小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

「ファーマースマーケット」

2006-05-30 11:57:48 | ニューヨーク暮らしの日々

オーガナイズするアイデアと実行力




ニーナ プランク(Nina Planck)は8歳の時からバージニアの
両親の作った野菜を道端で売っていた。1999年28歳の若さでロン
ドンでファーマースマーケットを組織。最初はローカルの生産者16農
家が参加、果物野菜、肉、鳥、チーズ、パン類、花・プラント、ワインな
ど生産者が生産したものを直接販売することが条件であった。現在は
150農家が参加し年中オープン、年間6ミリオンの売り上げを誇って
いる。
2000年にはニューヨーク市のユニオンスクエアでグリーンマーケ
ットを組織。(グリーンマーケットは市の環境部門で管理しているノンプ
ロフイット オーガニゼイション)彼女の厳しいルール、市から200マイル
以内に住む農家で自分たちで作ったローカルフードを直接販売すること、
カナダで生産されたキャベツでコールスローを作ったり、買ってきた果物
でジャムを作ったり、またはコマーシャルのフローズンドーからパンを作っ
てはいけないなど厳しい条件がネックになり、4年後突然解雇され新聞
をにぎわした。しかし、現在ニーナは生産者のみ参加できる一番大きな
ファーマースネットワークを持つグリーンマーケットのディレクターである。
ニューヨーク市の30箇所で42生産者のグリーンマーケットを管理してい
る。最近健康食品の本も出版される。
農家と消費者との距離がなくなり、新鮮でヘルシーな美味しい自
然食品を提供することで、誰が作ったかがわかり、消費者にもファンが
でてくる。食品と心が繋がる忘れられた昔の「手にハートを」の商法を大
手に押されず厳しく管理するニーナの心意気にニューヨーカーは応援し
ている。
があって私はニューヨークから高知県の大方町砂浜美術館に毎年出
かけている。小さな町にニコニコ朝市があり、農家といっても小さな家庭
菜園で出来た自分たちが食べきれない分だけをマーケットに名前をつけ、
かごに入れて持ってくる。とりたての野菜や卵、梅干や大福まで格安で
販売している。「私たちの町には美術館がありません。美しい自然が美
術館です」というコンセプトの大方町。
最果ての町だが、訪れるたびに
こにいる幸せを感じさせてくれる幸せな町である。

 


「文化をつなぐ橋」

2006-05-24 22:48:15 | ニューヨーク暮らしの日々

ブルックリンブリッジ


橋のたもとフロントストリートの窓のない壁に書かれた騙し絵・両サイドの壁の窓も騙し絵。
アーチストはリチャード ハアス(Richard Haas) 彼の作品は
www.ny-pple.comのニューヨークジャーナルの中の「ニューヨークの看
板ー環境美化推進アートプロジェクト」参照。

ニューヨークイメージの一つになっているブルックリン橋はジョージア 
オキーフやジョセフ ステラの絵画でも代表されている通り、描いて
見たい、写してみたい、渡って見たいと思わせる橋だ。特に再開発が
進んでいるブルックリン区は後5年も経てば素晴らしい文化地区にな
る予定でブルックリン橋の工場地帯であったところはアーチストたちが
集まり、現在最も注目されているところだ。橋からの眺めやブルックリ
ンハイツから眺めるマンハッタンも格別である。マンハッタンをつなぐ
主な橋の中でも最初に出来たこともさることながらこの橋の物語が
面白い。
1870年1月3日着工。13年後の1883年5月24日完成。デザイ
ナーでありエンジニアであるジョン ローブリング(John Roebling) の
当時の給料は年間 8.000ドル。労働者には1日2ドル25セントが支
払われた。彼は3年後、橋の展望台を調査中事故にあい脚を切断。
63歳で死亡した。息子のワシントンが後を継ぎ彼も3年後、潜水病
(気圧の急変による障害)にかかり言葉も話せず歩行不可能になる。
ブルックリンのアパートの窓から望遠鏡で工事を見、ミセス・ワシント
ンが口の動きで読み取り、彼女が夫の工事を代行指揮した。工事中
の死亡者27人。開通式は一人交通料1セント。次の日から3セント、
馬車が5セント。15万人の人が歩いて渡った。
世界最初の世界一長いつり橋、スチール、ケーブル、ネオゴシック
スタイルのタワーが二つ。アメリカの橋の歴史の金字塔といわれて
いる。(ちなみに明石海峡の橋はブルックリンブリッジの4倍の長さ)
橋の長さ6,019フイート、幅85フイート、4ケーブル、6レイン、水面か
らの高さ276フイート6インチ、ケーブルの直径は15 4分の3インチ、
総計ワイヤーの長さ3,600マイル、つり橋の重量14,680トン。
橋のタワーの壁に当時パテントをとったケーブル5,634本のワイヤー
がまとめられて1本のワイヤーになったケーブルの図解が刻印されて
いる。
日本では着工の2年前の1868年、坂本竜馬が暗殺されている。
橋が完成した1883年には鹿鳴館が竣工、政府の欧米化政策の
象徴となった。日本鉄道会社、上野~熊谷間営業開始される。


「面白くるま」

2006-05-19 00:45:37 | ニューヨーク暮らしの日々

 



車がいくよー、退屈しないニューヨーク
タイムズスクエアをいく観光バスはいかにもニューヨーク
的場風景だ。コマーシャルの宣伝車もなかなかやる感じ。
しかし、ポンコツの”見てー”と叫んでいるようないたず
ら一杯のすごい車がいくのも立ち止まって見る価値がある。
人間も車も精一杯生きているニューヨークだ。

 


「パブリックアート」

2006-05-15 03:00:56 | ニューヨーク暮らしの日々

 



コミュニティがアートに関心を持つように
ニューヨークを散歩していると立ち止まることがたくさんある。銅像の
ようにアートが街角にあるのは楽しい。1898年創立されているニュ
ーヨーク市のアートコミッション(Art Commission of the City of New
York)では市の建造物、街灯、プレイグランドなどを含むアートをプロ
モートしている。 さんご存知のイサム ノグチの赤い立体や、チェス
マンハッタンビルのプラザにある石の庭、デビッフェの彫刻。シティ
ホール前の公園に溶け込んでいる4つのアレキサンダー カルダーの
彫刻、ロバート インディアナのLOVEなどはニューヨークのイメージの
中に入っている。 数か月で取り外されたがパークアヴェニューに並べ
て置かれた太め彫刻、ボッテリも楽しかった。
コミュニティアートも其の一つで若い、現代アーチストの才能をプロモ
ートする目的で 公共に場所を提供するニューヨーク パブリック アート
ファンド(
www.publicartfound.org)が1977年に設され、申し込みは皆
に開放されている。 又企業が自社ロビーにアートを無料で展示してい
るところもたくさんある。


「記録に挑戦する男」

2006-05-14 23:32:39 | ニューヨーク暮らしの日々

 果てしない人間の欲望


 

リンカーンセンターの広場の真ん中、オペラハウスを背景に
設置された8フイートのガラス球の水槽は未来を占うような不思議な
光景である。
1週間食べず海水の中で過ごし、最後に手足につけら
れた鎖をはずし9分間呼吸を止めたまま其の作業をする。人間の限
界を超えような記録に挑んだ男がいる。
の人の名はデビッド ブレイン。過去には閉じ込められた氷のな
かで62時間の記録を作り、80フイートのコラムの上で35時間立っ
ていたり、ガラスケースの棺の中で7日間飲まず食わず過ごし記録
を作った。「私と結婚して!」と書いた紙をガラスに貼り付けで見せる
女性、ガラス越しにキスする女性、外から差し伸べた手と手を合わ
せたり、Vサインの挨拶など不思議な光景に人々は湧き、歴史的な
経験を楽しんでいた。
後の瞬間を捉えて2時間特集ドキュメンタリーがABCから放映
された。挑戦は1日にして成らず、オリンピック選手以上に死と対面
すれすれの訓練で練磨している。勿論すべてのトーニングは一流の
専門家がついている。記録作りを面白がっているのでなく人間の限
界を探求する精神統一と意志力であることが其の激しいトレーニング
から思い知らされた。
行する直前、ドクターの危険サインがでた場合は即時水中から引
き上げ、頭を後ろに下げ顎を上げて息をさせるという注意が出された。
其の瞬間をミスするともう人間の機能は戻らないそうである。7分間
経過、果たしてそのとき、ドクターのサインが出た!見る者は息を止
めて見守った。息を止める記録は9分にみたず7分間であったが、水
中滞在177時間の記録を作った。息を吹き戻した後、ブレインは「皆
さんの応援のおかげです」と涙を浮かべて言葉少なく語った。
占放映権をABCが購入。2時間のドキュメンタリーの間に入るコ
マーシャルは30秒で12万ドル。30分はコマーシャルで7ミリオンの
収益とか。次に何が起こるかTVに釘付けにされ、コマーシャルの効
果は絶大であった。

 

 


「ストリート フェア」

2006-05-07 22:57:54 | ニューヨーク暮らしの日々

  


世界中の”小商い”が店を出すNY的バラエティ
トリートフェアは荷台に載せて道端で商売をした人た
ちのアイデアが始まりといわれる。高いレントを支払えな
い小さいビジネスを援助たするために組織され、春から秋
まで毎日曜10時~6時までどこかのストリートでフェア
があり年間のスケジュールが組まれている。10~15ブ
ロック位続くストリートが歩く天国に変わる。フリーマー
ケットでは古ものを売れるのはアンティック屋だけ。帽子、
アクセサリー、洋服、Tシャツ、ジーンズ、下着、絵画、
ポスター、本、ローソク、アンティック、アイデア再生商
品や屋台など。

白いのは立ち食い用のフインガーフード。アパッチのの
ろしのようにあちこちでモクモクと煙が上がり、お肉を焼
く臭いが漂う。ある州では食べ物を売る人は専門ライセン
スがないとストリートでは売れないところがあるらしい。
ややこしいことを言わないのもニューヨーク的寛大さ。
あつあつの出来たてであれば少しバッチクてもなんのその、
肉汁が滴り、指を舐め舐め頬張っていても誰も驚かず、ク
ールなのがニューヨークスタイル。

ースの借り代は個人経営の商品販売は134ドル~160ドル
位、会社だと250ドル。 興味のある方は
http://www.Clearviewfestival.com 参照。
申し込みはイーメールで
info@cleaviewfestival.com

本でデザイン制作から販売まで一人で ”小商い”をや
っているロケットバナナのサイトも訪ねてください。
http://www.koakinai.com/
アイデア、節約精神、質実剛健、フロンティアスピリット
の持ち主。私は彼女の大ファン!


「エンパイヤーステートビル75歳の誕生日」

2006-05-01 14:22:21 | ニューヨーク暮らしの日々

マンハッタンの灯台・夢のビル1931年のメガプロジェクト

 

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丁目、5番街にそびえるエンパイヤーステートビルはマンハッ
タンの灯台の役目をしている。1931年5月1日完成。建築家はウ
イリアム ラム(William Lamb)。エド サリネン(Ed Sarinen)の影響
を受けシンプルなアールデコ、幾何学デザイン。
1.250フイート、(381メートル)当時世界1の高さを誇り20世紀の
シンボルといわれた。オープニングにはフ-バー大統領が臨席、ビル
のパワースイッチを入れ全国ラジオで放送された。当時は経済大恐
慌の真最中、現在のロゴ組み立て式、4種類のねじを全部で20万
使用。綿密に計算された材料が工事と同時に地上におかれる事
なく各階に運ばれ、57,000トンのスチールが6ヶ月で組み立てら
れた。完成まで450日。すべてが綿密に計算されていたプランニン
グのアートである。
毎日2.500~4,000人の人達が働き、朝8時
仕事開始、正午にランチ、4時半には仕事が打切られ、雇用者には
時給$2.00現金で支払われた。当時施工中の地下鉄の労働者は
時給30セント、週給$30.00、84時間の労働であった。
界中がビルの高さを競っていた時代。
1889年 エッフェルタワー 948フイート
1909年メトロポリタン生命保険会社 700フイート(50階)
1913年 ウルワース ビル 792フイート(58階)
1929年 マンハッタン銀行ビル 927フイート(71階)
1930年 クライスラービル 1,046フイート(77階)
ジェネラルモータースの副社長だったラスコブはクライスラービルと
と競争、ワールドーフ アストリア ホテルを取り壊した後に建てた。
85階を計画していたがクライスラーに負けてはと102階、1,250
フイートにした。
当時、1秒間で1.000フイートが動くエレベーター付。
最上階でも捻ればお湯がでる。勿論水洗トイレ。
でもエンパイヤーを見ると思い出すことがある。7番街34丁目
にファッション デザイン オフイスを持っていた30年も前の話だが、
エンパイヤーステートビルにオフイスを持っていた優秀な社長にアイ
デアの相談に伺いたいとお電話した時、彼は言った。
「ケイのオフイスからここまでどうしても10分はかかる。往復20分も
ケイのクリエイティビティを失うことになる。私を信用して、どうぞ電話
で話してください」と。アメリカで学んだことの一つである。
1931年、日本では満州事変勃発。
庶民の涙とため息そのままに、古賀政男の”酒は涙かため息か” が
大ヒットした。