小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

カレル橋の思い出

2016-09-05 22:56:31 | 七夕東京

 1976年の夏、私はこの橋の上でニューヨークの友人に渡す秘密の手紙を託されました。

         
 チェスラフスカの死を悼んでジャーナリストの中森康友が撮影したプラハの春の写真です。当時中森さんが撮影した写真です。1964年東京オリンピック開催前に私はニューヨークから世界一周の旅に出ました。東京オリンピックでチェスラフスカは「オリンピックの名花」と称えられ金メタル3個もとり、その後チェコ民主化運動で活躍した人です。1976年この夏。アームストロングが月を歩いている写真に世界中がアッと驚き、ウイーンは号外新聞で沸いていました。

 私はウイーンでニュースを聞き、ウイーンからプラハ~オランダ~パリへと行く途中でした。まだ民主化されていないチェコは限定付きでチェコ内で250ドルを使用すること、所有外貨を点検する、指定のホテルに泊まることなど制限がありましたが検閲付きでツーリストは入国できました。ウイーン以後に回るヨーロッパで使うお金は靴下の中に入れ運動靴の紐をがっちりと結びました。当時国連に働いていた外交官夫妻と一緒に張りめぐされた鉄条網の中で牙をむいた軍用犬がわんわん吠えている国境を通り,マリア テレシアがウイーンとプラハを往復したという美しい並木道を通って中世そのまま、夢のようなプラハに到着しました。そしてこのカレイ橋の上で友人と一緒にチェコの友人と会い、ニューヨークの友人に渡してほしいという住所の書いていない封筒を渡されました。手紙は皆検閲されている時代でした。美しいカレイ橋の上でスパイ映画のようなスリリングな経験をし、当時まだ貧しかった文化の街、プラハで分厚い熱々の揚げたグリエーチーズとビールが美味しかったことを覚えています。

 チェスラフスカはチェコの民主化運動を支持し、「プラハの春」はもう遠い昔の話になりましたが、中森康友さんの写真は歴史を物語り、昔を思いだし少し感傷的になった午後でした。

中森通信:mo.nakamori@wine.plala.or.jp をご覧ください。



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2 コメント

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プラハに… (morisumi)
2016-09-14 21:06:38
社会科の授業でチェコスロバキアと憶えていた国がチェコとスロバキアに分かれているのを知ったのは 四万十100キロマラソンのボランティアをした18年前…チェコとスロバキアの招待選手と知りあった時でした。恥ずかしながら その時は社会的な背景は何も知りませんでした。今は美しいプラハも40年前は暗い町だったと聞いたことがあります。。。偶然ですが この秋 プラハに行くことになりました。
   ※アームストロングは1976年ではないのでは?
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カレル橋の思い出 (小林恵)
2016-09-14 23:09:57
であ澄子さま、1969年ニクソン大統領の時でした。
もう半世紀も前のことですね。
プラハは美しい街ですよ。ぜひ今もあるのでしたら人形劇を見てください。子供相手ではないのです。ひどく感動したことを覚えています。美しい時計台を作った職人はどこにも作られない様に眼をクり抜かれたという時計台も今もあると思いますから広場にいってくださいね。権力って美しいものも作りましたが、本当に残酷ですね。
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