泥棒役者を見てきました。
ある洋館へ泥棒に入った大貫はじめ(関ジャニ丸山隆平)それは絵本作家(市村正親)の家でした。泥棒に入りたくないのに脅されて盗みに入りました。脅したのは昔の仲間、畠山則男(宮川大輔)。その家の金庫を開けろと迫ります。絵本作家は童話も書きますが、すらんかぷに陥っていて、はじめに代筆をやらせようとします。そこに訪れた空気の読めないセールスマン(ユースケ・サンタマリア)。作家のところに来ている編集者。隣のクレーまーが現れたりするドタバタ劇でした。
始めから終りまで1軒の洋館の中での出来事でした。同じ場所で演じていまして舞台劇のように感じました。
各務原ケ飛行場が大正6年に陸軍が飛行場として運用をはじめて100年を迎えます。それを記念して各務原市中央図書館の3階でパネル展が開かれています。
パネル展の開催のチラシです。
講演会が開かれました。
会場の全景です。
飛行場が今の姿になる前は第一飛行場と第二飛行場になっていました。
飛行場の歴史年表です。
左の部分には旗本坪内家が大砲の試射場として使っていて明治になって陸軍の練兵場となりました。大砲が進化して演習場の外へ弾が出てしまうようになり、演習場として使えなくなりました。それで飛行場となりました。それが、国内で2番目の飛行場となりました。第1番は埼玉県の所沢なのですが、所沢は今では飛行場が無くなりました。今では各務ケ原が日本最古の飛行場となります。
飛燕の車輪です。
戦闘機の車輪で脚が機体に折り込まれるのですが、そんな機体が無くなったのでしょう。そして車輪だけが残り、リヤカーか荷車の車輪に使われていたようです。
写真を見ている人たちから、メッサーシュッミットと言っているのが聞こえました。
他国の水冷エンジンの戦闘機と比較しているのでしょう。
メッサーシュッミットはドイツの戦闘機です。
この時期。イギリスにはスビットファイヤーが有りました。
飛燕のスピナーとカウリング。
スピナーはプロペラの先端軸を覆うカバーです。カウリングはエンジンカバーのようなものです。
終戦後、進駐軍が来ました。そして飛行場はキャンプ岐阜と呼ばれました。
キャンプの中は日本の中の外国で、リトルアメリカのようだったのでしょう。
キャンプに有ったボーリング場。恐らく、今のボーリング場のように機械が自動的にピンを立てるものでなく、人が立てていたのだと想像します。若い人のアルバイトではなかったか。
感想
各務原飛行場が開かれて100年を迎えました。高山本線が開通したのはそれより2年遅れてでした。飛行場がオープンするのに飛行機はどのように運んで来たのだろうと疑問に思っていました。この展示会を見て判ったのは、岐阜から馬車で機材を運んで来たと言う事です。東海道線は明治22年に全通しました。その後で、岐阜から馬車で運んだ。それにしても、大変な事だったろうと想像します。
各務原市中央図書館の3階に歴史ギャラリーが11月18日にオープンしました。各務原ケ飛行場 100周年のパネル展を見に来たついでに寄りました。
ポスター
ギャラリーの全景です。
縄文時代の土器が展示して有ります。
各務原ケ飛行場 100周年のパネル展が主目的でギャラリーは、ざっと見ただけです。
またの機会。じっくり見たいと思います。