消えない記憶
満州の原野に送るというクロバーの種を出来る限り集めることが夏休みの宿題であった。石狩川の堤防を歩き炎天下、クロバーの種を集めていたのは、敗戦の数日前8月の初め、小学校6年生の夏であった。
6人家族の家にいたのは母と私だけ。父は満州、兄は学徒出陣でアッツ島へ、姉二人は工場や農家にくり出されていた。空襲警報!低空飛行を繰り返すB29におびえ、夜はローソクの火で食事をした。何を食べたか覚えていない。美味しいものを食べたいという願望も勿論なかった。
数日後広島に原爆が投下された。何が何だか理解できなかったけれども、光を吸収する黒い洋服は放射能で丸焦げになるので本日より皆白い洋服を着ること、という学校からの命令があった。上級生の私は各自の玄関前にたつ下級生を拾って、長い1列を作って登校していた。全員綿の入った防空帽を背中にしょって無言で歩き、校門の横にある二宮金次郎の銅像に「礼!」と号令を掛け、最敬礼をして校内に入った。なぜ?という質問が許されなかった当時、皆静かに従った。先生と言える尊敬に足る人物は探してもいず、体操時間で男の先生は生徒の耳を引っ張って生徒を動かしたり、遅い子を皆の前に出して二人の頭と頭を力一杯ぶつけあうようなことを平気でやっていた。21歳の若い受け持ちの女性の先生は気にいらない子供がいると後ろから頭を机の上に思い切りガーンと額をたたきつけるようなことをしていた。いじめはいつの時代でもあった。
8月15日敗戦の日。校庭に全生徒が集合し天皇陛下の玉声を直立不動の姿勢で耳を傾けた。
戦争が終わった。
「戦争をやめよう」と言えた人がいたことに感動した忘れえぬ日であった。
1946年、最初の原爆の成功を祝う祝賀会での原爆ケーキ。1980年代、ミセス連載用の「大統領の食卓」執筆でワシントンの国会図書館でリサーチしていたときだった。
初めて見たこの写真にショックを受け考えさせられた。 頭が帽子のスタンドになり、人類を震撼させた原爆もケーキのサブジェクトになる。
飽食も戦争もあってはならない。
初めて見る「原爆ケーキ」の写真に背筋が凍るほどの衝撃を受けました。
人々の普通の幸せを考える時、戦争なんて絶対ありえません。
エノラゲイの最後の飛行士もなくなり、現代の若者は「戦争を知らない子どもたち」の子どもたちになりました。平和ぼけと言われても仕方ないのでしょうか?
ほとんどの人が戦争反対と思っていても、いつかこの声さえもあげられなくなるのではと、ふっとそう遠くない未来を懸念します。
もっと、世界の平和に関心をもちたいです。
まちがった方向にいかないように。