小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

金持ちの生き方

2007-08-26 12:38:57 | ニューヨーク暮らしの日々

 慈善家・ブルック アスターの死(1902~2007)
ニューヨーク
を代表するソサエティの花形、ブルック アスターが8
月15日 105歳で亡くなった。1959年、3度目の夫、毛皮と不動産で
富を築いたビンセント アスター(Vincent Astor)が亡くなる時、60 
millionを彼女個人へ、同じく60 millionを,
より不幸な人を助ける社会
奉仕をするように、そして”人生を楽しみなさい”と遺言を残した。

  彼女は「私の生涯は幸福なものでした」と語り「グッドマナーと人助
けをする事が最も重要な事と思って育ちました。お金は肥料のような
ものです。知的に使わねば意味がありません」とニューヨークで作った
お金はニューヨークに返還するとトータル200 million (日本円1ドルを
140円で換算して240億円)をニューヨーク市に寄付し、慈善家として
の生涯を閉じた。
 ”何もしないで友人とおしゃべりをするような暮らしは耐えられません”
と生涯を通して働いた。戦争中は看護師として働き、ハウス&ガーデ
ンのエディターも勤めた。詩人、ライター、ジャーナリストでもあり、4冊
の本を出版している。 フォード、ロックフェラー、カーネギーのような巨
大ファンデーションではないが 100以上の奨励金を出し、文化、公共
団体など市のプロジェクトには年間を通して9millionを寄付していた。
1997年ファンデーションは195million の負債を抱え、クローズしてい
る。  
 ニューヨーク市長は「社会奉仕は生粋のニューヨーカーの真髄です。
善意と親切な性格はニューヨークの指導的立場でありました。彼女の
援助なしにニューヨークは存在しません。自分も次にやる事は慈善事
業です。」と地下鉄で通勤する市長はニューヨーカーの喝采を浴びて
いる。 
 2002年3月、100歳の誕生日には ”夫ビンセントの遺産は人間の幸
福のために遣いました” と語っている。
  1998年にはニューヨーク市民に与えられる最高名誉賞を授与されて
いる。
 一方 悪名高き大金持ち ”意地悪女王”といわれた不動産タイクー
ン、レオナ ヘルムスリー(Leona Helmsley:1920~2007)) が8月
20日87歳で亡くなった。 1988年タックス未納で18ケ月間刑務所に
入った。そのとき  ”タックスを払うのは貧乏人だけよ”とのたまった。
  ロケーション、ロケーション、ロケーション、といっていた彼女は1.
4million の豪華な霊廟に夫の棺を移動して共に入り、最高のロケー
ションに眠り、ベストフレンドの愛犬に遺産1.2millionを残した。


  ビンセント アスターは いつでも会い、いつでも開拓し、いつでも
検討し、いつでも書き,いつでも決定するー という善意を貫き通した。
 ファッション界の話題もさらったビンセントはお金がエレガンスを助け
ているかも知れない。しかし、お金があればエレガンスかという事で
はない事をこの二人の死から教わる。才能と人柄、またビジョンと公
共意識ががあってこそ、人を感動させることが出来るのだと庶民は
勇気付けられる。     


「ソロバンの午後」

2007-08-18 00:43:28 | ニューヨーク暮らしの日々

NYのソロバンクラス

  先週の日曜日、ニューヨーク タイムスに[子供のそろばんクラス開
催]のお知らせがあった。
 友人がソロバンのブログを日本で持っている事もあり、アメリカ人の
反応を知りたくて参加した。
 アメリカ人もたくさん参加している。隣のアメリカ女性は夫婦で息子
を連れて参加した心理学者。「参加した理由は?」と聞くと「機械が
処理するのでなく自分の脳で解決することを子供に教えたいので・・」
という答えが返ってきた。
 場所はチャイナタウンにあるチャイニーズ美術館。イロイロの国の
人たちが母親や父親に連れられて参加していた。
 机の上には見本用に中国のソロバンが一個、お盆の上にカラフル
なプラスチックのビーズ玉、玉を通すコード、はさみが8丁ほど(どれ
もよく切れない)、はがき大ぐらいのリサイクル箱の蓋と透明なプラス
チックの短冊に切ったものなどが山盛り置いてある。

 「さあ皆さん!ソロバンを作りましょう!」
と最初にソロバンを作る事から始まり驚いた。今の日本人でソロバン
を作るというアイデアが浮かぶだろうか。先生の説明通りに子供たち
も大人も作り始める。私はコードのゆるみを防ぐためにマスキン テー
プをもらう。目打ちがあれば簡単に穴を開けれるけれども 「目打ちは
ありません」 の返事。ひどく切れない鋏
の先でアナを開ける。一番
先に出来上がり、皆のを手伝う。

出来上がった5つ玉中国式手作りソロバン

1365と置きます。次に足し算同じく1365を加えます。=2730

 計算が始まる。上が二つ玉1個が10、天国(ヘヴン)ビーズといい、
下の5つ玉は大地(アース)ビーズといい一個が1で5、一列総計が
25の計算。先生の説明が始まったが,皆はすぐには4捨5入のアイ
デアが分からず、「わかりませーん!」の連発。やっと分かりだすと
子供は飛び上がる。大人までが「できたーッ」と叫ぶ。理屈にはかな
っているので分かりだすと感心する。しかし日本の4つ玉のほうが慣
れているせいもあるが、4捨5入のアイデアで断然早いと思う
掛け算、割り算までは時間がなく進まなかった。

 ソロバンを作り、計算してみるアイデアは、なかなかのものであった。
最後に先生は「学びましたか?」の問いに皆「脳が活性化した。今日
も一つ学びました。」とそれぞれが作ったソロバンをもらって2時間の
クラスは終わった。

 家に帰ってきてからパソコンでABACUSのページをサーチエンジン
で開いてみると162万6千件以上があり、すべての知識が列挙され
ているので、また驚いた。
 ソロバンは中国で歴史前1.200A.D.発明され、歴史は記録ととも
に電卓へと前進している。しかし考えながら手を動かすソロバンは
改めてすごいと思った。
 新しい経験をした新鮮な2時間であった。

 日本の場合も、40年前は、会計はソロバンでやっていた。
ソロバンは、中国から日本に入り、五ツ玉が四つ玉に改良されたの
は1920年頃。
電卓が出来て、ソロバンは不要・・と思う前に、暗算の
基本は、ソロバンだから、この四つ玉ソロバンの普及を、日本の業界
も人材も本気で全世界に普及する人がいれば、世界に貢献できるの
でないだろうか。

 


「原爆投下決断、トルーマン大統領の日記」

2007-08-10 00:25:35 | ニューヨーク暮らしの日々

大東亜戦争終結への決断


  第33代大統領トルーマンは(1945~1953)原爆投下決断の日
記(1945年、7月25日)を残している。 8月8日付の私のブログ、
原爆リサーチをしているとき、トルーマン大統領の日記を発見した。
 戦争終結が目的であれば、なぜ2都市を爆撃したのだろうか。広島
だけなら日本は血戦に突入したのだろうか。いつも思うことながらヒュ
ーマニズム、偏見を是正するには長い長い月日がかかる。公平に考
えられ得る人間の叡智が浸透するには、血を流して戦う世紀にわたる
無駄が必要なのだろうか。 ・・・・・・・・・以下トルーマンの日記

 ”我々は世界の歴史上最悪の兵器を発見した。それはノアの箱舟
で予言された以上の、考えも付かない破壊力を持つ原子爆弾である。
 ニューメキシコでのテストは始まっている。13ポンドの爆発物は60
フイートの鋼鉄塔を完璧に崩壊し、2分の1マイル先に直径 1.200フ
イート、深さ6フイートの穴を作り、1万ヤード離れた人をも倒した。 
 爆発は200マイル離れたところでも確認でき、40マイルにわたり
爆発音も聞こえた。兵器は日本爆撃のために作られ、今から8月10
日までに使用される。 私は国防長官(Secretary War)スティムソ
(Mr. Stimson)に陸軍の目的は兵士が目的であり、女性や子供が目
的でない事を告げた。 
 ジャップが野蛮で残忍、いかに珍奇であろうとも世界の民主主義の
リーダーである我々は,
古い都や新しい都会には原爆を落とさない。
ジャップが命を救うために降伏する軍事的目的である事の見解は一
致している。彼らにそのチャンスを与えねばならない。ヒットラーもス
ターリンも発見出来なかった原爆は,
世界にとってもよいことである。
原爆は最も酷い発見であるけれども、最も有益なものである。”

トルーマン大統領の1945年8月9日のラジオ スピーチ 
 「広島の軍事基地に最初の原爆が投下された。我々は市民を殺戮
しようとしたのではない。しかし攻撃はどうなるか。もし日本が降伏し
ない場合、爆撃は軍事基地に落とされ多くの市民が殺されるであろう。
日本市民は攻撃を逃れるため直ちに、軍事基地がら逃れる事を忠告
する。」

参照:ニューヨークタイムス 1945年8月10日、page12
広島平和記念館HP 被爆の広島市内 

 


「原爆投下:8月8日、ニューヨークで思うこと」

2007-08-09 01:50:04 | ニューヨーク暮らしの日々

忘れてはいけない大切な歴史の瞬間

 人にはそれぞれ忘れたい事、苦しくて語りたくない事がある。
戦争もその一つ。先日、テレビで見た日本の街頭質問で、「広島を
知っていますか?」の問に殆どの若者が「知りません」と答えてい
る。残念にも思う。忘れるほど日本は平和なのか、または国際意識
がないからなのか、理解に苦しむ。

 1945年8月6日広島に原爆が落とされ、7万人が即死、その年末
までに7万人が被爆で死亡,計14万人が犠牲となった。3日後、長崎
にも原爆が落ち4万人が即死。日本は降伏した。
(広島記念館の記録によると、現在までに被爆で死亡した人は
253、008人。)(長崎では現在までの被爆死亡者:143,124人)

 その後、アメリカはグランドゼロのドキュメンタリーを作る。
9月15日アメリカからアメリカン ジャパニーズの別のグループが撮
影のため派遣された。10月、その間、日本人が撮影した26.000
フイートのフイルムはアメリカに没収され、撮影も禁止される。


 ”言葉では表現できない悲惨な現状”は公表されず、アメリカの一
般の人々が見たのは、きのこ型の雲だけであった。フイルムは壁
に貼り付けられた人間、死寸前の人々のうめき声、白衣を裂き包帯
を作り手当てするドクター、その生き地獄は見る者の髪が逆立ちする
ものがあった。原爆の悲惨さは新聞には報道されず、ライフマガジン
が肉体的影響を公表したのみであった。

 あれから62年の月日がたつ。フイルムの悲惨さは見せたくない!
みたくない!・・・罪悪観と人類に及ぼす影響も考え、アメリカ軍部は
秘密裡に保存しアメリカのトップ  シークレットとして40年間、一般に
公開されることはなかった。

 最近、スティーブン 岡崎(Steven Okazaki) のドキュメンタリー映画
”白い光/黒い雨”をリンカーンセンターのドキュメンタリー映画祭で
みた。映画の中で出てくる誰もキャッチできないスケッチは実にパワ
フルあった。映画が終わっても会場は沈黙し、人々はすぐ立ち上がら
ず、無言で伏目がちに歩き、ドアを静かに出ていった。

 
原爆の日、私は12歳,小学6年生でであった。
爆弾が落ちたとき、今日から黒い洋服を着ないように先生に言われた。
白い服は光を反射するからという説明であった。原爆の悲惨な状況
は国民にすぐに知らされることは
なかった。
そのときの不安は62年後の現在も脳裏に残る、私の大切な歴史の
瞬間だと思う。

 IT時代になり戦争爆撃の映像が世界中のテレビで共有されるよう
になった今、人間はどのように進歩していくのだろうか。
 無駄な戦争は今も続いている。
参考:
http://www.truthout.org/docs_2006/080707P.shtml

広島平和記念館HP 被爆の広島市内 
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/kids/KPSH_J/frame/hirotop11.html http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/3/0227650.html
 

 


 


「豆本(ミニチュア本)の展覧会」

2007-08-06 04:33:16 | ニューヨーク暮らしの日々

書籍愛好者のグローリア クラブ


 ニューヨークにはいろいろなソサエティやクラブがある。
その一つ、1884年に創設されたアメリカで一番古く、規模の大きい
書籍収集とグラフイック アート愛好者の誇り高いクラブ、グロリアー
クラブ(Grolier Club of New York)で4000年の豆本(ミニチュア本)
の展覧会があった。
 メソポタミアで作られた爪の大きさの豆本、17世紀初版の子供用
に出版された親指サイズのバイブル、リンカーンの奴隷解放豆本な
ど精巧に装丁された美しい本ばかり。豆本は子供あいての玩具では
ない。手技を極めたスタイルが第一で人間の持つ果てしない想像力
が結集されている。




 1930年代、ドイツでペーパーバック(文庫本)が出版され、ポケッ
トに入る小サイズ本はアメリカでもイギリスでも大いに受けた。
 しかし豆本は4,000年前にさかのぼる。豆本は3インチ大までが
範疇でその後、手のひらに入る本までの大きさがカテゴリーに入り、
実際に使用可能で読めることが原則。
 美しい装丁、上等の紙、活字の美しさ、編集の巧さ、究極の印刷
などで価格が決まり、高価で儲けの多いビジネスとのこと。
 1860年代には子供と動物の絵入り豆本が大ヒットした。
世界中で写本、バイブル、ミニチュア文学、カレンダー、暦、地図など、
もちろんエロ本も作られた。貴重な面白い展覧会であった。
参考: Miniature book society、 
www.mbs.org

 展示はされていなかったが、1981年、凸版印刷が1.4ミリ四方世界
最小の豆本を出版 した。更に2002年、凸版印刷が0.95ミリ四方の豆
本「十二支―CHINESE ZODIAC」を発行。印刷博物館にて発売。
また凸版印刷方式 (活版)を採用することで、0.17 ミリの文字の印刷を
実現している。
www.jfpi.or.jp/printpia/micro/story04.htm
「情報コミュニケーション産業」突破力を誇る凸版はすごい!
www.toppan.co.jp/
 

 

 


 


「価値観を変えたアフリカン アメリカン キルト」

2007-08-03 00:21:48 | キルト

ジェラシー訴訟が円満解決・民主的ファンデーションが誕生!
ジーズ べンド(Gee's Bend) のキルト        
写真:切手

 
大衆のステレオ意識を変えるには長い時間とショックセラピーが必
要である。
 1972年、ジョナサン・ホールスタインがキルトの中からアブストラ
クトデザインを発見し、ウイットニー美術館で開催したキルト展はセン
セーションを巻き起こした。それまで誰も評価しなかった名もないア
ウトサイダーの作ったキルトがアートとして展示されたことはアメリカ
人も驚愕し、以来キルトムーブメントが世界中に浸透し、歴史の新し
いページが開かれた。
 しかし60年代に起こったポップアート アーチストたちはすでにキル
ト デザインの並列を試みている。アンディ・ワーホルはコカコーラの瓶
やキャンベルスープ缶を並べたてている。

 地図にもなかったアラバマ州の貧しい奴隷の末裔が住むジーズ 
ベンドで、アフリカン アメリカンたちが作ったキルトが美術館に展示さ
れ、世に紹介されたのは2,002年。ビル・アーネット(Bill Arnett)の
プロモートにより一躍有名になった。


 暮らしの必需品として作られた彼女たちのキルトは、がたがたベ
ッドの敷布団になり、古くなると蚊の退治用に煙と消えていった。
貧しくて布地も買えず、修繕された布地をそのまま使ったり、常識で
はマッ
チしないコーデュロイと化繊を混ぜたり、布地次第で作ったキ
ルトである。そこには気取りのない彼女たちの暮らしの詩と色彩、リ
ズムが躍動し、規制観念を持たないアブストラクト アートそのもので
あった。
 展示は大成功し、複製キルト、ライセンシー、出版物など大ビジネ
スに発展した。しかし、キルトはアーネットが購入したものだがロイヤ
リティをめぐって訴訟問題になった。

 その結果、700人の村民たちはファンデーションを作り、50%はキ
ルターに、後はコミュニティに還元することにした。室内装飾用品に
われたデザインのライセンシーで得た収入はそのロイヤリティで作
れなくなった年老いたキルターたちをも助け、50%はファンデーション
の収入になる。現在15万ドルに達している。(ニューヨークタイムス)

 ”黒人はデザインのセンスもなく不器用だ”  ”汚いボロではキルト
は作れない” ”針目が大きく踊り、曲がり、よくもあんなものが・・・”
など・・ すべて厄介な規制観念がデザインを邪魔していることを、本
当に大事なことは自分らしさ、のびのびとした表現力、創作力
という事を、彼女たちから教えられる。

 「キングが私たちをコットン畑から解放してくれました。アーネットは
敷布団から美術館の壁に展示してくれました。私たちにとってキルト
はお金以上のものなのです
」と、キルターたちは語っている。

 参考:The Quilts of Gee's Bend   
         http://www.quiltsofgeesbend.com/news