小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

富岡製糸工場(1872年)vs:マサチュウセッツ・ローエルの産業革命(1825年)

2014-07-15 17:19:13 | 暮らしのジャーナル

 どの時代でも日本の普通の人が身に付けた技術は素晴らしい。アメリカはアイデアがすごい。しかし体制が崩れるとどうなるか。世界が共有する悩みである

明治時代の産業革命の遺産、1872年、近代日本の基礎を築いた富岡製糸工場、上流社会の子女も女工になり、施設の中には高級で雇われた外国人のワインセラーもあり、豪華な住宅がついていた。しかし、産業化される前は普通の人は蚕から糸を紡ぎ、絹織物を織っていた。しかも地域的にも様々なデザインがあるのもすごいことだ。 

着るということ、織物の重要性は衣・食・住とあるように重要性の割には織る人、その技術や社会的地位は長い間疎んじられてきた。しかし、日本人の着物の歴史が織物を知らない人でも両袖を引っ張るとピンと着物姿が美しくなる。織物は幾何学的な思考が必要だ。美しいものを作りたいと考える能力は日本の伝統に育まれれていると信じている。

一方アメリカでは50年以上先駆けて1825年、マサチュウセッツ州のローエルがアメリカのモデル工業地区となった。ハーバート大学卒業のフランシス カボット ローエルは1817年、テキスタイルの産業化を考えクラスメイトに投資を依頼したとき、「よろしい。素晴らしいアイデアだ」と皆がそれぞれ500ドルを投資。「もしも失敗したら返金は無用。成功したら利益の半分をいただこう」といった。

利益は労働者に還元したいというローエルの民主的理想は彼の死で友人たちが引き受け、1823年マリメック河の水力を利用し、一大産業地区を確立し、テキスタイルによる産業革命が始まった。ニューイングランド知らずしてアメリカを語るなかれと言われるように、そのスケールには感動させられる。ほとんどが農民であった女工たちは高給で雇用され、教育も受けた。雇い主が女工たちと信仰と自由民主の精神を共有し、レクチャーにリンカーン、エマーソン、ホーソンなど有名な知識人たちが講演に出かけている。

驚くことは女工たちが5年間にわたり雑誌を刊行していたこと。南部の奴隷たちが摘んだコットンで布地を織り、自分たちだけが高給をとるのはどこかがおかしいと労働問題まで関心を持ち発言していたことだ。

のち筍のように林立した工場の大量生産と価格競争が始まり。労働人口として移民を歓迎したため貧富の差が生じ、現在南部のコットン畑は大豆畑となりコットンは中国に委ねだれている。

ニューイングランドには今でも網の目のように繋がるカナルと150年前の5階建て建物がいたるところにあり、地下室にある1本の太い心棒が水力で回り、ベルトで調節し各階の機械別にエネルギーを送っていた。歯車はすべて鉄と木の手製である。

現在はアートギャラリーやスタジオに利用されている。