2012.6.2(土)曇
上林の鋳物師(いもじ)について長くなりそうなので、考察編として述べることとする。
清水村の鋳物師について、木炭、砂などの原材料については解決と考えてよいだろう。次に粘土の問題である。
粘土はこしき炉、鞴(ふいご)の羽口、作業場地下構造などの施設に利用されるがなんといっても鋳物の型枠に使われ、その量は相当なものになる。原料の地金が出雲などの大量生産地から入っていたとしても、粘土は地元で調達していたのではないだろうか。
古代の製鉄遺跡や近世の鋳物師に関する書物や論文を見ていても、材料の砂鉄の分析や炉や羽口の構造等には詳しい分析がなされているが、重要なファクターとなっている粘土については取りあげられている例が少ない。このことは裏を返せば、単にその遺跡や作業場の近くに粘土を入手出来て、わざわざ他所から搬入する必要が無いと言うことなのかもしれない。
「古代日本の鉄と社会」(東工大製鉄史研究会)の中で古代製鉄遺跡である尾崎前山遺跡についてあらゆる面で科学的に分析追究されている。その中で、羽口や炉の材料について組成分析をされ、近隣の白粘土を利用しているという結果が出ている。
ここで考えるのが白垣という地名である。しらがきと呼ぶようだが、江戸時代には白屋垣(しれがき)と呼ばれていた。かつて上林地名考で、白垣は白掛で土砂崩れでむき出しになった崖という風に書いたことがある。それらしいものが無さそうなので、後日訂正しており結局何を意味するのか解らない状態である。
江戸時代の清水村は白屋垣、清水、片瀬からなっていたという。
白垣は小字名にも残らず、停留所として残っている。
白粘土を採取した崖、井関家の白塀など鋳物師に関連する地名かと考えたのだが、井関家が清水村に来住した年、元和三年(綾部史談97号)の80数年前の天文二年(上林風土記)に白屋垣の地名や苗字があったとすると、この地名は鋳物師井関家とは無関係のものといえよう。
しかし粘土を採取した所は近辺にあると予想している。井関家のご主人に、近隣に粘土を採取した所がないか聞いたところ、子供時分に辻と水梨の境あたりの谷で粘土を採ったという話を聞いた。
水梨出身の方に聞いたところでは、その谷ではなく水梨の奥の方で採取したということであった。
わたしは上林の出身では無いが、子供時分に粘土の取れるところを知っていた。それは近所の者も知らないプライベートな場所であり、白粘土も採れていた。その場所は2m程度だが取り崩されており、家のものが壁土などに使用していたのだろう。
白垣バス停前、正面の樹木の向こうが井関家たたら跡である。
そのようにあちこちで粘土は採取出来たようだ。しかし鋳物師が使用した量は生半可な量では無いだろう。粘土採取地はなんらかの形で残っていようと思う。
つづく
【作業日誌 6/2】
草刈り(3-1)
今日のじょん:カイカイじょんが止まらない。
ファーミネーターによる連日の抜け毛対策でずいぶんすっきりしてきたと思うんだが、カイカイが止まらない。どうもカイカイが癖になっている気がする。あるいはブラッシングのしすぎで、肌が荒れているのかも知れない。てなわけでファーミネーターの回数を減らすことにした。自然に近い方が良いだろうから。
いつでもどこでもカイカイカイ。