小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

センチメンタルジャーニー・谷中の墓地

2011-03-30 22:55:17 | 暮らしのジャーナル

歴史散歩:谷中のお墓

 谷中を散歩して気が付くことはお彼岸は特別に心を慰めさせてくれる。お花を見るとどこでも、いつでも心が和む。谷中にはお花屋さんがたくさんあり、墓石には綺麗な花々が捧げられている。半世紀近く日本を離れていたのでお墓の散策は歴史の瞥見でもあり、新しい発
見でもある。



 最後の将軍であった徳川慶喜の墓も外国に比べれば質素なものだし、自由民権思想を歌ったオッペケペー節で1世を風靡した川上音二郎(1864-1911年)の銅像は台座のみが残っている。
その横の立て札に「権利幸福嫌いな人に/自由湯をば呑ませたい/堅いかみしも角とれて/マンテルズボンに人力車/粋な束髪ボンネット/貴女や紳士のいでたちで/うわべの飾りは立派だが/政治の思想が欠乏だ/天地の紳士がわからない/心に自由の種をまけ/オッペケペ/オッペケペ/オッペケペッポ/ぺッポッポ」
 この歌は明治時代の中頃、民衆の喝采を浴び大流行したとたというから痛快なことだ。銅像は戦時中金属の供出でとりはずされている。

 また高橋お伝(1850~1879年)の墓もある。惚れた男性が借金返しを頼んだ高利貸しが 
”金は貸すがお伝[彼女)を一夜かせ”といわれ一夜を明かす。その朝 ”金はかせねえ”といわれ、お伝は剃刀で高利貸の喉を裂き日本最後の斬首刑に処せられた毒婦と言われた女性だ。
 仮名垣魯文の小説や歌舞伎、映画にもなりミデアを騒がせたことで有名になった。彼らの寄付で谷中にお墓が出来たのだからお伝は救われている。

 とにかくお墓は自分で建てたり、誰かに建てられたり、その時代の語り部でもある。しかし時代を経て苔むしり、お墓そのものも消えていき忘れさられいく。このたびの東日本大地震でたくさんの墓石が無残に倒れてていた。

 江戸の浮世絵師・鈴木春信のモデルとなった江戸3大美貌の笠森お仙のお墓にもお花がそなえてあった。

 

お知らせ:「小林恵の実験教室 ”ラグ・デイ” 」 
やってみよう! 集まって励ましあおう!

(アメリカン フックド・ラグはキルトと同じくアメリカの2大フォークアートでアメリカを代表するクラフトです)
4月13日(水曜日)11.00~15.00まで 各自ランチ持参のこと。

東日本大地震でも自分の手で自立できる人たちのものつくりのエネルギーに感動させられたことと思います。
作ってみたい方、どんなものか見たいかた、だれでもどなたでも参加できます。経験のある方から学び、ない方はまず作って見ることが大事です。詳細はホームスパンへお問い合わせください。

参考:「アメリカン フックド・ラグ」 (歴史、アメリカン気質、アメリカン フックド・ラグのサンプル、作り方などアメリカン フkツクド・ラグ作りのすべて)  小林恵著 主婦と生活社 2002年

ホームスパン:03-5738-3310  原、稲船まで


涙を肥やしに生きていこう!

2011-03-15 07:20:24 | 暮らしのジャーナル

地震・津波・放射能・眠れない夜・これからを考える。

 ニューヨーク滞在47年後、日本に帰国し、NYから荷物がついて、まるで津波の去ったあとさながらの整理中,地震が起きた。スポーツ一切だめ人間で迅速に動けても周りに誰もいない時、ストレスは絶大になる。すぐ外に飛び出した。谷中の下町には電線が路地につながり、視界に入るだけでも数えきれないほどの数があった。それも下町情緒の一つになっているのだが・・・ちょっと怖い。

 電気が発明され、電線が出来てから有名だった江戸の誇り、諏訪神社の山車も電線のため動けなくなり、廃止になったという。
 家の前の電線がブランコのように動いた。本当に言葉を失う怖い天災であった。津波ですべてを失った人が「すべてを失いましたが命だけたすかりました。
これからはどんな困難があってもやれそうな気がします」と。ニューヨークから「日本人は偉い!どうしてこのような時、精神的なことが言えるのだろうか」とメールがとどく。 

 日本人は戦争中、一億総攻撃と言われてもおとなしく従った。そして原爆、一億の悲しみが原動力となり夢中で働き、明日に向かって目覚ましい復興を遂げた。1964年、オリンピック開催。日本で戦後初めてツーリズムが解放された時、私は世界一周の切符を抱え日本を出発し、半生をニューヨークで暮らした。今年から日本に住むことに決め帰国し、引っ越し荷物整理中に大惨事が起きた。

 ニューヨークでのもろもろの経験を顧みながら、今の惨事に巻き込まれていたら私はどうするか考えてみた。

 今頃ニューヨークに来てカルチャーショックを受ける人はいないほど豊かになった日本。当時私が受けたカルチャーショックは私のエネルギーとなり、全身を耳、眼として暮らしてきた。次第に日本が豊かになって日本がアメリカのニュースになるたびに、感動し、日本人としてアメリカ人の尊敬を受け、日本を誇りに出来た日々を私は忘れはしない。

 今朝の読売新聞の編集手帳に ”涙を燃料にして毎日を生きる”と書いてあった。この言葉には実感がある。力がある。皆で心にとめていこう。

  

 参考記事:
www.ny-apple.com タイトル中のニューヨークジャーナル9月14日、2001年、「あ、摩天楼が!」と1年後の2002年1月に書いた「忘れえぬ日」、6年後の2007年9月20日に書いた「グランドゼロ」を参考にご覧いらだけましたら幸いです。