小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

谷中のお寺と桜

2013-03-24 16:40:40 | 東京の日々

桜・さくら・サクラ

 桜は日本人の血だ。春を待ち、桜前線のニュースに耳を傾けその土地をおもい、桜の咲く日を待ちわびる。
”桜の咲くころあいましょう” とデートの約束をした友人たち。
待ちに待った桜なのにアットいう間に雨に濡れ風に吹かれて散っていまう。
来年こそは必ず会いたいと心に誓う。

 束の間の美しさを愛でるのも日本的なのかもしれない。そして歩いて、立ち止まってみるのが一番ふさわしい。
豪華に咲き、車で ” うわーッ ! なんて素敵!” と車でアメリカの豪華版ドライブも悪くないけれど、ゆっくり歩きながらちらちら揺れる枝や
緩やかに落ちる花びらの下で桜を見上げる時も、なんと幸福な瞬間であることか。

 朝早く谷中のお寺と桜を見に行く。お墓と桜はとても相性がよい。グレイのお墓もこの日を待ちわびているのだろう。
お墓が華やぐ日だ。人生を全うした人たちをめでるにふさわしい華やいだ桜墓地。鳥の声さえ
もはずんでいる。

 毒婦と呼ばれて斬首された笠森おせんのお墓にも、桜が揺れる。好きなことをして消えていったおせんを許しているようだ。
人生を思い人生をめでるにふさわしい桜。今咲き誇っている。

 






谷中より湯島天神までぶらり散歩

2013-03-17 12:30:03 | 東京の日々

 


東京で最後に残された富士山が見える唯一の谷中の富士見坂をのぼり、諏訪台通り,観音寺の築地塀から路地のお寺やお地蔵さんをのぞきながら芸大まで散歩。
季節により雰囲気はがらりと変わる。冬にはお地蔵さんの毛糸の赤帽子から春になると布地のぼうしに代わっている。とても日本的な人の優しさがうれしい。


路地をくねくねと曲がり湯島天神までぶらぶら歩く。おびただしい数の合格祈祷の絵馬やおみくじ。希望を託して下げたり結んだり、日本的な造形美がある。
お寺の聖語版を見るのも好きだ。今日は井上靖。本当にそうだ。心の中で手を合わせる。早咲きのしだれ桜が優しく揺れている。


近くの岩崎邸まで歩く。正面までの石垣、石の並べ方の匠さに石の接点をずっと見ながら歩く。すごい。棟梁以下無名の名工がいたのだろう。
じゃりが引かれた歩道には丸筒が並べられている。美観と合理性の融合。日本はありがたい国だ。


春まで一本の花に藁のこもを掛けて寒さから守るのも日本ならではの風景。東北大震災でお弁当を配られたとき静かにみな1列に並んだ日本人のことが驚きを持って
アメリカの新聞に書かれていた。しかし、この通り、子供の時からきちんと並ぶのもの伝統なので日本人は驚かない。


散歩しながら感心したり、学ぶことが多く、小さな教訓かもしれないけれど私には小さいことではない。
今日もすがすがしい散歩であった。


 




 

 

 

 


街並みは街路樹と街燈で少ないお金で美しく変えられる

2013-03-07 13:15:03 | 暮らしのジャーナル

  日本には優秀な建築家がたくさんいる。一般の市民には高値の華。どこかがおかしい。

美しい日本はいたるところにあるのは嬉しい。しかし計画のない街作り、美しい日本とは言えないところが多いのはとても不思議に思います。

 どうしてこうも醜くい家ができるのだろうかと疑いたくなる通りが多いのはどうしたことでしょうか。
余算がないばかりではなく、建てる人、住む人の美的感覚または関心が欠けているような気もします。
 施工者、建築家の予算のせいばかりではなさそうです。

  ある日散歩していた墨田川べりに建てられたホームレスのバラックの屋根の上には墨田川で釣った?数匹の子魚がざるに入れて干してあり、
入口には花の鉢植えもあり、靴もそろえてありました。立ち止まって眺め、こういう楽しさは日本だけで、外国のスラムでは見られない光景です。
ほとんどの世界中のスラムはひたすら不潔です。貧乏と不潔はイコールでないハズです。

 日本人は土地を買うと自分の自由、玄関もあちら向き、こちら向き、建築材もなるべくお隣に迷惑をかけないように美観を考えないのもないのも残念なことです。
フランスのように壁の色も許可がないと好きな色には塗れない規約がある国。文化大臣がマルローだったりする国柄です。
イギリスの近所の庭の花々はうるさいほど公共の感心ごととしてみなが注意していますし、オランダでは窓のガラスが汚いと近所の人が注意をするほどです。
しかし窓は誰でもすぐ磨けるように窓ガラスは上下が回転式になっています。建築規制があるのだと聞きました。

 どうも日本は規制がうるさくてとみなさん言いますが、個人の暮らし向きにはそうでなく、自由のはき違えではないかと思われる日本の摩訶不思議の一つです。
コンサルタントを雇って教えられるより、独立精神と自由には何事も責任があることを子供の時から教える必要があります。

ニューヨークでは美しい街燈と街路樹は市とコミュニティ、その通りに住む人たちのヴォランティアと寄付でマネージしています。
春になると一斉にその通りの街路樹のまわりに同じ花が植えられ、その通りを歩く人をハツピーにいてくれます。
しかしすべての通りがそうでなく、リーダーシップと住民の心意気、協力の関心度を示しています。    


ニューヨークセントラルパークの街燈                              ユニオン スクエア(マンハッタン14丁目とブロードウエイの交差スクエア)

マンハッタン、ダウンタウンハドソン河沿いにつながるが街燈。             マンハッタン ウエスト、ハドソン河沿いに続く街燈

 
谷中、富士見坂のチャーミングな街燈

 谷中がどういうところか、富士見坂も知らずに住みはじめまいたが、富士見坂の街燈や文豪の町と書いた街燈があるうれしい街です。中野通りの街路樹や東京のところどころにある
街路樹は人々をハッピーにさせてくれます。街燈の間隔が短いほうが町の個性を印象づけてくれます。
公だけでなく市民の協力で街路樹や美しい電燈がずらりと並べられれば、醜い家も少しは美しく見えると思います。
 衣、食、住は原始時代から続いたアイデアで近代では住,衣、食、または住、食、衣が幸せを作る条件でないでしょうか。
誰でもそう思っても、経済大国と思っている日本人の普通の人たちの住まいが貧しいのは文化国家の人には信じられないことでしょう。
「ウサギ小屋に住んでいる日本人」とフランス人に言われたとき、ほとんどの日本人は、自分の努力ではできないので傷つきましたが、50年たった今も大半の人はスペースの余裕が
なく暮らしています。
 独立精神、自己形成は考える住まいの空間と自然空間が必要条件だと信じています。それが政治に反映されないのは寂しいどころか摩訶不思議と思うのです。