古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

栃錦と大内山の名勝負

2010年02月12日 05時24分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 制限時間いっぱいになると朝青龍は利き腕の左手でまわしを力を入れて叩き、塩に手を伸ばします。そのときにらむように遠くを見ます。あの一瞬の集中力と勝負での瞬発力。そしてふだんの善良そうなモンゴルの人の笑顔。モンゴルの大草原にはあの笑顔が似合います。そして彼の人柄を伝えます。品格がどうの、格式がどうのといった小言を吹っ飛ばすいい笑顔です。
 大相撲となるといっぱい思い出があるのですが『栃錦と大内山の名勝負』にふれます。ぼくが高校生の頃でした。栃錦はまだ大関でした。横綱は吉葉山・鏡里・千代の山・東富士の時代です。大相撲で新聞は盛り上がり、栃錦ファンだったぼくは千秋楽の大内山との対戦の日、ラジオにかじりついていました。テレビのない時代です。志村アナウンサーの実況放送にじっとすわっておれなくて、立ってラジオに耳を寄せて聞きました。自分の胸の高鳴りが聞えるように興奮していました。大内山の突っ張りに耐えて栃錦が首投げで勝ち、わけもなく部屋を飛びまわりました。
 あの興奮が大相撲の醍醐味です。
 七勝七敗で千秋楽を迎える転落寸前の大関が、果たして勝つか負けるか。くだらん。相手がなんと九勝(も!)している大関。がっぷり四つに組んだ長い相撲。ついに勝ち越し、来場所も大関に踏みとどまる。そんなの八百長に決まってる。
 そんなことに拍手するために庶民は相撲を見るんじゃない。そもそも負け越して何度も角番になるヨタヨタ大関なんて相撲美学に反する。早々に自ら引退すべきです。そんな大関が何人も居着いている大相撲なんてとっくに潰れているところでした。朝青龍が一人横綱を張っていたからなんとかつづきました。
 久島海が上がってきたとき、土佐の海が上がってきたとき、武双山が上がってきたとき、立派な横綱になるぞ! と期待しましたが駄目でした。
 朝青龍は亡くなった元横綱・琴桜にかわいがられ、彼も慕っていたそうです。彼が親方だったらよかったな。もし栃錦(春日野親方)が親方だったら。「力のある紳士だから力士という」というのが栃錦の持論だったそうです。心身をしっかり鍛えられて大横綱になっていただろうな。
 もう一つ。疲労骨折をしてるのにモンゴルでサッカー? 『疲労骨折』は『骨折』ではありません。不祥事として何度もテレビに映りますが。100キロ超の力士が力いっぱいぶつかり合う大相撲と遊びのサッカーを同一視しないで。あれは中田英寿に頼まれて親善のためにやった遊びです。いまさらなにを言っても空しいですが。
 ぼくの中の大相撲はおわりました。
 
 
  
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