散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

人間の隠れたる本性が顕れるとき~歌舞伎「紅葉狩り」の姫=鬼女

2013年06月23日 | 文化
橋下氏の慰安婦問題発言をしっかりと理解しようとせず、マスメディアの切り取り報道を鵜呑みにし、原理主義的な人権によって裁断する心性について、昨日の記事「「人権問題」という原理主義的反応130622」で考えた。
 
ネットメディアの中で流通している意見の一つであるが、これで橋下氏を抽象的な意味での「全女性の敵=絶対の敵」に仕立てている。極めて激しやすい意識、日常生活では収まりきれない隠れたる本性が顕れたかのように見える。何故か。

エリック・ホッファーは「現代の神無き時代にあっても、人々は魂の救済から離れることはできない。…伝統的宗教は救済への探求をキャナライズし、ルーティン化する。かかる宗教が信用を失ったとき、個人は魂の救済を、しかも四六時中、行わなければならない。…社会組織そのものが、一般に、心の病に冒されやすい、すぐ燃えやすい体質になってしまったのだ。」(「情熱的な精神状態」(1954)所収)という。
これが書かれて60年、東京五輪から50年たった今でも、再度、五輪の熱狂に包まれたいという声も強くなっているこの頃である。仕事、娯楽に止まらず、政治に関しても一部に過激な反応が顕れるのも不思議ではない。

そんなことを考えながら、一昨日、歌舞伎「紅葉狩り」を観劇する機会があった。戸隠山の鬼女が更級姫に化身し、そこへ表れた武将・平維茂に酒を振る舞い酔わせる。しかし、気が付いた維茂が正体を現した鬼女を退治する話だ。


これもまた、人間の隠れた本性を鬼と表現する昔からの寓話なのかと思った。しかし、少し違うのだ。ここでは、鬼は外在化され、夜な夜な人間を餌食にしている。人間は鬼に喰われることはあっても、自らが鬼になることはない。人間は素朴な宗教心で自らを守り、鬼は外に存在するものとして祭りで貢物を捧げ、生かしてきた。

しかし、近代の合理的人間観では、伝統的宗教は衰退し、それと共に鬼の存在は否定された。だが、魂の救済が得られない人間は内部に鬼を宿すことになった。

小説「ジキル博士とハイド氏」は19世紀後半の作品である。薬によって二重人格を持てるとの発想は、鬼の内在化である。以降、私たちは内なるハイド氏を飼い慣らすことになった。しかし、その結果は「ジキル博士=ハイド氏」であり、日常生活のあらゆる刺激の中で、ひとりの人間の中に両者は対峙しているかに見える。改めて、江戸時代の精神世界を三味線音楽「三方掛合」と共に味わってみるのも良いことだ。

      

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