小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

「人の命は短くて」

2008-09-30 07:03:20 | ニューヨーク暮らしの日々

社会貢献
 ポール ニューマンが亡くなった。サラダ ドレッシングなどポール
ニューマン ブランド食品 [Newman's Own]の利益全額を難病で悩
む子供たちに寄付し、その他自ら参加したチャリティなど莫大な額
を寄付、多くの社会貢献をし、今後もその社会貢献は娘が継続し
ていくという。


 1984年NYに訪ねて来た山岡久乃さんに、発足して間もないニュ
ーマンのチャリティのことを話すと早速ポールニューマンのサラダド
レッシングを買ってきた。
1982年発足したチャリティビジス、
ポール ニューマンの社会意識に感心し、いろいろ記事を集めていた
ので山岡さんにみせると”私もやりたい!”とすぐ叫んだ。
 何年かたって山岡さんは癌で倒れ、72歳の生涯を閉じた。
皆に生かされてきたので、是非社会のために働きたいと眼を輝かせ
ていた山岡さん。病床を訪ねたとき、”たとえ車椅子の生活になった
としても、ぜひ社会のために何かやりたい。ケイ、一緒にやろう!
プロモーションをしてね”といっていた。
 ”ごめんなさい。けい”といって亡くなった山岡さん。振り向かずに
病室を去ったのが最後となった。

写真は山岡さんとサンフランシスコ大学教授・パットフェローロと彼
女の本を翻訳した当時の私。NYの私宅で。英語の話せない彼女が
パットとちゃんと通じ合って楽しんでいた。

 
山岡久乃さんは本当に私欲のない人でいつも人様の世話をしてい
た。志半ばで亡くなった山岡さんのことをポールニューマン死のテレ
スクリーンを見ながら、彼女の残念さを切なく思いだす。

 又、家族のように仲良しだった台湾の外交官、張超英さんも癌で
昨年亡くなった。彼の生涯は人のため、社会のため、台湾のために
奔走した熱血の人であった。

 つい最近、56年前の母の手紙が出てきた。小さくたたんだ跡に
茶色のセロテープのマークがつき、紙質も悪く色あせ、セピア色に
なった母の手紙である。思えば母が52歳の時、東京の娘に書いた
手紙だ。

「母から恵への願い
日のさすところには皆神様がいます。よいことをすれば、よいことが
あるのは間違いありません。善行をしたか、いつも心に問う事。
悪行はしない。善行だけをする。此れをハンドバックの中に入れて
おきなさい」と書いてあった。すっかり忘れていた手紙に、善意に生
き抜いた母を懐かしく思う。

 ポールニューマンにも山岡さんにも到底及ばないけれど、小さくて
もよいと自分で決めたラインの中で、種蒔きをし母の教えは守られ
ていると自負している。過ぎ行く月日の早さに驚き、人の命は短くて
・・・と感傷的になる。

人の死からいつも大きなものを教えられ、生きている意味を考えさせ
られている。

 

 

 

 

 


「リバーサイドパーク」

2008-09-21 09:26:49 | ニューヨーク暮らしの日々

ハドソン河のほとり4マイル続く散歩道

夕暮れにはリバーサイドパークに行こう。夕暮れが一番いい。

径の両側に続いてベンチがある。人々を楽しませるためにデザイン
されている。

ハドソン河の向こう岸はニュージャージー州

旅行者も座ってリラックスすることをお勧め。


素朴なデザインは歩きながら癒されていく。



写真上の並木はクラブアップル。春には見事な花盛り。72丁目。

 散歩が終わると”ああ、楽しかった”と思える散歩径が近くあること
は暮らしを豊かにしてくれる。
62丁目から158丁目まで続くハドソン河沿いの散歩道は1980年
代にウエストサイドの住民たち、企業、個人基金などの献金により、
リヴァーサイド ファンドを作り、エグザクティブ ディレクターを雇い、組
織を設立させた。ウエスト サイト59丁目から158丁目までの修復に
最初の18ヶ月で草の根ボランティアたちが25万ドルを集めた。
 現在はニューヨーク市も援助、ニューヨーク最大のコミュニティ組織
となっている。2006年にはノンプロフイットのこの組織からボランテ
ィアの人たちが38、000時間、改良に協力している。
 自然環境を人間の幸せのためにを皆で協力して作り上げたその善
意が、ひと時の喧騒から開放され、ニューヨーカーにエネルギーを与
えてくれる。
 いたるところにベンチが置かれ、ハドソンの流れと夕暮れを眺める
ひと時はニューヨーカーたちがそこにいる幸せを感じるときだ。近き
将来はバッテリーパークからワシントンブリッジまで歩道がつながる
予定。
 数年前,ある大都市の議員が4,5人視察に来たときリバーサイドパ
ークも案内した。車から降りると川べりを眺めただけで降りようとしない。
”河まで降りてベンチに座って見てください。ニューヨーカーの幸セが
分かりますよ”というと ”ここで見ただけでわかります” といった。
 議員たちの出発前に送られてきた予定表には納得の行く大忙しの
視察条件で埋まっていた。しかし車の中ではゴルフの話で夢中、視
察の大半の時間ははゴルフで過ごしたようだった。どのようにしてこの
パークが出来たか、管理はどのようになっているのかの質問は誰から
も聞かれなかった。


「コンピューターのいらいら」

2008-09-17 13:53:51 | ニューヨーク暮らしの日々

ローテック時代を取り入れよう。
 コンピューターのいらいらほど神経をする減らすものはない。張さん
という友人はコンピューターの権威で、どんな質問にも答えてくれ、ま
たはすぐ飛んで来て直して下さった。去年の3月張さんは癌で倒れ、
発見から2ヶ月で帰らぬ人となり、コンピューターのストレスほど最悪
でいやなものはなく、張さんの親切を改めて心から感謝しているこの
頃である。 
 私のコンピューターのトップページに広告が張り付き、動かされなく
なり、重なって現れるようになり、ついに修理に出す事になった。
 必要以上にPCに縛られいる事に気が付いた。私が死んでも日は
又昇り、新たらしい日々が始まる。考えるのはやめようと日ごろ出来
なかったクローゼットの整理を始めた。驚くほどはかどった。やれやれ。
 コンピューターが戻ってくると今度はブロバイダーのモデムが故障。
アメリカでは電話をしてすぐ飛んで来てくれる事はまずないけれど、
毎度スペイン語が先、その後で英語が入る。マンハッタンで事故発
生、あなたの地域は只今不通ですとのアナウス。  
 いらいらしても仕方がない。テレビを見ると大統領候補のオバマが 
”共和党のマッケインはイーメールの返事も出来ない”とやじっていた。
年配から見れば、出来ないからどうしたということだろう。不便はある
かも知れないけれどそれがどうしたともいえる。人間年を重ねると賢く
なるという定義は正しくないと思う。若くても賢い人がたくさんいる。
 しかし若者が先輩に出来ない事をなじるのはよくないとおもう。
 不可抗力でPCがつかえず、新しく学んだことの一つである。私の
年代以上の人でファックスは勿論、コンピューターなど家に置くのも
いやという人が多い。それはそれでいい。しかし、機械に頼るように
なった人間は幸が不幸か。多分両方だろう。

 
手作り時代にストレスという言葉はなかったに違いない。
 
私がローテックの手作りは誰にでも必要なことだと、心より薦める
理由である。
 何をしてよいか分からない人は2009年1月5日~24日まで開催され
る銀座ミキモト画廊の日米ラグ展をぜひ見ていただきたいと思う。
 開拓時代のア
メリカ人が倹約精神から作った素朴なラグの現代展
で、誰でも出来る事が魅力。お勧めのローテック手作り。初めて作った
人も、引退した大企業のCEO,80才の男性も参加している。