
(承前)
さて、中山峠周辺には「森の美術館」関連以外にも野外彫刻があるので、二つを紹介します。
一つは台座に「北門開拓 現如上人之像」と大書された大作の人物像。
これは、明治初期に「本願寺道路」あるいは「本願寺街道」と呼ばれる、現在の国道230号の原型にあたる道路の開削を政府から命じられ、難工事に尽くした、浄土真宗大谷派東本願寺第二十二世、現如こと大谷光瑩の像です。
台座には「頌徳文」と題し、次のように刻まれています。

「設計、制作」として「大淵陽一 藤庭賢一」の2人の名が刻まれていますが、筆者は知りません。
題字揮毫は町村金五で、当時の道知事です。
現如の背後には、苦難の多かった道路開削の様子がレリーフで表現されています。
彫刻の左手には「現如上人銅像の由来」と題した石碑が立っています。
かなりの長文ですが、全文を紹介します。
(なお「札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)」というページにも、双方の全文がひいてありますが、誤字だらけですので注意願います。また、札幌市南区のサイトが、歴史的ないきさつを知るのに、参考になります)
さて、中山峠周辺には「森の美術館」関連以外にも野外彫刻があるので、二つを紹介します。
一つは台座に「北門開拓 現如上人之像」と大書された大作の人物像。
これは、明治初期に「本願寺道路」あるいは「本願寺街道」と呼ばれる、現在の国道230号の原型にあたる道路の開削を政府から命じられ、難工事に尽くした、浄土真宗大谷派東本願寺第二十二世、現如こと大谷光瑩の像です。
台座には「頌徳文」と題し、次のように刻まれています。
現如大谷光瑩上人ハ東本願寺第
二十一世嚴如上人ノ法嗣、明治
三年二月勅命を蒙ッテ京都ヲ出
発、一百余名ノ部下ヲ率イテ本
道ニ渡リ新道切開、教化普及、
移民奨励ノ三大目的達成ニ粉骨
碎身努メラレタ、今回上人ノ北
門開拓百年ホ迎ウルニ當リ、上
人十九歳ノ英姿ヲ刻ミ、永ク遺
徳ヲ顕彰景仰スルモノデアル
昭和四十二年十月八日
現如上人銅像建設期成會

「設計、制作」として「大淵陽一 藤庭賢一」の2人の名が刻まれていますが、筆者は知りません。
題字揮毫は町村金五で、当時の道知事です。
現如の背後には、苦難の多かった道路開削の様子がレリーフで表現されています。
彫刻の左手には「現如上人銅像の由来」と題した石碑が立っています。
かなりの長文ですが、全文を紹介します。
北海道に於いては道南の一部を除いては昔か
ら道路というものは全く無かった 幕末になっ
て幕府は国防上の見地から 漁業関係者に命じ
て海岸の難所にだけ道路を造らしめた
明治元年(一八六八)新政府は 北海道を早
急に開発するという基本方針を決定した これ
は北方から外国が侵入する危険を憂慮した国民
多数の与論を反映したものである さて北海道
を開発するについては 道央のサッポロに中央
官庁を設置すべきであるが、内陸には道路が無
い そこでサッポロへの新道切開きが北海道開
発第一の急務となった しかし新政府には収入
が乏しく これを実行するための財源が無い
新政府は東本願寺に懇請して来た 宗祖親鸞聖
人は「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれとおぼ
しめすべし」と申された その精神を継承する
東本願寺は世界の平和と仏法弘通のため 新政
府の懇請を承諾し「新道切開 農民移植 教化
普及」の三要素を柱として 北海道開発事業に
着手した
山岳重畳する内陸に新道を切開くことは難事
であるが 工事完成に要する膨大な資金を短期
間に集めることは一層の難事である 東本願寺
は十九才の若い現如新門主を総責任者とし 明
治三年二月京都本山出発より一行が通過する東
海、東山 北陸、奥羽の東本願寺門徒に寄付を
依頼した そして京都より引率した僧俗一百数
十名の外 仙台支藩の武士や多数の人々の協力
を得て 明治四年七月新道完成 直ちに官庁が
札幌に開設され それを中核として北海道の開
発は急速に進められた
新道は太平洋側の有珠から中山峠を経て札幌
に至るもので 札幌と凾館とを結ぶ最短距離で
ある のち地方費道に編入され 更に国道に昇
格 多額の国費を以って大規模に改修され 現
在年間数百萬人に利用されている
昭和四十四年(一九六九)現如上人の渡道開
教百年に当り 上人を始めこの工事にたずさわ
った多くの人達の労苦に感謝し その功績を顕
彰せんがために 真宗大谷派北海道教区は僧俗
の浄財を以って因縁深き中山峠に この銅像と
レリーフとを建設した次第である
なお銅像建設工事並びに護持については地元
喜茂別町の支援を蒙ること多大である 記して
謝意を表する
(なお「札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)」というページにも、双方の全文がひいてありますが、誤字だらけですので注意願います。また、札幌市南区のサイトが、歴史的ないきさつを知るのに、参考になります)
(この項続く)