったそうだ。時代が下がれば専門の輸送業者も現れ、分業で峠間の輸送を請け負っていたかもしれない。そういう物資の保管場所としてあの広場があったのかもしれない。いずれにしてもあの広場は、両峠の輸送力の大きさを物語っている。

木住峠、狭い峠だが向こう側(岸谷側)の右手に小さな人工の広場がある。
 小栗峠を後にして和知側に下っていくと、山田道とは明らかに違った道のあり方に気づく。それは道幅の取り方とでも言おうか、道の整備の仕方が違うのだ。弓削道について聞いたことなのだが、村人による道造り、いわゆる道の整備の際に牛に横にした角材を牽かせて道をならしたと言うことを聞いた。その方法が弓削道と和知道に残っている。両脇が小さな壁になっており、中央が平らにならされているのだ。これも明らかに牛馬荷車による輸送を意識した索道といえるだろう。

牛に角材を牽かせてならされた和知道、弓削道にも見られる。
 もう一つ和知道で気づいたことは、急峻な箇所などではもう一本別に間道があるようなのだ。時間的に余裕がなかったので一つ一つ確認は出来てないが、いつか歩いてみたいと思う。このことは登り下りの専用道、或いは牛馬荷車道と人のみの道を分けたものかもしれない。

右が本道、左に間道があるようだ。
 6年前山田
道から弓削道に下りた記録を見ていて貴重な写真を見つけた。今年木住峠清水道に要った際に地蔵堂上で見つけた奇妙な平行道路(2018.4.2参照)と同様の平行道路が弓削道にもあることだ。これは明らかに荷車がすれ違うか、追い越しの為の道と思われる。清水道、弓削道が近世の産業道路であり、牛馬荷車が通行し、しかも相当の通行量があったことがうかがえる。

左は清水道地蔵堂、屋根に隠れているがもう一本道がある。
右は弓削道の平行道路。
【今日のじょん】GWはよい天気が続いてワンコもたくさん来じょんしてくれた。全部は紹介できなくてゴメン。

5月5日ポメラニアン ベルちゃん 4才

ミニチュアダックスフンド りゅう君 16才

トイプードル ラテ君 1才

みんなドッグラン喜んでくれてありがとう。

コメント
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