晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

六道の辻界隈ー4 10/9

2017-10-09 | 上林たんけん隊

2017.10.9(月・祝)快晴

 古地図を眺めていると珍皇寺の東に下河原という地名がある。音羽山から流れ出た水が珍皇寺の北を流れ、建仁寺の北から鴨川へ流れ出ている。これが三世川といわれ、いわゆる三途の川(さんずのかわ)の原型なのではないだろうか。また、「六道の辻をあるく」(加納進著)に姥堂跡の記事が見える。元々松原通大和大路東北角(をば坂の起点)にあり、運慶作と伝えられる三尺の奪衣婆(だつえば)座像が知られ、姥堂(うばどう)と呼ばれたそうだ。奪衣婆とは三途の河原で亡者の着物を剥ぐという。「餓鬼草紙」の墓地の絵を見ていると遺棄された屍体が着物を着たものと裸のものとが見られる。中世の遺棄葬では着せた着物が、いきなり何者かに剥がされるということがあったようだ。さすれば三途の河原の奪衣婆は現実の墓地の様子を表していると考えられる。
 こういったことからあの世に行く前の三途の河原の風景は、六道の辻のあたりの墓地の風景をそのまま表したものではないかと考えられる。「日本中世の墓と葬送」の中に、「餓鬼草紙」の場面は珍皇寺門前ではないかという民俗学者高谷重夫氏の説を載せられている。地獄だとか六道という世界がいつの世に生み出されたものかと「地獄の思想」(梅原猛著)を読み返してみるとやはり平安期、「往生要集」源信のあたりではないだろうか。さすれば三途の河原のあの風景が現実の六道の辻あたりの葬地の様子から作り上げられたと考えて良さそうだ。
 それにしても洛外の塚や塔婆が立ち並び、遺骨や遺体が累々としていたこの地に平正盛に始まり忠盛、清盛が邸を構えるようになったのはなぜだろう。怨霊や祟りに怯えていた貴族と違い、武士としての豪気な一面がそうさせたのだろうか。後の六波羅探題にしてもそうである、洛中に居しないのは天皇と侍という一線を画した立場なのであろうか。

珍皇寺門前、西福寺門前

コメント
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