小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

ニューヨークの友よりの手紙

2011-06-29 12:52:24 | ニューヨーク暮らしの日々

ちずさんの父の生涯


 親愛なる恵さんへ、
 
 いつか貴女に私の父のことを話したと思います。恵さんは大切な歴史の1ページだから書き留めておくようにと提言してくださいましたね。でも長い間、私の心の傷跡を書く心境にはなりませんでした。

 しかし、岡田充さんのサイト「21世紀中国総研:海峡両岸論」を読んで私の心の傷跡を、父の人生の傷跡を3人の子供たちと孫たちに書いておく必要があると思い、私のファミリーでもある小林恵さんに読んでいただきたくてメールいたします。

 それは1949年11月のことでした。今も鮮明に記憶しています。中学3年生の学期が
始まろうとしていた頃でした。父は召使と共にKaoshiungから漁船に乗って沖縄に向いました。私たちは沖縄に向かったことだけを知ってっていましたが、沖縄の小さな島だったかもしれません。

 父は砂糖の大袋二つと中国語を教えるために中国からやってきていた私の中学の先生から、金の延べ棒2本を借り船に積み込みました。その先生は私たちの母屋の後に住んでいたのです。彼は数年後、コミュニストスパイとして捕えられました。
 1949年11月以降、私が大学の3年生になる1958年まで父の消息を聞いたことはありませんでした。
 
 ある日、私の大学の寄宿舎に父のメールが届きました。父は香港にいること、沖縄にはいけなかったことを知りました。大学卒業後、私は特別許可をもらい香港に行きました。父との再会は1949年からで10年後のことです。父の一番上の兄は理由もなくKMT(特察)につかまり刑務所にいたので、家族が発見されないようにとの計らいで居場所は教えられませんでした。
 ある日父は香港で台湾の友人と偶然会い、私がTunghal Universityの寄宿舎にいることが分かりました。政府登録によると私の父は行方不明となっていました。カーゴ船で2晩3日の旅の後、香港で1959年7月20日、父と再会しました。
 父の話によると、漁船での沖縄上陸は不成功に終わりました。台湾に戻るとき台風に遭遇し、マカオに着くまで50日間漂流しました。その漁船には17~8人乗っていました。父の砂糖を食べ水がないのでみな自分の尿を呑んで生き延び、マカオに着いたときは歩くこともできませんでした。 しかし、果物を食べて力を付け上陸しました。捨てられていた腐ったオレンジでしたが本当に美味しいと思ったそうです。

「何人生きのこったの?」と父に聞きました。父は「絶対にこの質問はしないでくれ」と眼を閉じて言いました。
 その夜、父はナイトクラブに連れて行ってくれ、夜中じゅう酔い、フロアに倒れるほどダンスをし続けました。それから4ヶ月間父と香港で一緒に過ごしました。そして台湾が何とかして父を救い出し、助けると約束しました。
 しかし香港から台湾への帰国申請は理由なくすべて却下されました。私は嘆願申請を書き続け、21年後の1980年にやっと受理されました。父は31年間自分の国に帰れなかったのです。その理由は私も父も分かっていません。

 父は12歳で日本に留学し、日本で教育をうけました。私の家はTaochung市でもよくしられていて中国国家としては邪魔者だったのでしょう。又は台湾人であった理由かもしれません。

 私は神様を信じ、台湾を愛しています。台湾に神様のご加護がありますように。
そして日本にも。

ありがとう

貴女のベストフレンド、千鶴より


(47年間ニューヨーク在住ののち、日本に帰国し違う国に住むことの意味、日本にいた時は考えたこともない自分の国のこと、天災と人災、戦争のこと、差別のこと、
いろいろの経験がオーバーラップして、考えさせられる日々をおくっています。千鶴さんのメールから運命とだけでかたずけられない、リーダーシップのことをも考えずにはいられません。
千鶴さんの英語のメールは私の翻訳で責任は私にあります。
優秀な孫の Keven Scanlans は今年からペンシルバニア大学で中国語を専攻するとのことです。小林恵)


参照)
元共同通信社の記者で台湾問題を書き続けているスペシャリスト
http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_22.html  
22号2011年6月2日発行
岡田さんの記事を読んでこのこと手紙として書いておくことを決心。東日本大震災で沢山の人を失いましたが、人災と天災、そして政治を考えさせられる問題です。


参照)
千鶴さんの夫、張超英さんは台湾と日本のために生涯を通して献身的に働いたジャーナリストです。
張 超英著:「台湾をもっと知ってほしい日本の友へ」中央公論社 1998年
敬愛した超さんは2007年3月ニューヨークで他界しました。
超英さん一家とはNY滞在中、私にとって最も親切な家族で、30年以上に及ぶ交友があります。

「小林恵のNY通信」:「張 超英さんと愛国心」   2007-03-29
              「張 超英さんの死」     2007-03-08
                        「やさしい言葉」        2007-02-08


谷中は猫の町:ニューヨークは犬の町

2011-06-12 17:41:46 | 暮らしのジャーナル

愛情と責任:糞の始末 東西の違い

 1970年代の初めニューヨークのストリートは犬の糞で水玉模様だった。
ロンドンから訪ねてきた友人の4歳の息子は 「恵ちゃんニューヨークは楽しかったです。
ウンチが道に沢山ありましたね」 と,はがきが来たのでよく覚えている。
 ニューヨークでは市民が文句を言ってもそれを市長選に旗揚げすれば、落選確実と言われた暗黒時代だ。
 そのころはパリもウンチの水玉模様。でもパリではウンチ清掃車が街を廻りストリートの地下道にウンチを流していた。

 私はアパートに来た人には必ず靴を脱いで頂いた。靴を脱ぐ習慣のないアメリカ人は「靴下のほうが汚いんだよ」 とぼやいていたが、靴のまま部屋に入るのは本当に不潔だと思う。
 勿論外国では床の上にかばん以外はあまり置かないのが常識。公衆トイレでもみなトイレの床にかばんを置くので習慣とはいえ不思議なことだ。かばんをあいている家具の上に置くのはマナーに反し、日本人はなぜ洋服やかばんを家具の上に置くのかと何度もきかれた。

 お墓の多い谷中には昔から捨て猫が多く、誰かが食べ物をあたえ、今も太った野良猫が多い。谷中銀座は猫の町。夕焼けだんだんには野良の群れが居て名前が付いている。あまり美人猫はいない。みなおっとりと眠っているが、人を見る目は疑い深い。ウンチはどこかの家の下にもぐってするのか白猫も凄く汚れている。我が家の庭にも、のしのしと歩いて人の顔をうかがいながらトイレット土探しにやってくる。日本で初めて見る製品、30センチ角又は15センチ角のプラスチック製の針のむしろ状のものが売っている。猫が歩けない拷問板だ。すごーい発明だ。又は猫が臭くてとても近寄れない臭いを発散する粉状のものもある。
 谷中の猫にはエイズが流行っていて咬まれないようにと注意された。食べるものはあっても臭いと嫌われ、遊んでもらえず、ウンチしたくても土もなく、あっち行けと言われる可愛いそうな猫たちだ。

 ニューヨークには動物保護協会があり、貰い手を探せるまで動物たちを保護している。「動物の権利」 同盟もあり、お金を出せば人間と同じ高級レストランで、テーブルに犬料理をサーブしてくれるところもある。その記事を読んだ時、デカダントだというとアメリカ人の友人は 「ペットのほうが人間よりずっとフレンドリーで、お行儀もよく、忠実で人格さえある」と言った。

 ある時、猫キチの友人がディナーに招待してくれた。彼は自分のフォークでテーブルの上で猫にたべさせた。驚いた私は日本語で 「お行儀がわるい!皮をはいで三味線屋に売り飛ばしてやる!」 といった。日本語のわからない友人は 「今、恵は最も意地悪いことを言った!」 といったので可笑しかった。 

 




お願いしますではなく、法律です。無視した人はニューヨークでは罰金$1.000! 


谷中の自転車 vs ニューヨークの自転車

2011-06-01 20:35:28 | 暮らしのジャーナル

    自転車は素敵 

 セントラルパークを散歩しているとサイクリングの自転車がスイスイと通りすぎる。
太った人は一人もいないし、この上なくカッコ良い。
スポーツ駄目人間でもやりたいと思つたことはサイクリングとローラースケート。
 スイスイとセントラルパークを一周するといい気持ちだろうなー。「ああうらやましい!」
といつも見とれて見送るだけ。
 40年以上前、友人に言うと「やめたほうがいい。転ぶと骨がバラバラになるわよ」と。
アドバイスをくれた友人は当時、セントラルパークのアイススケート リンクで転び、大けがをし、
2カ月以上動けなかった由。もしも「ぜひおやりなさい」と言ってくれていたら今頃、谷中の
富士見坂を上から家の横まで自転車でペタルを漕がずに、手もハンドルから放したりして滑り下りているかもしれない。残念至極。坂の多い谷中は登りと下り、両方楽しめて凄い地形だ。
 自転車大好き。ニューヨークには各パートを色別に塗装した自転車があり、巡り合うと言わない
けれども ”へーい!カッコいいよーッ”と手を挙げて叫びたくなる。国が変わり、自転車の
バックグラウンドが違うと新しい世界になる。自転車に乗っていたら見逃していたかも知れない。

 
 オランダは自転車の国。行った方はご存じのように国中どこまでも自転車専用道路がある。海より低い
国作りをアフリカから土を購入し海岸線全域に防波堤を作っている。オラン人の考え方は実際的で、政治家ばかりでなく普通のオランダ人が国作りを、国を意識している。
 ニューヨークに訪ねたオランダ人と日本から訪ねてきた友人、台湾人、イギリス人も加わってニューイングランドでのサマーハウスで自転車の話題から徹夜の大デスカッションになり、今は懐かしい思い出となった。

  
      
 
                               
以上谷中の自転車風物 



            

                                以上マンハッタンにて