小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

[瞥見・ 外国から見た日本の摩訶不思議]

2007-11-27 23:51:34 | ニューヨーク暮らしの日々

日本語読めないの?
 
日本に帰ってくる度に驚く事が沢山ある。 思いやりシートと書いて
ある電車の席は若い人が足を広げて眠りこけている。 若い人の前
に立っても目が合っても、何も感じないらしい。勿論立ち上がろうと
しない。 多分日本語が読めないのだろう。いや読もうともしないし、
意味も分からないのだろう。 若者は座り続け眠りこける。この若者
たちが年取る頃は思いやりシートなどなくなるのかも知れない。
 まだ思いやりゾーンと書いてあるうちは救いがあるのかも知れない。

 広告の餌食になっている

 ”趣味・女磨き”などと言う驚くほど大きな広告が堂々とあるのも不
思議。 勿論化粧品の広告である。売れれば何でもやる日本。どこ
かがおかしい。

電車は我が家のバスルーム?
 電車の中でお化粧、付け睫毛をつけをつけている人、念入りに鏡
で顔をチェックしている人が多いのも摩訶不思議。何処に行くのだろ
うか。ナニを考えているのだろうか。男性はその様な女性に興味を
持つのだろうか。多分持つからやっているのだろう。 睫毛の長さが
女の勝負、化粧の巧さが魅力だとしたら、とても淋しい。家をでる前
に自分のイデタチもマネージも出来ない人たちが公衆の前で堂々と
恥じらいもなく化粧をするのは摩訶不思議。

意見をいえない日本人
 3人集まれば公共の場。悪口を言わないのが常識。否定的な意
見では口角泡を飛ばす。 建設的な意見は沈黙する。誰かが何か
を言い出すまで何も言わない。 会が終わると喧々諤々皆やかまし
く発言する摩訶不思議さ。

即答出来ない日本人
 よいか、悪いか、好きか、嫌いか、やりたいのか、やりたくないの
か、イエスかノーを即答できる人が少ない。みんながやるなら私も
やりたいと思う。違う事を言うのを大変恐れているのだろうか。

有名度、名声、ブランド製品に弱い日本人
 お馬鹿さんでも有名度があれば、たいした者になり、ブランドもの
は高いほどよく売れる。 ”グッチ、プッチ、ネコも杓子もディオール。
どぶ板またいてサンローラン” とは30年前にはやった言葉だが、い
まだにその言葉が生きている不思議経済大国日本。 誰も価値観の
判断をしたがらない。いまだに包装紙の美しさ、あげ底文化の日本、
体裁ガ物をいい、庶民はウサギ小屋で物に埋まって暮らしている。
そのストレスにも気が付かない平和さは怖い。

威張る人がいる日本
 
勲章大好き、イディ アミンのごとく勲章をつけたがる日本人が多
い。中身を評価しないのでみな肩書きにおぼれている。


友人の死から学ぶ

2007-11-23 23:35:33 | ニューヨーク暮らしの日々

金井佐枝子さん

 佐枝子さんは1965年、私がニューヨークで住み始めた翌年、知り
合いの弁護士から頼まれて私のアパートに移り住んだ生まれてはじ
めての同居人である。人畜無害、空気のような気にならない人柄。
 ある日長椅子に横になる彼女は 「胸が痛い!」という。驚く私に
「恋って胸が痛くなるんだねえー」とぼやいた。
「胸が痛くなるような片思いは,殆ど
失恋するよ」と脅かした。
「そーか!それじゃやめた!」と立ち上がった。
 一年の後帰国の途中スイスで日本の好青年に出会い結婚した。

 数年後日本に帰国の際、二人の子供の母親になった佐枝子さんを
訪ねた。ポニーテールに金の腕輪とネックレスをていた4歳の長男は
私と会うなり「オメーはヘンな顔してンナー!」とドスをきかせていった。
4歳の子がどうしてヘンな顔が分かるのだろう!
「オメーこそヘンな顔してるじゃねーか!」というと「なんだとォー!」
とドスの抜けた声で言った。その頃ベランメーが流行っていたらしい。
 十数年が過ぎ佐枝子さんは私の企画していた“ニューイングランド
の暮らしの文化を訪ねる旅”に参加し日本からやってきた。その時は
肺気腫のやまいが進行しつつあり、できる限りゆっくり一緒に歩き楽
しい10日間をともにした。その時から既に15年の月日がたった。

 今年の10月14日、佐枝子さんの夫からの電話で佐枝子さんの死
を知らせられた。11月4日上野の文化会館で彼たちの結婚の仲人
であった大賀典雄さんの指揮で、ヴェルディのレクイエ
ムが演奏され
るので二人の息子と同席しないかとのお誘いであった。
 ちょうど日本に帰国する予定だったので何か運命的なものを感じた。

 日本に帰り、佐枝子さんに捧げられた演奏会、レクイエムを家族と
もに聞く事が出来た。演奏の後、家に招かれ、食事を共にし、本郷の
結婚式を挙げた教会での追悼式のヴィデオを見せていただいた。

 「佐枝子は愚痴る事もなく、最善を尽くし、病気と闘った日々でした。
明日からは、佐枝子が築いてくれた素晴らしい家庭・家族と共に、
佐枝子が喜んでくれるような人生を歩みたいと思います。」
と語る佐枝子さんの夫の弔辞に感動させられた。

 
また同級生の読み上げた弔辞で
「~最後に、佐枝子ちゃんにサヨナラは云えません。いつもの佐枝子
ちゃんとの挨拶です。佐枝子ちゃん、元気でね。風邪を引かないよう
にネ、またね」・・・

 夫から家族から、友人たちからも愛された佐枝子さんの死は私たち
の心の中にきらきら光る水玉の様に大切にしまわれていくことだろう。
 佐枝子さん、どこかでまた逢う日までさようなら。   


「第6回砂浜美術館キルト公募展」にあたって・2007年11月

2007-11-16 20:51:44 | キルト

  美しい自然と素朴な人たち

 
高知県黒潮町土佐入野の駅を降りると駅前広場の柱に子供たち
の可愛い絵が柱一杯に書き込まれていて思わず立ち止まります。
 
赤い柱、黄色い柱、鯨や魚やコーヒーカップまで書かれています。
創作の意欲とアイデア、協力して皆で作るもの、作り出す楽しさを指
導する土地の先生と子供たちのアイデアが長旅の疲れを癒します。
そしてこの町は面白そうという印象を旅人に与えます。
 「砂浜美術館は建物がありません。美しい砂浜が美術館です。館
長は鯨です」この砂浜美術館のコンセプトは其処に行ってみて初め
てこの意味が納得できます。
 
 私が「砂浜美術館の潮風のキルト公募展」の審査をしてから第6回
目を迎えました。 今年は天候にも恵まれ、遠路ほかの県からお越し
下さった方たちや子供たちも参加して賑わいました。満開のラッキョウ
の花畠を前に、風にそよぐキルト。バックは入野の松原、その後ろは
太平洋といつもながら舞台効果は満点でした。 アメリカンキルトがヨ
ーロッパと違うユニークなところは質実剛健さと地域の協力精神を代
表していることです。お互いに助けが必要であった開拓時代の相互扶
助がアメリカ精神の真髄です。村人が集まって作る納屋の棟上はキル
トのパターンになりましたし、地域の協力精神はキルトビー(集まって
働き蜂のように働くこと)に代表的なアメリカの地域社会を見ることが
出来ます。
 もう一つの大事なポイントは寝室を美しくすることですが、日本の
住宅事情は近代国家、経済大国にも関わらず、暮らしの中でも最悪
な状況です。キルトを飾る余裕もスペースもないのが実情でしょう。
にも関わらず、世界に誇れる日本のテキスタイルの伝統が、その伝統
を証明するかのようにキルト創作が浸透したことは本当に嬉しいことで
す。 そのよい例が中島三枝さんの魚のデザインキルトです。

 ミシンキルトですが日本の布地で魚の陰影、立体感を見事に表現
しています。図鑑にあるようなデザインですが見れば見るほど繊細で
日本人でこそという作品で、アメリカに帰ってから誇らしくアメリカのキ
ルターに見せたい思いの作品でした。 現代的なよいデザインもあり、
中でもが子供たちには教える人の意欲とセンスが作品に反映され、

教えることの大事さを教わります。子供たちの行動は指導する先生
次第で変わるものだと信じています。
 このたびは巧さよりもキルトビーを子供たちから発信できる事を願っ
て、また皆で子供たちを見守るための意味を込めて子供の作品に
大賞がいきました。賞金の使用はまったく自由ですが、子供たちの
反応から大人が子供たちの社会意識を育てていけたらと願っていま
す。  キルトの公募はファインアートの公募と違います。暮らしのエッ
センスを網羅したキルトへの表現は無限で、限りない可能性が潜んで
いるところが人々の心に触れるのでしょうか。 2008年は砂浜美術
館の20周年だそうです。関わる皆さんの熱意で継続することの素晴
らしさをニューヨークにつながる太平洋を見ながら思うことも人生の幸
せと感ぜずにはいられません。

参考:砂浜美術館  http://sunabi.com/
        凸版印刷       http://www.toppan.co.jp

        ペンテル        http://www.pentel.co.jp

  


「アメリカが誇るシェーカーの伝統」

2007-11-14 20:35:18 | ニューヨーク暮らしの日々

シェーカーを知っていますか?

 1774年、イギリスのマンチェスターからアメリカにやって来たアン
リー(Ann Lee) はキリスト教の新派クエーカーから別れ、シェーカー
の創設者になりました。
 
シェーカーは宗教は勿論、ユートピアの共同体を作ることが理想で、
独特な暮らしの規律を持ちます。仕事と信仰、男女平等、忍耐、純
潔、清潔、平和主義、精神性と機能性が合致したシンプルな暮らし
と経済的に労働で独立する事がモットーでした。19世紀のはじめ信
仰と仕事を共有したシェーカー村は4,000人のメンバーに増えまし
た。南北戦争以後は減少しだし、1900年には1,000人程度の信
者となり、独身主義のため後継者が育たず、現在はメイン州に残る
わずかな信者だけになりました。

 しかしシェーカーの残した遺産はその顕著なスタイルで現在でもシェ
ーカースタイルとして影響を及ぼし特にシェーカー家具はコンテンポラ
リーなライフスタイルにもあい、最も高価なものです。

 必要のない装飾を取り除き、機能性を追求し、極限美に達したシプ
ルなライフスタイルはモダーン ムーブメントが起こる150年前に確立
していたのですから驚きです。


 シェーカーの残した建築、家具、生活用品、ライフスタイルのすべて、
アート、サイエンス、クラフトマンシップ、ビジネス、音楽、教育、政治、
医学、農業、商業などアメリカの歴史上最も大きな影響力を持ちまし
た。数箇所に残るシェーカー村は現在歴史保存地区として保存され、
暮らしの美術館として公開されています。200年前建てられたハン
コックにあるシェーカー村は当時から旅人が清潔で端正、村を通るだ
けで豊かにオーガナイズされた様子は旅人たちに感動を与えたという
記録が残っています。
 その感動はその昔、日本家屋に住んだ日本人の暮らしのスタイル
と共通なものがあり、感動を新たにします。
 アメリカの友人が言いました。「日本の家屋はなんと醜くいのでしょ
う!しかし京都の二条城で、日本の建築の美しさに感動させられまし
た。日本人の精神を感じました」 と。
 シェーカー村を訪ねると日本人なら郷愁に似た共通の精神を感じる
に違いありません。
 メトロポリタン美術館には常設のシェーカールームがありますから
是非チャンスがあれば見てください。

写真は先月の終わり、シェーカーのハンコック村を訪ねたときのもの。
ハンコックは1783年より始まり1830年には3,000エーカー
(約360万坪)に300人が住んでいました。
参考:Hancock Shaker Village:  
www.hancockshakervillage.org