昌平君(しょうへいくん)(紀元前271年-紀元前223年)は中国戦国時代の楚の公子。姓は羋(ビ)氏、字は熊。緯は啓。楚の考列王と秦の昭襄王の娘の間に生まれた。昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子・完(後の考列王)と昭襄王の娘の間に生まれた。という事なんですが、各国同士で政略結婚が頻繁に行われていたので、事が起きれば即人質は生贄になってしまう傾向にありますね。人質になって他国に行くという事は、死と直結しているという事ですね。
姓は羋(ビ)氏という事は、嬴 異人の実母の夏太后の姓も羋氏ですね。も楚から嫁いできて、実子の嬴 異人も趙に人質として出されていました。嬴 異人は後の荘襄王(そうじょうおう)となる訳です。日本だったら普通、皆親戚同士の人質交換みたいなもので、お互い隙あれば相手を滅ぼすなんてことはないと思います。
昭襄王44年(紀元前263年)、春申君が太子完を楚に逃がすと、華陽婦人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育された。後の子楚(しそ)が呂不葦と仲の良い李皓鑭を譲ってもらいその時腹の中に後の始皇帝・政がいた訳ですが、政が横暴なところがあり夏太后がとても忌み嫌ったとありますね。とこの話は置いておいて
(紀元前249年)、秦の朝廷に出仕。秦王政元年(紀元前246年)、秦王 政の時代に御史大夫となり呂不葦を補佐。秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父の昌文君(公子顛)と共に鎮圧した。秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪毐の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相となった。
秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦(おうせん)が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。
また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓 王安を処刑してこれを完全に滅ぼした。このために楚の旧都郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。
秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬(もうてん)率いる20万の秦軍が楚の首都、郢(えい)(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。
秦軍が寿春に迫ったとき昌平君がいる郢陳(えいちん)で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍、項燕(こうえん)の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた。秦王政24年(紀元前223年)、異母兄弟の楚王、負芻(ふすう)が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、王翦・蒙武に敗れて戦死した。
因みにこの項燕は項羽の一族です。項 燕(こう えん、Xiàng Yān、生年不詳 - (紀元前223年)は、中国の戦国時代末期の楚の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。楚の将軍項彬(こうひん)の子。西楚の覇王、項羽とそのいとこ項荘(こうそう)の祖父にして、項梁(こうりょう)・項伯(こうはく)の父。項伯は項羽と叔父甥の仲。
とまあ、こんな流れでした。
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