小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

上院議員ダニエル井上の死

2012-12-23 14:29:30 | ニューヨーク暮らしの日々

最高の名誉

 ハワイ出身の民主党上院議員 ダニエル井上が12月17日88歳の生涯を閉じた。
棺は国会議事堂の中心に、アメリカの星条旗がかけられて安置された。特に移民や日本人を含め、
時代の移り変わりに感慨無量であったとおもう。
私も感動しながらニュースを眺めた一人である。

 マイノリティの人たちの正義の味方、紳士的で心に残る彼のスピーチは定評があり、ハワイの移民2世議員として文化交流や日米の架け橋に献身的に働き、
アメリカ歴史上もっとも高い地位に就いた。しかも最も長期にわたり上院議員を務めたアジア系アメリカ人の政治家である。ハワイから立候補58年の
政治生活中、一度も落選したことがなかった。

 日本が真珠湾を攻撃したとき、志願兵として二世部隊で働き、ドイツ戦線で胸に弾丸があたったがシャツのポケットに入っていたコインが一命を救った。彼は一生その
コインを持ち続けたという。
 イタリア前線で右腕を失い麻酔薬なしで腕を切った。第2次世界大戦中の勇敢な兵士に贈られる賞も受賞している。
1950年ハワイ大学で政治学と経済学を学び1952年ジョージワシントン大学のロースクールを卒業した。

 彼のスピーチは穏やかで人の心をつかみ、いつも感銘するヒューマニズムが根底にあった。
 オバマ大統領は青年の時、彼のスピーチに影響を受け、マイノリティのリーダーになりたいと決意したそうだ。国会議事堂でのダニエル井上の葬儀で、
オバマ大統領は棺の横で感涙にむせんでいた。
                       
                   フォード劇場でのリンカーンの暗殺          議事堂におかれたリンカーンの棺         リンカーン大統領の葬儀行進        マッキンレイ大統領 の暗殺                            


 議事堂に棺が置かれたのはリンカーン大統領(1865年4月19日・暗殺)、ジエムスA. ガーフイルト大統領(1881年7月2日・暗殺)、ウイリアム
マッキンレイ大統領(1901年9月6日・暗殺)、ケネディ大統領(1963年11月22日・暗殺)、ジョンソン大統領(1973年1月24日)、フォード大統領
(2006年12月30日)、などでダニエル井上上院議員の棺が議事堂におかれたのは歴史上31番目であった。

 アメリカでは子供たちに「勉強すれば、あなたも大統領になれます」と教育される。人生の終末で歴代の大統領が棺のまわりで尊敬と哀悼を捧げる
儀式も、子供たちがみれば ”波乱を乗り越えた夢ではない人生”の感動を教えるアメリカの暮らしのエッセンスになっている。


 

 


ニューヨーク ウエスト69丁目のハローウイン

2012-10-28 08:00:29 | ニューヨーク暮らしの日々

          家族・コミュニティ 老いも若きも犬も、おむつ世代も皆で楽しむ愉快な日

              
        69丁目のウエストサイド、町会で決まったハローウイン ストリート、天心爛漫 で愉快な舞台
         装置といえる。制作、演出、出演まで家族中で工夫し、おむつ世代から参加している。
         ニューヨークの劇場では観衆が大騒ぎして喝采するのもアメリカ人の血なのだろう。
         何事も参加しすることで興味がわいてくる。小さい時から教える楽しい暮らしの教育でもある。
             

                 

                
        
         一家で楽しむ。「俺は仕事でいそがしい」 とはいわない。一家でプレゼンテーションを考える。
         自分も人も楽しませることに参加し、発想を競う。

             

            

            
        人を立ち止まさせるアイデア。ウム。横の人形が電気仕掛けで動く。 

                       
             色彩的に美しいディスプレイ。次の日見せたくて友人を連れて行くと切りおと
             された首が盗まれていた。その次の日「首紛失」の立札が置いてあった。

           

              

             


ニューヨークの友よりの手紙

2011-06-29 12:52:24 | ニューヨーク暮らしの日々

ちずさんの父の生涯


 親愛なる恵さんへ、
 
 いつか貴女に私の父のことを話したと思います。恵さんは大切な歴史の1ページだから書き留めておくようにと提言してくださいましたね。でも長い間、私の心の傷跡を書く心境にはなりませんでした。

 しかし、岡田充さんのサイト「21世紀中国総研:海峡両岸論」を読んで私の心の傷跡を、父の人生の傷跡を3人の子供たちと孫たちに書いておく必要があると思い、私のファミリーでもある小林恵さんに読んでいただきたくてメールいたします。

 それは1949年11月のことでした。今も鮮明に記憶しています。中学3年生の学期が
始まろうとしていた頃でした。父は召使と共にKaoshiungから漁船に乗って沖縄に向いました。私たちは沖縄に向かったことだけを知ってっていましたが、沖縄の小さな島だったかもしれません。

 父は砂糖の大袋二つと中国語を教えるために中国からやってきていた私の中学の先生から、金の延べ棒2本を借り船に積み込みました。その先生は私たちの母屋の後に住んでいたのです。彼は数年後、コミュニストスパイとして捕えられました。
 1949年11月以降、私が大学の3年生になる1958年まで父の消息を聞いたことはありませんでした。
 
 ある日、私の大学の寄宿舎に父のメールが届きました。父は香港にいること、沖縄にはいけなかったことを知りました。大学卒業後、私は特別許可をもらい香港に行きました。父との再会は1949年からで10年後のことです。父の一番上の兄は理由もなくKMT(特察)につかまり刑務所にいたので、家族が発見されないようにとの計らいで居場所は教えられませんでした。
 ある日父は香港で台湾の友人と偶然会い、私がTunghal Universityの寄宿舎にいることが分かりました。政府登録によると私の父は行方不明となっていました。カーゴ船で2晩3日の旅の後、香港で1959年7月20日、父と再会しました。
 父の話によると、漁船での沖縄上陸は不成功に終わりました。台湾に戻るとき台風に遭遇し、マカオに着くまで50日間漂流しました。その漁船には17~8人乗っていました。父の砂糖を食べ水がないのでみな自分の尿を呑んで生き延び、マカオに着いたときは歩くこともできませんでした。 しかし、果物を食べて力を付け上陸しました。捨てられていた腐ったオレンジでしたが本当に美味しいと思ったそうです。

「何人生きのこったの?」と父に聞きました。父は「絶対にこの質問はしないでくれ」と眼を閉じて言いました。
 その夜、父はナイトクラブに連れて行ってくれ、夜中じゅう酔い、フロアに倒れるほどダンスをし続けました。それから4ヶ月間父と香港で一緒に過ごしました。そして台湾が何とかして父を救い出し、助けると約束しました。
 しかし香港から台湾への帰国申請は理由なくすべて却下されました。私は嘆願申請を書き続け、21年後の1980年にやっと受理されました。父は31年間自分の国に帰れなかったのです。その理由は私も父も分かっていません。

 父は12歳で日本に留学し、日本で教育をうけました。私の家はTaochung市でもよくしられていて中国国家としては邪魔者だったのでしょう。又は台湾人であった理由かもしれません。

 私は神様を信じ、台湾を愛しています。台湾に神様のご加護がありますように。
そして日本にも。

ありがとう

貴女のベストフレンド、千鶴より


(47年間ニューヨーク在住ののち、日本に帰国し違う国に住むことの意味、日本にいた時は考えたこともない自分の国のこと、天災と人災、戦争のこと、差別のこと、
いろいろの経験がオーバーラップして、考えさせられる日々をおくっています。千鶴さんのメールから運命とだけでかたずけられない、リーダーシップのことをも考えずにはいられません。
千鶴さんの英語のメールは私の翻訳で責任は私にあります。
優秀な孫の Keven Scanlans は今年からペンシルバニア大学で中国語を専攻するとのことです。小林恵)


参照)
元共同通信社の記者で台湾問題を書き続けているスペシャリスト
http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_22.html  
22号2011年6月2日発行
岡田さんの記事を読んでこのこと手紙として書いておくことを決心。東日本大震災で沢山の人を失いましたが、人災と天災、そして政治を考えさせられる問題です。


参照)
千鶴さんの夫、張超英さんは台湾と日本のために生涯を通して献身的に働いたジャーナリストです。
張 超英著:「台湾をもっと知ってほしい日本の友へ」中央公論社 1998年
敬愛した超さんは2007年3月ニューヨークで他界しました。
超英さん一家とはNY滞在中、私にとって最も親切な家族で、30年以上に及ぶ交友があります。

「小林恵のNY通信」:「張 超英さんと愛国心」   2007-03-29
              「張 超英さんの死」     2007-03-08
                        「やさしい言葉」        2007-02-08


「日本で思うこと」

2011-02-11 00:44:17 | ニューヨーク暮らしの日々

「過去と今」 日本でおもうこと
 ニューヨークのアパートから、中庭ごしに見えるカソリック教会の美しい眺めはどんなにか私の暮らしを豊かにし、創造力を育んでくれたことか。

 1902年に建てられたローマンカソリック教会の青銅とスレートの屋根に降る雪。
屋根の上に登る三日月。霧ににかすむ屋根。雨に濡れる屋根。 屋根の上の空。雲。
そして夜、大きい薔薇窓のステンドグラスが暗闇に美しく輝く時、ニューヨークで住んでいる幸せを感じる。
人々の日々の暮らしから、生きざまから日々感激することが多く、やりたいことがたくさんありすぎ47年が
夢のように過ぎていった。

 ところがふとした運命的なご縁で谷中のお寺の前にある一軒家をみてすぐ帰国を決心、その6ヶ月後に
私は日本に住むことになった。
窓から眺める景色はない。しかし谷中はお寺の町。しかも日蓮宗のお寺が多い。熱心な日蓮宗の信者で
あった母から般若心経や日蓮のことを聞かされて育った子供時代を考え、不思議な思いに浸っている。

「日本のやさしさ」


 ここ数日地図を片手に谷中を歩く。森まゆみさんの“谷中スケッチ”(筑摩書房)を読む。
副題はー心やさしい都市空間ー 
江戸のある町。日暮らしの里。寺、寺、寺。坂と路地。この地区がこれほど古い町とも知らず、もちろん歴史も知らずなので驚きも抜群!散歩も退屈しない。この町の住人で駅の向こうのことはほとんど何も知らない人がいるという嬉しい町だ。これからどっぷりと浸っていこうと思う。

 お寺の門をくぐると一番近いところにお地蔵さんが並んでいる。檀家の誰かが作ったのだろうか。
新しい帽子と前だれ。お花も添えてある。やさしい日本の風景だ。色あせたぼろぼろの赤い帽子、
風化して繊維だけが残っている前だれもある。みな実にいい顔をしている。誰が彫ったのだろうか。
一人前になるには6年ぐらい山での石の切り出し仕事、仏の顔がうまく彫れるようになると
石工は近いうちの死ぬ、仏が呼ぶのだという言い伝えがあったとか。胸が打たれる話だ。
谷中の美しさは、死ぬまで精進した人たちの作った町といえるのだろう。

「日本の戸惑い」
 半世紀近く日本を離れていると自分証明のためにどこでも印鑑が必要になる。
「え?自分を証明するために印鑑が必要なの?印鑑が本人より重要なのはなぜですか?」
「はい、規則ですから。サインでは認められません。ハンコは100円均一でで売っていますよ」
という。100円で自分を証明しなければならないのはおかしいことだ。ハンコ1つで財産も動く。
 21世紀、ハイテックを誇る日本での摩訶不思議の一つだ。
 

 お知らせ:
ホームスパンにて 小林恵を囲んでラグ デイ 開催
初めての方、続行したい方、集まっていろいろな方の才能を伸ばしお互いにラグ作りを学ぶ集まりです。
ラグを作りたいあなたが主役です。
問い合わせ:ホームスパン 原、稲船まで, 03-5738-3310


「”サーモンの川のぼり”」

2010-11-12 22:18:30 | ニューヨーク暮らしの日々

時の流れ

 1昨日 映画プロデューサー, ディーノ デェ ロレンティス(Dino De Laurentiis)が91歳で亡くなった。1980年代に作られたハンニバルシリーズはいただけなかったけれども、私の青春時代を彩った忘れられない白黒映画、ヴィツトリアガスマンとシルバーナマンガーノの“苦い米”、
1954年に作られたフェリーニの ”ラ・ストラータ”や 1956年の ”カリビアの夜”など500以上の映画をプロデュースし、イタリアンフイルムのニューウエーブをを世界に確立した人だ。

 シルヴァーナ マンガーノと結婚し、孫娘 ジアーダ デ ロレンティス は現在食専門のTVに登場するイタリー料理のスターで、マンガーノとよく似ている。
 思い出して特記したいことは、1986年にニューヨークのコロンバス アベェニューにオープンした彼のイニシャルを取った高級グルメ殿堂、DDLがオープンしたことだ。
 彼が「グルメはこれからの世界を支配する」と予言した通り、現在はグルメの塊、グルメ団子という商品名が生まれるのではと思うほど、何がなんだか分からないグルメが普及している。
 刺身など生魚には回虫がうようよしているとニューヨークタイムスが書きたてた無知時代はどこえやら、得体のしれない国籍不明のすし屋はニューヨークのいたるところにできている。
 DDLオープン当時はニューヨーカーは時代の幕が切って下ろされたほど豪華グルメにショックを受けたものだ。
ローマのグルメ殿堂そのまま、どちらを見渡しても無言の感嘆詞がこぼれた。
 キャッシャーにはシルバーナマンガーノが立っていた。地下の調理室は牛1頭が調理出来る大きさのスチールテーブルがあり、その下の床には水の流れるとよがあり、調理道具の素晴らしさにも感嘆させられるものだった。
 しかし彼の先見あるヴィジョンは25年以上早すぎ、客は見るだけ、数年もたたないうちに閉店した。ちょうどニュースクールで大学のカリキュラムで学ぶ最初のニューヨークレストランスクールに行っていたときだったので、DDLがアパートから近いこともあり、通い詰めていた。映画のニューウエーブといい、グルメのニューウエーブといい、彼が亡くなり ”何事も早すぎでも失敗する”という教訓を得たが、グルメ時代を先駆けた凄い人だった。

 疲れると頭の切り替えに通ったのがラルフローレンのマジソンアヴェニュー、72丁目のお店。
その前はキッチンウエアのアンティック店だった。1967年にローレンがデザインした太いネクタイ
がブルーミングデールで大ヒットし、その後43年間もずっとファッション街道をまっしぐらに歩んでいる。最近オープンした店の向かいにあったマジソンアベニューのホームファニッシングの階はアメリカンアンティックがモダンにアレンジされ、才能と創造力の可能性を膨らませてくれる店だった。
 最近息子が参加し、ロンドンとニューヨークに豪華モダンエレガンス店をオープン。
サイバースペース、インターネット、ケーブル、印刷、ソーシャルミデアすべてを駆使したデジタル
マーケッティング、“アート&テクノロジー”をファッションから発言。
 私の20代に雑誌ハイファッションが誕生し、パリのデザイナーのエレガンスが輸入されて興奮した時と同じような時代を変えるエレガンスを感じ、エレガンスを忘れた現代ファッションの未来への可能性を提示している。4階から階段を下りながら店内をみるのもハッピーなひと時をすごせる。

 時代の流れを作った人の死や、子供に受け継がれアート&テクノロジーを駆使したデジタルユニバースを築いていく進行形のデザイナー、ラルフローレンの豪華なお店から帰り、
いま私のながいニューヨーク生活の月日を考えてみる。

 忙しい渦の中で今日とあしたを考えて暮らしたNYの暮らしは後悔なく本当に面白い。 
どこで暮らすか、これからの日々を考えながら、見知らぬ外国に飛び立った時と同じように希望と夢に燃えている。
 
 年を経て、サーモンの川のぼりよろしく、また日本を行きつ戻りつを続けるだろう。イクラのように背中一杯に子袋を背負って、これから出来ることをどこにいても精一杯やろうと思っている。


お知らせ
小林恵コレクション「アメリカ人形展」(1830年~1930年までアメリカ人形史)
会場:銀座ミキモト画廊
日時:2011年11月7日より28日まで

ラグデー:毎月1回ホームスパンで開催:11時~3時半まで 自由参加 (やれば誰でも出来る集まり)
問い合わせ:ホームスパン ℡:03-5738-3310    email:homspun <
hara@homspun.com>

 

 

 


「セントラルパークのウエディング」

2010-10-14 22:40:29 | ニューヨーク暮らしの日々


 季節がよくなるとウエディングが多くなる。セントラルパークを散歩しているとどこかで第2の人生を記念するカップルに出くわす。”すてきだわ”と声をかけると、幸せな笑顔と ”ありがとう!” と弾んだ声がが返ってくるのもすがすがしい。
 すぐ別れても特別なことでなくなった今、気まずい思いをさせないように、 ”末長くお幸せに” などとは言わないほうがよいそうだ。ーおめでとう!- だけが一般的とか。
 いろいろなところで、いろいろなレベルの人がウエディングの記念写真を撮っている。友人だけで小さな個人的セレモニーはどこでも無料で許可なしというのも、解放された素敵なアイデアだ。ただし、お米を投げたり。テントをはったり、敷物をひいたり、椅子や拡声器の持ち込み、ローソク、飲み食いは厳禁。人気のある場所を特に決めたい場合は、かち合わないために予約が必要とのこと。
申し込んでも公共の場所なので、ブロックすることはできない。馬車は最初の20分間は$50.00(馬車単位)10分増すごとに$20.00増し。

 パークで一番人気のあるところは105丁目の5番街入口から入るクラッシックガーデン、コンサヴェトリー ガーデン(Concervatory Garden)。ここだけは何時も特別に手入れをしているので、一か月前に使用許可をとる必要がある。セレモニーがかち合わないために許可が必要。使用料$400,00、写真許可$100.00。
(
http://www.centralparknyc,org/site/pagenavigater/events.weddings)

 そのほかの場所は20人以下の集まりはどこでも許可も使用料もいらない。もし必要ならば、衣装、パーティ、結婚証明書、神父様、または付添人、ウエディング ブケー、ボタンホール用、デラックス リムジンの用意、カメラマン、ホテル、パーティなどすべてをマネージしてくれる会社もある。
またはパークに問い合わせ:centralpark.com/pages/activities/weddings.html

 どこで写真を撮っても絵になるセントラルパークだが、レディース パビリオン(Ladies Pavilion), シエクスピアピアガーデン(Shakespeare Garden、シーダー ヒル(Cedar Hill), ボー ブリッジ(Bow Bridge), チェリーヒル(Cherry Hill), ベセスタ テラス(Bethesta Terrace), ベルベデア キャッスル(Belvedere Castle), ストローベリーフイールド(Strawberry Field)などがお勧め処。

 結婚証明書が必要な方、その他の質問はweddings@cntralpark.com へ。

 
    
          105丁目5番街入口のコンサバトオリでのウエディング。
  
   写真左・中・レディースパビリオン。            写真右・モール

                 写真左・中・右ベセスタ テラス               
ストローベリー パーク     チェリーヒル湖畔   セントラルパーク72丁目で出迎
      
              チェリーヒルにて、靴に注目!         
   
                   花嫁と父親側一行
           
         


チェルシー画廊巡り:11~12番街の24丁目~26丁目界隈

2010-10-02 23:01:29 | ニューヨーク暮らしの日々
                     チェルシー地区
 
8番街の30丁目あたりから14丁目までの5番街のウエスト地域を大きく分けてチェルシー地区という。オリジナルにはブロードウエイの23丁目、22丁の西側、7番街、8番街~10、11,12番街までの地域をチェルシーと言っていた。14丁目から36丁目まで昔の鉄道高架線がハイランドパークになり、14丁目には汽車もビルの中まで入ってくるナビスコの昔の大工場が今はチェルシーマーケットになり、多くの食ベもの番組はこのビルの中で撮影されている。1830年ごろから開発されえた古い地域で、グリークリバイバル、イタリア様式、ジョージアンなどミックスした建築が見られ、現在は歴史保存地区になっている。11番街から12番街の24丁目~26丁目にはマジソン街の画廊がグリニッチビレッジに移動し、土地の高沸に伴いチェルシーに有名な画廊が移動してきたのが、この界隈の画廊の始まりだった。昔の倉庫が見事に修復され、個性豊かなスペース、天井の明り窓など最適な画廊となっている。昔は飛び石を渡るような数だったが、今な軒並みに素晴らしい画廊が集まり、昔のマジソン街の画廊よりもぐんと楽しい地域となっている。
  
ハイランドパーク、昔の汽車の高架線の下はファッションショーのエベントや素敵な臨時
バーなどできていて将来の開発が期待されている。(写真右)
昔の倉庫の明りとりの天井が格好のデザインになっている。(写真中、右)
  
(写真左)画廊の玄関前に猫がライオンの代わりを勤めている。本当に動かないのでおかしかった。  
  
 数年前までネガティブなミックスミデアの展示や”これがどうした”というような石ころをならべたものや意味のないものが多かった。 上はこれも彫刻。不思議な面白さがあった。靴の飾りは中国の獅子舞の頭がついている。
  
 チェルシーの画廊はほとんどが新人が多いが、ガラス作品アーチストのチフリの”物”でないアートガラスの展示は素敵な試みであった。ガラスの花の芯に明りがつき意表を突いた作品。                 
 左、中写真の作品は横から見ると立体に見えるが平面彫刻。
  
写真左・昔の何かが作品のように見える。写真中・用事がないと行くことがない12番街のストリート、昔の倉庫。写真右は大きな暗い画廊に下がっていたシャンデリア。すべてナイロンのパンティでできている。アートとは?議論は尽きなく、創造も果てしない。試みる人、それを提供する人もいて、アメリカは常に変化している。

「ニューヨークを歩けば」 ダウンタウン散歩(1)

2010-09-26 16:58:00 | ニューヨーク暮らしの日々

            2nd Avenue~Bowery~Elithabeth Streetの界隈

 暑さの後の快適な天気は散歩に限る。昔は ”どうしてニューヨークはこんなに快適な青空が毎日広がるのだろう” と不思議に思うほど快適な天気が続いたものだ。一日中雨が降ることなどめったになかった。
 地球が泣いていることを世界中の人たちが身をもって感じた今年の暑い、熱い夏だった。
 
 秋分を期して美しい日が続いている。今ユダヤのお正月。不思議なことにユダヤ人のお正月は必ずと言ってよいほど晴天になる。「天文学者が計算した上でお正月をきめたことなのかしら?」と云うと「そうね。だって選民のやることだもの。当然だわ」とユダヤ人の友人は笑った。
 ダウンタウンを目的なしに2時間半ほどの散歩を楽しんだ。古い町はいろいろの建造物があり個性もあって面白い。特にニューヨークの建造物はいろいろな様式を改良しているので退屈しない。記憶しておきたいもの、変化しているもの、修復された建築物、新しいレストラン、落書き、アートなど、いつ来ても何かが動いている。 それは皆で分かち合いたいと願う名もない人々の試みであり、主張であり、街壁はキャンバスにもなる。2時間半のダウンタウンの散歩は変化していくニューヨークの記録でもある。
 皆生きている。みな頑張っている。何かしなくてはいけなくなる。街角から勇気をもらうニュー
ヨークだ。

  
ハウストンとバワリーのアップタウン側の壁面はキース・へーリング(80年代)が有名になったところ。(写真右) 現在も歩くたびに立ち止まるところだ。このスペースはアーチストならばやってみたい憧れの大キャンバスだろう。こういう壁が残っているのも嬉しい限りだ。いづれ無くな
るに違いない。
 
                 
   ニットで覆われた車と自転車。立ち止まって写真を撮っているとどこからともまく 〝見てくれてうれしい” と声が届いた。感心なことに模様を入れながら編んでいる。オッデンバーグも感心することだろう。バワリーストリートはジャズのクラブや、庶民のバーでにぎわったのは戦争前のこと。ずっとすさんだ感じだったが、今新しいワインバーやセンスの良いレストランがオープンして変わりつつある。みな自分たちで工夫しているので、椅子もテーブルもまちまちだったり、しかもセンスがよく立ち寄りたくなる場所が増えたのも楽しい。

         
 修復された古いビルは個性があって住み心地もよさそうだ。19世紀の初めに建てられた赤いドアがシンボルの消防署は立ち止まるほどチャーミングで、まだ何か所もニューヨークに残っている。街が小さい時のノスタルジックな建物, コミュニティべースで建てられた建造物ががどんどん消えてなくなっているのは寂しい。人間同士の心地良いつながり、豊かさとは何かを教えられる。


 


「ブラックヒストリーの月、2月に思うこと」

2010-03-01 05:23:32 | ニューヨーク暮らしの日々

普通の人が歴史を変えたアメリカの力

 オバマが大統領になってから著しく変わったことがある。ブラック
アメリカンが市民権を得てか、ミデアでは少なくともTVニューキャス
ターやアナウサーもたくさん起用されだした。白人男性とアフリカン
アメリカンのカップルも特別に注目されることもなくなった。

 搾取と差別を作り上げたアメリカは、1619年から奴隷輸入が始り
半分は船の中で死亡し海に捨てれた。アメリカに上陸した奴隷は
3世紀間に1千万人を超えている。
 
 二グロセールの広告    逃亡二グロ発見者に償金  二グロオークションの家

 その間、
血をながし、家畜同様にあつかわれてきた。勇気ある奴隷た
ちの命がけのプロテストが続いても、何百年も変わらることがなかった。
奴隷はオーナーの所有物で、勇気ある者は北へ逃亡した。逃亡者探
しや奴隷調教師の職業まであった。南部11州の人口は当時、900
万人、うち奴隷が400万人、奴隷のほうが所有者よりも多勢な搾取
社会では権力と制裁がものをいう。

 歴史に残るブラックアメリカン、フレデリック・ダグラス(Frederick 
Douglass)は家系も年齢も分からぬ逃亡奴隷で、絶対的抑圧が奴
隷制度の礎石であった時代 ”私の打ち砕かれた自尊心と自信を甦
らせ、自由な人間になりたい”と、北部に逃亡。苦労の末、アメリカ黒
人の人権をを代弁する第一人者になった。
              
             
写真:フレェデリック ダグラス

 
逃亡者をかくまる北部の地下組織、アンダーグラウンド レールロード
をたどって、昼間は茂みに隠れ、勇気ある奴隷たちは夜中に北へ北
へと逃亡した。(逃亡保護を知らせるためにドアの前にキルトが目印
として下げてあるという話しはフォークローで実証はないらしい)奴隷
法によると逃亡奴隷をかくまった人も、
見のがした人も制裁された。
 2月は信じがたいアメリカの歴史を再認識する月である。
 奴隷廃止宣言をしたリンカーン大統領は、就任中殆どの月日を南北
統一のために働き、戦争が終了した1週間後に暗殺された。南北戦争
で死んだアメリカ人は62万人、手足をなくした傷病兵5万人。同胞を
敵とし、向かい合いの殺戮でこれほどむごい戦争はなかったといわれ
ている。

 2月27日はリンカーンが就任前、ニューヨークのクーパー ユニオン
で最初の奴隷解放のスピーチ、〝国家は奴隷地域と自由地域を持つこ
とは出来ない” と熱弁をふるい観衆を魅了し感銘をよんだ。
 
写真はリンカーン: 青は北部。サウスカロライナ、ノースカロライナ、ミシシッピー、フロ
リダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、ヴァージニア、テキサス、アーカンソー、テネシー
の11州が南部。北部21州、人口200万人。    右写真:南北戦争兵士たちの死体

 ニューイングランドのどこの町の中心にも 独立戦争で果敢に戦った
兵士たちの記念碑がある。最も工業が発達したニューイングランド人が、
奴隷たちから搾取している社会の不当と、基本的人権を、提唱し出し、
普通の市民が団結して正義のために戦った。アメリカの自由は血を流
して獲得した自由であることを、日本人はもっと分かって大切にして欲し
いと思う。 坂本竜馬たちのためにも・・・
 ニューイングランドにも搾取と差別があったが、南部の人権無視とは
違った。感情で決める
好き嫌いは実は本当に厄介なことで、なぜ黒い肌
が差別されねばばならないのか、知的に考えると全く不思議なことだ。
 1960年代でもリンチがあり、黒人差別は平然として続いていた。
 リンカーンの奴隷解放宣言後も逃亡奴隷法は昔の通り、「個人の所有
物は個人の自由である」と南部は無視してきた。
 その間に
教育を受けた優秀なアフリカンアメリカンもたくさんいる。

 しかし、かつて歴史にも当場しなかった無名の人たちの力を代弁出来る
人が現れて今、アフリカンアメリカンは晴々しく市民権を得ることができる
ようになった。
偏見を変えるためには、我々アフリカンアメリカン以外の人たちの偏見を
まず捨てなくてはいけないと思う。
 無名の人たち、犠牲になった市民権のなかった人間、多くの奴隷た
ちの無言の発言の上に今がある。
 昔奴隷だった老女が テレビで 「私の生涯で同胞から大統領が出
るとは夢にも思いませんでした」 と感涙にむせぶ。
 オバマ大統領の ”チェンジ” は世紀にわたって名もなく、、権力
なしの普通の人たちを代弁する時を得た言葉だとおもう。
 血を流し、命を犠牲にして獲得したアメリカの自由です。自由のた
めに支払った魂と正義は、アメリカの底力になっています。
      
無暴力 プロテストに集まったワシントンDC.  黒人席を拒否した最初のプロテスト者          


「アメリカの流行病・肥満社会・(Obesity)」

2010-02-18 12:50:26 | ニューヨーク暮らしの日々

    太目礼讃・ボッテロも顔負けの太目アメリカ         
     

      
      写真:ミッシェル         
 教育問題で
社会貢献をしているファースト レディ、ミッシェル オバマ
は子供たちの健康食に関心を寄せ脂肪分、糖分、塩分を5カ年計画
で学校給食からコントトロールする予定。
 "月に行ったり、インターネットを発明するようなことでなく、肥満は子
たちの選択でありませんから、親たちが協力して子供たちの健康を守
りましょう”と呼びかけている。ファーストレディが子供の肥満をテーマ
に動き出したのははじめて。

 肥満はまるで流行病のように蔓延し、3人に一人は太りすぎ!
肥満体のためによる病気支出は年間117億 しかも増え続け特に
子供たち6歳から19歳まで1980年以来15%も増えている。
 子供が高血圧、コレストロール、ぜんそく、心臓病などになり、大人の
多くは糖尿病、癌などに掛かる人が増え続けている。

 
ニューヨークタイムスによると各州ともに肥満体が増え、健康保険
問題が国の話題で、肥満体の理由で生じる医療費は無視することが
出来ない。1995年以来、喫煙者は20%減少、その代わり肥満体が
48%も増えている。

 
20%脂肪分を持つ人をオーバーウエイトといい、それ以上をオビー
スト(obesity)肥満体という。アメリカの肥満体は66%。アトランタの病
気予防コントロールセンターの調査によると肥満体は男女半々。 
 第1の理由は食事。すぐ口に入るファーストフードを食べ過ぎバラ
ンスを欠いている。皆で食時をする関心が薄れ、いつでも手軽なものを
食べ、次第に満腹感が麻痺し、脳の指令も麻痺する。ランチ持参のあ
る集まりで肥満体の女性が45センチ大のピザを全部たべてしまい驚
いたことがある。


 第2は運動をしない。セントラルパークでジョッギングする人やサ
イクリングしている人で太っている人を
見かけてことがない。
 地下鉄、バスの中でも肥満体の人は何かしら食べている。
11月に地中海沿岸のクルーズに行った。85%は夫婦ともに肥満体
で、ほとんどがお肉とデザートを大山盛り食べ、朝食に卵4個の目玉
焼きを嬉しそうに食べている人もいて、見ていても心配になった。
  
 栄養価の高い日本食は粗食でもバランスの取れるものがたくさん
あり、ニューヨークのマーケットにもオーガニックコーナーにはわかめ
やヒジキ、お味噌などもあり、伝統のありがたさを日々感謝している。
 どの位太っているかというと写真はまだ動ける人で、公共の一人用
の座席は一人半から二つを占め、硝子戸の前を通ると部屋が暗くなる。
差別でなく本当の話。満腹、飽食はデカダンス、
何も起こらないことを
肝に銘じる必要が狭まれているアメリカである。

(写真・NYで太目さんを後ろから失礼したことをどうぞお許しください。)


 


「たちあがれ!」(Get Off Your Knees)

2010-01-04 10:55:58 | ニューヨーク暮らしの日々


 今年の教訓-2010年元旦に思うこと。
 1月1日、生まれつき腕も足もない人のドキュメンタリー テレビ番組
が放映された。ジョン ロビンソン(John Robinson)1968年生まれ。
腕は肘先から手もなく、胴体にすぐ短い脚が付いている。身長、1メ
ートル18センチ。40歳。
 アメリカでサリドマイドは60年代の初めに発売使用禁止になってい
るので、サリドマイド児ではない。ベビーの時の写真の可愛いこと! 
 悩んだ母親。しかし母親の人類愛的教育が始まる。

                             
             
           [Get Off Your Knees]:Syracuse University Press/Nov.2009
                    
 現在はビジネスマンとして家族を持つ3児の父親だ。妻曰く。”一日の
終わりは誰でもが疲れ果てます。しかしジョンのことを考えると私たち
の何十倍もつかれているはずですが、ジョンから文句や愚痴を聞いた
ことがありません”と。
 本人のジョンは ”自分が出来ない人間だと思いたくありません。元
気な人が当たり前と思っていることはすべて出来ます。自分がノーマ
ルライフを送れる事を幸せに思っています” とあたり前のように話す。
 子供の時からスポーツ好き。子供のころ、ある日ジョンはうつ伏せに
なってバスルームで泣いていた。
”スポーツのとき、だれも彼にボールを投げてくれないのだ”と。
それから祖
父は何時間も暗くなるまでボールを彼に投げて遊んでくれた。
テニス、ゴルフ、登山、コンピユーター、ドライブはもちろん洋服も自分で
着、ネクタイも自分で絞めることができる。
 
7歳をもって手足の補助道具をふり捨て、以後器具はつけていない。

 中学1年ですべて自分でやることを決心し、大学入学で家を離れる
までに自分のことは自分で出来るようになった。しかし、最初のルーム
イトはジョンと一緒だと毎日が心地よくないと言って部屋を変えた時、 
 ”皆が私を好きにならなくてもいいんです”
と肉体と精神を鍛えた強さをのぞかせている。
 
 講演でどのように洋服のボタンをかけるか、ズボンをはくかを皆に実
験して見せる。普通の人は考えたこともない25分間の真剣な顔。
そして聴衆に聞いてみる。
「みなさん、肘を合わせ、肘だけであなたのバックルを絞めることがで
きますか?」と。勿論誰も出来ない。

 
 「肉体の可能性を超えて生きていることを、それはやれば誰でもで出
来るという
ことを証明したかった」 と肉体を超えた、信じがたい努力をさら
りと語っている。

 身体障害者に勇気とインスピレーションを与えたばかりでなく、五体
満足者の我々に精一杯生きているかを問いかけた素敵な元旦の贈
り物であった。

 「成功の反対語失敗ではありません。やらないということです」と
語った日本の身体障害者の教師が足にチョークをはさめて黒板に字を
書いていた新聞記事をまた、改めて思いだしている。

参考:www.wmht.org/getoffyourknees  
www.syracuseuniversitypress.syr.edu/get-off-your-knees.html
 
 この記事をブログにアップしたのは1月4日のことです。その1ケ月
後の本日2月17日、上記のサイトGet Off Your Kneeを検索に入
れてみました。すでに17,700、000のアクセスです。みなさんも
ぜひ見てください。1月1日にABCから放映されたテレビのドキュメ
ンタリーが各国語に翻訳されてyou-Tube, twitter, face book,
Linked in,ABC Mewsでも映像を見る
ことができるばかりか、セラキ
-ス大学、コー
ネル大学、国の行政機関、その他たくさんのスポンサ
ーがついています。よいことへの反応の速さに驚かされます。

 日本では五体満足、正常人間で自殺する人が多いとか。
生きている意味をロビンソンさんから学びましょう。
彼の著書は11月発売からすでに150万部が売れています。

 


「オバマ ブランド クリスマス」

2009-12-24 14:13:30 | ニューヨーク暮らしの日々

 素朴さの勝利
 人種のるつぼ、人間のモザイクといわれるアメリカ、特にニューヨー
クはその縮小版でいろいろの暮らしがあり、理由も分からず、疑問を
持たずに人々の伝統や習慣を受け入れていることがたくさんある。
 とくにオバマ大統領の公平なヒューマニズムと変革は、言われてみ
れば、”まったくそうだわ” と皆も気がつき 、変革というより、なんでも
ありを自然に皆が認めて来ていると思う。ー初めての黒人大統領ー
に感動し、感涙した人々。しかし、黒い優秀な人が人がたくさんテレビ
に出て来ると白黒黄色など問題でなくなる。差別の根源など全くつま
らないものでも 「それおかしいのでは?」 と皆が言えることは大変革
ともいえる。

 「なんでクリスマスが国のホリデイなの?」「マジョリティがクリスチャ
ンだったから」 しかし 「マジョリティが必ずしも正しくないこの頃、おか
しくなーい?」
 アメリカのエスタブリッシュメントはアイビーリーグを出ること、CEO
になるためにはアングロサクソンが条件であることも崩れてきた。
どこから来たか分からない人でも優秀な人がごろごろテレビや新聞に
出てきて、彼らのユニークなアイデアを称賛するようになり、
皆の考え
方も変わってきた。有名度が説得力でないことぐらいわかっていても
ブランド名と同じくなんとなく納得させられているのはおかしいことだ。
 広告宣伝勝利のブランド物より、自分で価値観を選択する自由を認
める人が多くなったことはすごい変革だと思う。ITのコミュニケイション
がそういう時代を作りだしているのは素晴らしい。
 
 最初にホワイトハウスに住んだジョン・アダムスとアビゲールはクリ
スマスパーティで20本の薪を暖炉にくべたが部屋は暖まらずゲストは
早々と引き上げた。
 ホワイトハウスのデコレーションは次第にエスカレートし、ケネディ時代
がピークだろうか。
 オバマブランドはノンリリジャス。(無宗教)今年のホワイトハウスでの
イースターの卵探しはホモセクシャルが育てている100家族の子供た
ちが招待された様に、詩人やジャズマンなどの無名の人々を紹介する
ことで、かつてない”変革”オバマブランドが出来つつある。今年のホワ
イトハウスのツリーは過去の大統領に送られてきたクリスマスカードを
ぶら下げ豪華さを避けると同時に宗教的装飾を避けている。

 クリスマスらしさを十分に味わえる素朴なアイデアや自分ブランドの商品
ディスプレイは楽しい。クリスマスがなぜ楽しいのか。
クリスチャンでもないのになんとなく楽しむのは不思議なことだ。作られた
便乗雰囲気を楽しむ。おかしいといえばまったくおかしいことだ。
 
樹に豆電気をまきつけた豪華ストリートはどこにでもあり、カメラを向ける
と、日本の六本木のほうがすっと豪華ですべて没にした。
豪華競いは時代遅れということだろうか。

ベイグルをリボンで下げたコーヒーハウスのディスプレイとネクタイのツリー
お金をかけなくても結構楽しさを提供している。

カップケーキ専門店ではゼリー飴の鎖とカップケーキのツリー。
ホットドッグ、ハンバーガー、チーズなどのツリー用の飾り商品にも変化が。


 

 

 


「コミュニケイション」

2009-12-18 11:50:43 | ニューヨーク暮らしの日々

広告はこうでなくては・・・
 ニューヨークに住んでいる友人がマンハッタンに移ってきた。
数日して、早速コンサージュから 「お届けものがあります」 という。
 「私はまだ誰にも知らせていないので何かの間違いでしょう」
というと、
 「いいえ、あなたのアパートの番号と名前が書いてありますよ」
という。届けられたものは、シャンペンとランドリーバッグ(洗濯袋)。
 洗濯屋の名刺が添えてあり、カードには
 「新入居おめでとうございます。洗濯袋は下に御出しいただけました
らドアマンからの知らせで、すぐとりに行くようになっています。ご近所に
なられましたことを歓迎します」
と書いてあった。
 洗濯袋は小さいものだったので
「私は大きい袋がほしい」 というと
すかさず、TDバンクから届いたナイロン布地の大洗濯袋が届けられた。

 TDバンクは現在ニューヨークで大宣伝し、TVでも宣伝しているている
新しいバンクで、洗濯屋に100枚とどいたものだという。
 
この洗濯屋は近所の入居者に ”大歓迎”のカードを送り続け家族
経営で3代続いているとのこと。
 
 あまりいいこともないニューヨークの年末、ニューヨークで無料でもら
えるものは、名刺だけといわれていたけれど、名刺だって今はビジネス
マン関係のみ。先に出すのは恥ずかしい位だ。銀行がサービスしなくな
ってから久しい。銀行の入口に置いてあるものは1ページは書き続け
ることができないインクの少ないペンだけ。それも紐で縛りついていたり
する昨今、
宣伝とお客獲得を考えた人間対人間のよいコミュニケイション
だ。ちょっと手を添えるだけでうれしくなることを宣伝し、コミュニケイション
がよくなる。実はちょっとしたことがうれしいものだ。
 オバマ大統領もテレビで、
〝子供と少しでも一緒にいてあげられる父親になろう。子供時代の小さい
嬉しかったことは忘れられないものです” と家族構成の大事さを宣伝して
いる。もともと宣伝とはそういうもののはず。にくい!と思う広告にもっと
めぐり会いたいといつも思う。

ニューヨークの友人から聞いたちょっとしたいい話です。


「才能教育」

2009-12-09 03:01:06 | ニューヨーク暮らしの日々

 ー若者たちの才能を更にのばすための教育、
  英才
サマーコースー  (Vassar College)

 私のブログ、「アメリカの子供たちの英才教育」2008-8-01:
のブログで友人の兄妹が英才教育をサマーコースで学んだ話を書きま
した。彼たちがまた今年もヴァッサーに3週間のコースをとり、その結果
の話はアメリカの英才教育のレベルもわかり、彼たちの反応で12歳の
妹、14歳の兄たちの成長が読め、本当に楽しいものでしたので分かち
あいのリポートです。

 まず参考までにSIG、(Summr Institute of the Gifted) の略。
Summer Institute of the Gifted and Gifted Education Resources
を検索に入れるといろいろの大学のリストが出てきます。
Vassor Collegeをクリックするとカリキュラムが出てきますので参考にし
てください。

プログラムの概要は
*一緒に生活しながら社会を学ぶ全生徒宿泊システム。
*最高のアカデミック教育が提供され、社会的、感覚的など、大人にな
  るための想像力を学ぶ。
*アカデミックプログラムが主で、共同生活から能力、興味、決断心や
  才能を皆と分かちあうことを学ぶ。
*生徒は責任感、積極性など皆で協力し、尊敬しあうことを学ぶ。
*そのほかアカデミック、アート、リクリエイションなどの学科も用意され、
   60のコースから各75分間の授業を選択できる。またクラス後の特別
   指導学科も用意されている。3週間で寄宿料を含めて6.000ドル。
   (アメリカでも安い金額ではない)入学許可はすべての学科が95点以
   上であることと、入学
希望者のエッセイから選択され、入学が許可さ
   れる。参考:
http://giftedstudy.org

昨年このコースをとった兄妹に2回目の感想を聞いてみました。

Matthew Cocco(写真提供:Gerry Cocco & Cathy Cocco)
今年、14歳、9年生と小学6年生(来年の9月、Matthew は高校へ、
Julia は中学に入学します)
           
マシュウ, 
ヴァッサー コースの一番良いと思うところは?
 *アイビーリーグらしい佇まいで、先生たちも誇りに満ちていること。
好きな学科は?
 *好きな学科は哲学。難しいことをやさしく説明してくれ、素晴らしい
  説明で生徒同士がコミュニケイト出来るように仕向けられています。
  クラスは、話し合いからを学び、興味をそそり、もっと知りたい意欲
  を湧かせてくれます。
興味深く学んだこと、3つあげてみてくれる?
 *①高さを計るとき、飛ばしたゴルフ玉の高さで計ってはいけない。
   正確に計りなさい。
  ②実際に0も分けることが出来る。しかし、特別な条件のみ。
  ③ある者は刑務所のガードがたった一人でも、建築物をよく知り、
   機能を把握していれば逃げることが出来る。  この3つ。
大学入学には役立った?
 *ハイスクール教育よりも上級で、カレッジのクレジットをとるのは易
  しいと思えた。
毎日どんなスケジュール?
 *カウンセラーからの知らせで7.00起床。それまでにシャワーを浴び
  て起きていなければならない。朝食は7.45~8.45まで。クラスは9時
  から始まり、12時のランチタイムまで授業。午後のクラスは1時か
  ら5時まで。その後リクリエイション、休みがあり、6時ディナー。
  7時から夜のプログラムが1時間あり、その後は自由時間。リクリ
  エイションタイムは水泳、テニス、アート&クラフト、または図書館で
  過ごす。ある時はジャグラーや魔法などのパーフォーマンスもあり
  ダンスをしたり楽しみも多かった。
先生がたは?
 *生徒のことを考えてくれる教育法で、生徒によって変え、その時々
  で学ぶことが多かった。
来年も行きたい?
 *勿論。友達にも会いたいし、新しいサマーコースが楽しみ。3週間
  エネルギッシュな日々、友人とも楽しかったし、素晴らしい経験だっ
  たよ。  -Matthew Cocco-

           
Julia Cocco 12歳 (9月から小学校6年生)
なぜヴァッサーに今年もいきたかったの?
 *だってお友達や先生に約束したし・・・新しい人と逢うこと。別れる
  時は姉妹みたいになるもの。
どのクラスが一番好き?
 *代数学が断然好き。だってハリス先生はとても愉快な人だし代数
  学を楽しく、やさしく教えてくれるもの。それと、お金のマネージ学,
  化学、DNA, ディテクティブのクラスなど。
嫌いなクラスは?
 *別になかったわ。
学んだもので好きなもの3つあげてみてくれる?
 *新しいスペル・・・Polytetrafloroethelene,)( (化)重合体の一つの
  タイプ)、Deoxy-Ribo(デオキシリポ)、Nucleic Acid (核酸)などのス
  ペルを学んだこと。
次の勉強に役立った?
 *レベルの高い代数学を学んだこと。若し中学で法医学のクラスが
  あれば、たくさん学んだので ”次に進みましょう”といえるわ。
Juliaのカウンセラーのサラーは?
 *カウンセラーの中でもとても良い人。とても厳しいけれど彼女のル
  ールを破ら ない限り、好きなようにさてくれたわ。
ヴァッサーに行って良かったことは?
 *食べ物、クラス、先生たち、学究的、社会的寄宿生活、お父さんや
  お母さんと離れられたこと、素晴らしい友人たちができたことなどだわ。
やれなかったことで残念に思うことはなーに?
*何もないわ。
 ”こういうことが出来た、何をしたかではない。これからどうするかを
 考え、現在に生きなさい” は私のモットーですから。         
 -Julia Cocco-

 去年は親指を口に入れ、キティちゃんの縫いぐるみを抱いていた
Julia です。Matthewはピアノレッスンも受け、楽器が数種類こなせま
す。二人の両親は特に教育熱心で、大人と同じ会話を子供たちとして
います。
     
Matthew & Julia Cocco, Vassar College にて。

 自立することを子供の時から身につける教育です。
NY 近郊で日本の子供たちのサマーキャンプに見学に行った時のこと
です。日本学校のカウンセラーが ”子供の親たちに、別れるとき振り
向かないで帰ってください ”と父兄に注意しました。ある子供はワン
ワン大泣きし母親は子供を胸に抱き締め、ついに連れて帰りました。
母子の深いつながりだと、私がいなければ子供が可哀想だと思う母
の子供は自立しません。マシュウとジュリアをヴァッサーに送り届け
た時、ドアに入るまで見ていようとしたら二人とも、”バイバイ!” と
車を降りると直ぐに走り出し、ふりむきもせずドアに消えたそうです。
(協力:Gerry Cocco & Cathy Cocco)

 ” 将来を考えて、現在何を出来るか考えなさいがモットーです”
と言った時はジュリアを見直しました。私が小学6年生の時は戦争は
いやだ!と思って暮らしていた。その当時は大人だって自分の人生を
考えられなかったと思います。戦争が終わって過去を忘れ現在を一生
懸命働くことを日本人は自ら学びました。そのおかげで今の日本があ
ります。そのことを自分の子供たちに現在伝えられているでしょうか。




 

 

 


 


「セントラルパークの詩人」

2009-12-04 13:02:38 | ニューヨーク暮らしの日々

瞬間の美しさを作る詩人

 セントラルパークのベセスタ広場で、アフリカンアメリカンのお兄さん
がバブル用石けん水?を入れたバケツに2本の棒を差し込み、静か
に持ち上げて風船を作っている。風が風船を舞い上げてくれる。
虹色をした美しい風船が子供たちの頭の上に舞い降りてくると、子供
たちは歓声をあげ、風船に飛びつきすぐ消えていく。
 上のテラスで見ていた10歳ぐらいの子が大声で叫んだ。 
”風船を壊しちゃだめーっ!” と。それでも子供たちは風船を追いか
けて飛び上がり、すぐ消えていった。


 私の横にいたテラスの上から叫んだ子供のそばに風船が飛んできた。
彼女は飛び上がって風船に触り、消えてなくなった。
 隣の母親が子供に叫んだ。
”あなたは言ってることと、やっていることが違うじゃーないのっ!”
夢の様な虹の地球に触ってみたい気持ちもよくわかる。
 皆にこにこ微笑んで、この雰囲気を楽しんでいる。

 バブルマンのそばには、お金を集める缶も箱も置いてない。ベストの
下に縞シャツを着ている少し太めのバブルマンにテラスから降りて聞い
てみた。
”いつもやっているの?” 「うん。曇りだけれど、今日の風向きは最高
なんだよ」 ”皆楽しんでいるわ”  「僕も楽しいんだよ」
”お金あつめないの?” 「うん、皆がたのしめばいいんんだよ。こんな
風船びよりはめったいないんだよ」

 楽しみを作ってくれる風の詩人。彼はお金を作るためでもなく、子供の
ように無心で風船を作り、人々を楽しませていた。
不況のニューヨークでも楽しいことに巡り合うチャンスがある。
 すがすがしい午後のひと時。

 註)エンジェルの噴水があるベセスタ テラスはセントラルパークの東西
72丁目を横断するパークのメイン見せ場で、59丁目からまっすぐに伸び
た、プロムナードの突き当たりになる。セントラルパークの立体交差デザイ
ンがよくわかる最も人気のある場所。