2014.8.8(金)曇り、雨
両墓制の分布の問題や詣墓が村中の寺の境内に多く存在すること等から、埋墓は死穢の場所として放棄されていたものが、近世以降死者供養などの仏教的信仰が広まり、礼拝、供養のための石塔を寺の境内などに置くようになったのではないかという説を原田敏明氏が提唱された。これは従来の定説、「埋葬地は死穢の場所であり、それを忌避して霊魂祭祀のために清浄な場所を設けた」というものを否定している。詣墓というのは死者に対する供養のための石塔墓とともに発生したということだろうか。
ただわたしがこの説を単純に考えると、全ての墓が両墓制となるべきで、より多く存在する単墓制の墓はどう説明されるのだろう。単墓制墓は死穢意識と礼拝供養が共存することになっているではないか。
また国分直一氏が南島の洗骨改葬習俗は両墓制と同様の系譜をひくものだという説を出されている。実はわたしも両墓制を初めて目にした時、沖縄の洗骨改葬習俗は両墓制の原点ではないかと思った。(2009.8.11参照)両墓制が若狭、上林、南丹方面に分布していることもふまえて、海人族に由来する習俗かとも思ったわけだ。同様に考えた民俗学者は相当いたと思う。前に紹介した民俗学辞典にも紹介済みの7項目の他に8項目目として沖縄の洗骨改葬習俗を一種の両墓制というとらえ方をしている。これは大間知篤三氏の影響大と思われる。
念道では屋敷毎に墓がある。不思議に思って調べたら両墓制ということだったのだが、屋敷毎にあることが両墓制ということではない。
とまあこのように、両墓制についての議論は混迷を極めるわけであるが、その主な原因は、両墓制の分布の問題と両墓制そのものの概念が確定されていないこととだろう。近畿を中心とした濃厚な分布があることは、当時の民俗周圏論的な考え、つまり古い民俗は列島の周辺部にこそ残存するという考えと矛盾するということである。
そんな中で、両墓制の概念規定を明確にしようというのがいわゆる有馬シンポジウムであったようだ。一番最初に紹介した有馬シンポジウムに立ち返るわけだが、このシンポジウムの混迷は「日本民俗学214号」に詳しい。ただここまでの経過に詳しい者にとってはシンポジウムでの混乱が解るけれど、いきなりこの記事を見たって、それは民俗学会への不信としかなり得ない。
つづく
有馬シンポジウムはなんともすさまじい議論だったようだ。
【作業日誌 8/8】
墓掃除
お墓掃除ったってお墓の周囲より、墓参道の両脇が我が家の土地で、その草刈り、薮刈りが大変なわけ
【今日のじょん】台風の影響で気温が低く、じょんにとっては過ごしやすいみたい。世間では被害がでて大変なことになっているのだが、、、
眠たいノダ
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