散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

“保護”が意味すること~『生活保護制度』の問題点(1)

2020年08月01日 | 地方自治
無所属で若手、重冨たつや議員(川崎市議会)が主宰、市民の参加が可能な研究会(月1回)に出席している。テーマを設定し、各10分程度の発表、質疑応答・議論する。特にまとめはないが、重冨議員の議会での一般質問(議員個人質問)へと昇華される。

4月から新コロナウィルス感染対応で延期になったが、6月に再開、7月に入ってZoom会議となる。出席者は6,7名程度、少人数で議論も活発になる。

先ずの報告は6月テーマの『生活保護』、
筆者が見出した問題点は以下の三点。

1)生活保護との表現が意味する処→個人の活動領域(=生活)全体を監理する
2)憲法25条における「文化」とは→生存権の中での位置
3)捕択率(保護世帯数/保護水準以下の世帯数)が低い(~15%)→何故?

本稿では1)を論じる。
普段は何も考えないで「生活保護」という言葉を聞き、また、使うこともあっただろう。
しかし、改めてこの言葉に向き合うと違和感が湧いてくる。何故だ!?
個人にとって、「生活」とはその人の活動すべてを含む表現になる。それを丸ごと保護するとはその人全体を監理する発想に繋がる。例えば保護監察、保護司などの法律用語が思い浮かぶ。「生活支援」、「生活補助」との呼称であれば穏やかなのだが。

筆者は地域の民生委員を2年間務めたことがある。市長から任命を受けるが、援助業務の対象のトップには生活保護者が挙げられていた。今から思うとナルホドそうか!とのおかしな納得になる。当然、暖かい眼…だが、公的機関による監察の側面も否定できない。

更に監理・監察は「隔離」の発想に結びつく。
戦後の欧米先進国は「精神病患者」を施設に隔離するのではなく、地域社会のなかに居場所と働ける場を用意する政策を主流にした。一方、日本は病院に隔離する政策を変えていない。それが「精神病床数」となって表れる。

欧米はグループホームを受皿にして、患者が社会復帰を目指す出口戦略に切り替える。これによって「精神病床数」は70年代以降、各国共に急激に下がる。一方、日本は病院に患者を隔離収容する考え方を変えず、病院の営利政策、生活保護費を当てにしてベッド数で稼ぐモデル、に任せたままだ。
(『日本国・不安の研究』PHP研究所、2020年)。

<民生委員制度>と<精神病院システム>は「保護思想」を介してどこかで繋がっているように、筆者には思える。これが日本的近代の遺産の一つかもしれない。
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