散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

外国に対する「黙殺文化」と直截な翻訳表現~政治課題としての慰安婦問題 (4)

2013年06月18日 | 政治
慰安婦の英訳は「comfort women」とのことであるが、これまでは「sex slave」と訳されていた。今でもNYタイムズは橋下徹氏の記者会見の模様を次のように伝える。
Japanese Politician Reframes Comments on Sex Slavery」 By HIROKO TABUCHI Published: May 27, 2013

しかし、既に米国下院「121号決議」(2007/7)においてこの問題に対する謝罪要求決議案が通っている以上、国内問題として取り扱うのはおかしいのだ(但し、この決議は法的な拘束はなく、行政府に政策を求めるものでもない)。一方、当時の安倍政権は「外国の議会が決議したことであり、コメントすべきことではない、として発言を避け、公式な見解は行わず、その決議を黙殺する構えを明確化した。」

処で、誰が書いたかわからない「ウキ」の解説で、黙殺するという言葉で表現されていることが筆者にとって非常に面白く、関心をかき立てられた。この態度こそ、国内に通用する「ニュアンスに富んだ=曖昧な」、しかし、外国では直截に翻訳表現され、結果として相互誤解を招く政治的言語の代表だからだ。

鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を「黙殺する」と言い、それが「ignore」と訳されて、予定通りに広島・長崎への原爆投下が実施されたとの話は、詳細な真偽のほどは複数の説があるようだが、よく知られている。

「鈴木貫太郎、黙殺」でググってみると、7,150件のヒットがあり、幾つかを閲覧すると、鈴木首相が本当に記者へ話したのか、迂回して新聞が書き、それが海外に伝わったのか、定かではない面もあるようだ。時の首相が正式な声明を出したわけでもなく、曖昧な言葉が、曖昧な経路を経ていたことが我が国の敗戦に関する最終意思決定の主体の欠如を示している。「黙殺文化」は今でも続き、日本の国益を損ねているのだ。

橋下徹市長が「慰安婦問題」を通してチャレンジしたのは、グローバル化した現代において、依然として国内だけに通じ、外国に対して閉鎖的な黙殺文化の打破であった。

氏の発言は国内外からバッシングを受けているが、国内的には、左右を問わず、また、マスメディア、有識者、市民を問わず、私たちの持つ固定観念を、余りにも率直に穿ったからであろう。また、米国へは、その特有の「正義を成す」文化を正面から批判する内容(「米国の戦争観」と「正義の戦争」20110507)を含んでいたからであろう。

この問題は、まだまだ、多くの課題をさらけ出す作用をするかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。