小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

生命の木・樹も生きている。

2014-08-29 08:34:07 | 暮らしのジャーナル

谷中のシンボル「ヒマラヤ杉」

 2011年の1月1日。47年住み慣れたニューヨークを離れ一度も来たことのない谷中に住むことになった。朝起きると向かいのお寺から読経の声や鳥の声で目が覚める。永い間忘れていた靴音が聞こえる静かな日本の朝。新しい人生の始まりを感じた朝だった。

 荷物がつく前のがらんとした部屋で、これからやることを考えながら早速近所の探検に出かけた。芸大まで25分。お寺と樹に囲まれた江戸の町は高層建築の底を歩くニューヨークと違って懐かしい優しい風景があった。何も知らないので立ち止まり、振り向きつ路地を曲がり同じ場所に出てきたり、歩いて暮らせる町だと知った。

 「クチナシの路」を出ると大きな杉の樹の前で立ち止まり仰ぎ見た。その杉は小さなポットに入った杉を横のパンやさんが三角州の角に植えた木だそうだ。今谷中のシンボルとして愛されている。修正院といういつも手入れの行き届いたお寺の前から富士見坂をのぼり諏訪台通り、当時は修復中だった朝倉彫塑館の前をとうり三埼坂を下りて徳川家康が寄造したという美しい瑞臨寺から単純な建築美を感じる日本美術院の前を通り、右に折れると杉の大木が見える。谷中のシンボル、間違ってもここを目安に歩けば谷中一周ができる。今も私の大好きな散歩道。大木の手前にはアメリカから来日、芸大で学んだ日本画家アランさんの「絵処」と描いたスタジオがある。アメリカから一人で来て日本の古い町に住み日本画を書いているその人に会いたいと思った。彼と膝を突き合わせて大いに芸術論を語り合うまでに2年の月日がたった。彼のスタジオの隣の三角州にヒマラヤ杉が谷中を見つめている。ロマンを感じる一角だ。

 谷中は寺町なのでお寺の前には今月の聖語が書いてあり足を止める。人生の聖語が書かれているのはニューヨークの教会も同じだ。忘れている珠玉の小さな言葉を心に止めながら散歩するのはすがすがしい。コミュニティの看板に「谷中のシンボルヒマラヤスギを守ろう」とチラシがあちこちに貼ってあり、「美しい日本の歴史的風土100選に選ばれた”谷中のシンボル”ヒマラヤ杉と暮らしの文化、街並みを生かしましょう」と語りかけている。


  コミュニティからのお知らせ   谷中のシンボルヒマラヤ杉・絵 山近明日香  伐採される運命を背負う杉の大木  山近明日香さんの絵から作ったフックド・ラグ

 ある日その広告の横に子供が書いヒマラヤ杉の絵が貼ってあり、谷中小学校2年生、山近明日香と書いてある。その足で谷中小学校の校長に会いに行った。校長と副校長に会い、「今私はアメリカで学んだ ”努力さえすれば誰れでもつくれる” という手創りコンセプトの旗印、フックドラグを教えていますが、この絵をお借りしてラグを作らせていただきたい」とお願いすると即刻快諾をいただき、上原洋子さんがポスターサイズのラグをそっくりに見事に完成させた。もし木が伐採されると忘れ去られてしまう。しかしウールのフックド・ラグは100年以上の生命を持ち谷中の歴史を語りつぐことができるのは嬉しいことだ。

 渡米前に私は四谷から慶応病院の坂を下り新宿御苑の行幸用入口の前の三角洲にあったアパートに住んでいた。入口の前に3人で両手を広げても幹をつかめないほどの見事な銀杏の大木があり、素敵な目印になっていた。ある日友人の手紙で木が伐採されることになったと聞いてすぐ東京都知事に手紙を書いた。しかしその時はすでに切られていた。それを懐かしむ人はみんないなくなった。   お寺の聖語の立て看板に「木も草も神の贈りものなり」と書いてあった。かつてアインシュタインが賞賛を浴びた時、彼は
言った。「私は草1本作れませんよ」 と。

 

 

 

お知らせ:      

かぎ針で作る暮らしのアート フックド・ラグが奏でる、日々の喜び  フックド・ラグ展 (ポスターサイズ、ウールフックド・ラグ 60点展示)

日時2014年10月22日(水曜日)~11月11日(火曜日)まで 11.00~19.00  入場無料

ミキモト本店 6階ミキモトホール 中央区銀座4-5-5 主催:株式会社ミキモト 

*ラグを知りたい方へ;暮らしの手帖60号と61号に特集されました。 「アメリカン フックド・ラグ」 2002年 小林恵著 主婦と生活社

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代の子供よりイノセントな12歳。戦争が終わった。

2014-08-11 14:33:43 | 暮らしのジャーナル

消えない記憶

 満州の原野に送るというクロバーの種を出来る限り集めることが夏休みの宿題であった。石狩川の堤防を歩き炎天下、クロバーの種を集めていたのは、敗戦の数日前8月の初め、小学校6年生の夏であった。

 6人家族の家にいたのは母と私だけ。父は満州、兄は学徒出陣でアッツ島へ、姉二人は工場や農家にくり出されていた。空襲警報!低空飛行を繰り返すB29におびえ、夜はローソクの火で食事をした。何を食べたか覚えていない。美味しいものを食べたいという願望も勿論なかった。

 数日後広島に原爆が投下された。何が何だか理解できなかったけれども、光を吸収する黒い洋服は放射能で丸焦げになるので本日より皆白い洋服を着ること、という学校からの命令があった。上級生の私は各自の玄関前にたつ下級生を拾って、長い1列を作って登校していた。全員綿の入った防空帽を背中にしょって無言で歩き、校門の横にある二宮金次郎の銅像に「礼!」と号令を掛け、最敬礼をして校内に入った。なぜ?という質問が許されなかった当時、皆静かに従った。先生と言える尊敬に足る人物は探してもいず、体操時間で男の先生は生徒の耳を引っ張って生徒を動かしたり、遅い子を皆の前に出して二人の頭と頭を力一杯ぶつけあうようなことを平気でやっていた。21歳の若い受け持ちの女性の先生は気にいらない子供がいると後ろから頭を机の上に思い切りガーンと額をたたきつけるようなことをしていた。いじめはいつの時代でもあった。

 8月15日敗戦の日。校庭に全生徒が集合し天皇陛下の玉声を直立不動の姿勢で耳を傾けた。

 戦争が終わった。

「戦争をやめよう」と言えた人がいたことに感動した忘れえぬ日であった。

 


                                
              

 1946年、最初の原爆の成功を祝う祝賀会での原爆ケーキ。1980年代、ミセス連載用の「大統領の食卓」執筆でワシントンの国会図書館でリサーチしていたときだった。

                   初めて見たこの写真にショックを受け考えさせられた。 頭が帽子のスタンドになり、人類を震撼させた原爆もケーキのサブジェクトになる。 

                   

                飽食も戦争もあってはならない。