小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

『日本のもの作り:匠の世界と誰でもできるアメリカン手作り』

2012-05-28 12:30:10 | ものつくり

匠の世界と誰でもできるアメリカの手作り

 アメリカに長く住んで、アメリカのフォークアートに心が温まりました。キルトは、誰でも作れます。ものつくりは下手でも個性に満ちていれば人の心を満たしてくれます。

 当時の新しいアメリカでは、マスターという先生もいません。学校もありません。そのうえ、材料も充分にはありませんでした。できたら皆で集まり見せあって楽しみました。当然、集会は教会や野原で行われました。
 
上手にできた人には、持ち寄りのアップルパイやパンプキンパイやクッキーを分かち会いました。そしてどうしたらこの集まりを利用して、家族やコミュニティに貢献できるかを考えました。まさに開拓精神の原点です。
  病める人に、皆でキルトを作って贈ろう。西部に移動していく人たちに、思い出と感謝のしるしとしてキルトを贈ろう。教会や学校の資金調達に、キルトをオークションで一番高く買ってもらうシステムを作ろうと考えました。
 アメリカの土地に足をおき、風雨をしのぐ自分たちの住む家を、自分たちの手で作りました。家を持つことは移民した人たちのアメリカンドリームの一つです。ベッドの上には色とりどりの布をはぎ合わせてベッド掛け、キルトが作られました。ベッドの足もとにはラグが、暖炉の前には隙間風を防ぐための個性豊かなフックド・ラグが作られました。

 入植から100年、アメリカ人の暮らしは豊かになり、産業革命によりアメリカ国産の安いコットンプリントが手に入るようになりました。ニューイングランドにはコットンやウール工場が林立し、ヨーロッパからの高い輸入税を払わないでも賄えるようになりました。

 果たして、アメリカではどれくらいのキルトが作られたのでしょうか。平均一人が7枚のキルトを持っていたといわれています。当然、来客用のキルトや、結婚用の特別に手の込んだ美しいキルトも作られました。ラグも作られましたが、靴で踏まれる運命のため残っているものは少ないのです。
 家に必要なものはまずテーブルとベッド、その次の投資はベッドカバーでした。因みに、ジョージ・ワシントンの遺産相続リストにも、ベッド掛け、キルトが記されています。 家を美しくするためにキルトやフックド・ラグが作られた理由は、これらがアメリカを知るための重要な“暮らしに根を下ろす” ”美しく暮らす“ 証でもありました。
 
 アメリカが豊かになってからは、キルトもデザインが競われるようになりました。商品として作られたものではありませんが、当時のキルトの良いものは1990年代からほとんど美術館所有かヨーロッパのインテリアデザイナーに買われ、国外に流出してしまいました。日本の浮世絵やテキスタイルの型紙が、国外流出したのと似ています。
 似ていないことは、日本のアートからインスピレーションを得た西欧人たちが、絵画や建築をはじめ、あらゆる用の美の美術表現に、独自の時代を築く発想の基となったことでしょうか。

 『アメリカンキルト事典』(小林恵著 文化出版局1982年)に掲載した500枚のキルトは、現在殆どが美術館に所蔵されています。キルトが見直されアメリカ人がアメリカに驚いたのは1970年の初めからです。洗濯が難しいこともあり不潔の塊のようで、引っ越し用の家具の保護用に使用されていました。
 アメリカ人の血の滲んだキルトが日本で何百人もの人がキルトを作り社会現象をおこしたのは皆さんご存じの通りです。女性のもの作りで、キルトほど日本の女性たちが熱を引き起こしたものが、果たして他にあったでしょうか。しかし、残念なことに発表する情熱はありますが、殆どのキルトは次の発表のために押入れに眠っている現状だそうです。

 帰国して日本の匠の世界、伝統の深さに感動している日々です。精根を傾け、時間をかけ匠の世界に集中している作家や職人さんたちが現在もいるのは凄いことだと思います。時間と収入が合わなくても精進するのは、武士の伝統でしょうか、日本人のユニークな点だと思います。

 繊維、布地の伝統も世界を抜いています。産業界でも感嘆する優れたアイデアの繊維が日本で制作されています。

 伝統ある裂き織も、ひとたびアイデアを得ると、美術性の高いものが作られています。織物のメソッドを教えらなくても自然にわかっているのは、伝統のたまものと思います。日本は、技の世界でもの作りのメッカだと思います。いつの日か、バウハウス(Bauhaus)のような、理論や生活哲学をも教える世界的レベルのデザインスクールが日本にできれば、個人的匠のもの作りからさらに世界のインダストリーにも影響を与えることになるでしょう。それが技を後世に伝えくれた多くの昔の作り手たちへの感謝の証しであり、最高の鎮魂歌になるのでないでしょうか。

                                                    谷中にて  小林 恵


写真左より)8代大統領のほか、当時の有名人たちの署名をもらってキルトを作った署名キルト。ホワイトハウスでのリンカーンの就任舞踏会でリンカーンとホワイトハウスで踊る作者、中心。このドレスの布地もキルトに縫いこまれています。その右が古い写真でぼけていますが作者晩年の写真。リンカーンの署名には ”あなたのサ-バント アブラハム リンカーン 1860年” と署名されています。このキルトは1976年、アメリカ独立200年祭の時ライフマガジンに掲載されたものです。ロングアイランドに住む孫が保存していて、このキルトはNHKの世界手芸紀行アメリカ編に収録しました。誇り高いハリソン家でインタビューができ、その後アメリカを代表するキルトとして現在メトロポリタン美術館の所有になっています。
         
                                                           ネクタイキルト
  
   署名キルト                        アメリカンキルト事典出版当時、”キルトと人生”の映画製作者パットフェローロ(当時サンフランシスコ大学の教授)近くのNY自然博物館でドキュメンタリーとして表彰された時、サンフランシスコからNYにいらしたパットと、滞在中の山岡久乃さんと共にわが家で。1983年
       
 2011年、紅白のキルトのコレクターの誕生日に夫が彼女にNYのアーモリーで展覧会開催をプレゼント。
アメリカ最高のインストレーターに依頼し豪華な展示でニューヨーカーをアッと言わせ、無料で公開されました。

    
アンティック アメリカン フックド・ラグ: 足おきサイズのラグはベッドの下、暖炉やドアの前などにおかれて暮らしに彩りを加えました。 穀物袋を芯地にして廃物利用のウールで自由なデザインで作りました。仕上げにアイロンをかけると100%ウールはフエルト化してほどけなくなり、大事にすると100年以上は持ちます。 

 「アメリカン フックド・ラグ」小林恵著には歴史・作り方などくわしく紹介しています。日米交換のラグ展も日米ともに3度開催しました。1968年から帰国する度に池袋西武や新宿朝日カルチャーで、教えてきました。最初からの参加者であった。当時三菱重工業の故有吉熙様は小さいサイズですが、3点完成させ展示にも参加しました。
 お亡くなりになるすこし前、いただきましたお手紙には

「船舶や世界のブリッジを作るのが私の生涯の仕事でしたが、私の手で作ったラグを見て孫が ”お爺ちゃま有難う” といってくれました。手と手がつながることは、かけがいのない喜びでした。また展覧会には小学校の同級生までがきてくださり、心が温まり手作りでつながる人生の素晴らしさを知り本当に倖せでした。」と。
 アメリカ展示の際、この最後のお手紙を会場で読み上げると大拍手がおこりました。
 手作りの素晴らしです。


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 この記事は日本の匠の世界を世界に発信していらっしゃる縄文社の横山裕子さんの御好意でに伝統のないアメリカのクラフトを紹介させていただきました。日本の手仕事のサイトと重複しますが、日本の匠の世界を知る素晴らしいサイトですので、どうぞお気にいりに登録していただけましたらうれしいです。
http://www.handmadejapan.com/index.html
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  お知らせ:

小林恵のフックド・ラグ スタジオ
“誰でもできる“のがアメリカンコンセプトです。初歩から、自分が作ったラグに感動してしまうコツを教えます。
材料:リサイクル平織のウール100%。残布、セーター、ジャージーなども使用可。2時間クラス。毎月最終日曜日 13.00 p.m.~15.00 p.m.
問合せ:keikobayashiny@gmail.com 

 小林恵のラグデイ(初心者、経験者を問わず、自由にラグ作りを楽しむ教室)
  
毎第3水曜日、11.00a.m.~3.30p.m.
  
問い合せ:ホームスパン 電話:03-5738-3310  原又は稲船

          


母の日に想うこと

2012-05-10 14:16:53 | 暮らしのジャーナル

                   母とニューヨーク

82歳の母が初めての外国旅行、ニューヨークにやってきたのは1972年、私がニューヨークに住み始めて8年目の年であった。姉二人を付き添いに連れて緊張して降りてきた母は、声が出ないほど疲れていた。旅行に出た末娘がそのままニューヨーク二住みついたのだから、この目でどんな生活をしているか見たかったのだろう。

25年間住んだ5階のアパートで、日本に帰ってくるように懇願していた母の言葉も聞く耳持たずにno-no-noと聞き流していた。親の気持ち子は知らずとは本当のことだ。大志を抱いていたわけでもなく、毎日が楽しくて楽しくてという理由であった。
 
アメリカの友人が別荘に招待してくれた。その家はかってシャガールが住んでいた家だった。
家を買った時、壁紙をはがすとシャガールの手書きの壁紙絵が出た来たという大きな家であった。雪が降っていたので、車から友人は母を大事そうに抱き、暖炉の前にひざかけをかけてくれた。
父に抱いてもらったことなどまったくなかったから、興奮して硬直している母をみて、娘たちは転げまわって大笑いしていた。

今はなき貿易センターのトップレストランの二人テーブルで手を握り合うカップルを見ないように、
(見ては失礼なので)まっすぐまえを見て私たちのテーブルに着いたのも,とても可笑しかった。

歩くのが遅いので向かいのシニアセンターで無料の車椅子を借用し、母を乗せてセントラルパークを横切ってメトロポリタン美術館に連れて行った。クリスマス頃の美術館は満員。途方に暮れていると声がかかった。「皆さん!オリエンタルのオールドレディを通してあげましょう」と交通整理をしてくれた。母は「ありがとうございます」と皆に手を合わせ会釈し、絵画は全然見ず部屋中がスマイルに
包まれた。

母が亡くなった時も取材旅行で日本に帰国できなかった親不孝者。偶然のチャンスで今、谷中に住んで朝は御経と鳥の声でめざめ、毎日お寺巡りであけ暮れる日々。日蓮宗の母がいたらどんなにか喜ぶだろうと当時は想像もできなかった現在と、自分が後期高齢者になって、母に悪いことをしたと心底、情けなくなっている今日の母の日である。

      
     皮張りであったパスポート。母は”この御経を何時も身につけていなさい” と言った。”読めないなーとぼ
     やくとすべてに仮名を振ってくれた。左の母の手書きの般若心経は72歳位から94歳まで毎日書き続け
     棺をうめた。
                   
     
     19世紀女性のおこずかいは極小。10㌣と5㌣を2枚重ねてはいる。大切にシルバーのケースに入れて
     女性たちは持ち歩いた。当時女性はレストランには入れなかったので5㌣で食べ放題の屋台の蛎とか
     ハマグリの立ち食いは女性の楽しみであった。そのケースに入れた母と私。持ち歩きはしたことがない。
     左)ブレスレットと指輪はイタリーにいった時の母への御土産と時計が好きな母に贈った懐中時計。ネジを
     まきすぎてすぐゼンマイが切れて壊れたけれども、耳が遠くなったので、耳元で確かめ、
いつも枕許におい
     ていた。二つ目を買ってあげなかったのが悔やまれる。