in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

悲しすぎる夕焼け

2009年04月25日 | Weblog
とにかく建てられるだけのShelter(テント)をと、10数名の職員と100人近い労働者でどんどん組み立てていく。睡眠と栄養不足から立ち上がる気力さえない避難民が多い中で、組み立てを手伝うことでそのテントを獲得しようと必死になる父親陣。現場がカオスになっていた。

のどが渇いたら、車の中にある水を飲むわけだが、避難民の手前上、公に飲むわけにもいかず、隠れてちょびちょびと。こんな状況では水というものが、金や銀よりもはるかに値打ちがある。

そうこうしているうちに夕刻が迫り、セキュリティの関係で暗くなる前に事務所に引き上げる時間となる。「はい、ここで終わり」と簡単にいえるはずもなく、あと一つだけ、もう一つだけと建てていく。どうにもこうにもいかなくなって、「ここから先は明朝!」と心を鬼にして宣言する。しかし、今晩の寝床がない家族が何千人とあふれていて、うちのスタッフらが母親陣に囲まれる(写真)。

どうして彼ら(避難民)がこんな仕打ちをうけねばならないのか。これまでの人生で遭遇した一番悲しい状況が夕焼けに染まっていた。

地獄絵図

2009年04月25日 | Weblog
Vavuniyaの新しい現場。テントやトイレなどの準備が整う前に、政府により避難民が戦闘地域付近より輸送されてきた(写真)。一晩でその数、およそ2万人。見渡すばかりの人人人。

現場は切り出された木々が所々で燃えていて、それでなくても暑い(36度くらい)のに、さらに暑い。水も食料も日陰も十分になく、戦禍から逃れて来た避難民の喜びもつかの間、置かれた環境に呆然とする人々も少なくない。

配給される食料や飲料水には、炎天下の中で長蛇の列。イライラしている人も多く、罵声が飛び交う。彼らの全財産であろう荷物を持って、少しでも落ち着ける場所を探す家族。病院に行きたいと膿んだ傷口を私に見せる人。親戚に電話して無事を知らせたいから携帯電話を貸してほしいとねだる人。それぞれ手を差し伸べてあげたいのだけれど、できない。

その場を逃げるようにして、周囲を歩き回ったのだけれど、どこもかしこも困っている人だらけで、どうしようもない。反政府軍に囚われていたのがやっと解放されたと思ったら、政府からその自由を奪われ(*)、最低限の生活さえ保証されていない。まるで生き地獄を見ているようで、歩きながら涙があふれてきた。


* 政府はその中に反政府軍が紛れていると考えていて、避難民を保護するという名目で強制収容している。

再会

2009年04月25日 | Weblog
うちの現地技術スタッフRの実兄が先月Mullativeで亡くなったことは前に書いたが、その兄妻と3人の子供の消息はわからないままだった。それが昨日、Vavuniyaの避難民キャンプにだとり着いた!とスタッフの元に連絡が来た。

偶然、Vavuniyaに出張に来ていた自分は、スタッフRの到着を待って、避難民キャンプを訪れる。何とか、遺された母親と子供3人(14、9、7歳)と無事に会うことが出来た。

彼らによると、何とか危険極まりないLTTE(反政府軍)支配地域から脱出しようと試みたが、LTTEからは『交換条件として、3人の子供のうち、長男(14歳)を置いていけ(つまり、少年兵士として訓練させる)』とLTTEに脅された。苦渋の選択で、家族ともども戦禍のLTTE支配地域に留まっていたとのこと。