朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

安楽寺の紅葉

2013-12-10 | 京都の文化(冬)
哲学の道のすぐ近くの鹿ヶ谷に安楽寺があります。



この門の石段に散る紅葉の風景がよく知られています。(12月7日撮影)

法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人が「鹿ヶ谷草庵」を開山しました。両上人が称える礼讃声明(仏教アカペラ)は誠にすばらしく、当時、両上人の前で出家を希望する人も多くなりました。

”その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになりました。建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞います。



最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘されます。
「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」
 
19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かります。また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かります。
 
この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年2月9日、住蓮上人は近江国馬淵で、同日安楽上人は京都六条河原で斬首されました。この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。いわゆる建永(承元)の法難です。”(引用:安楽寺公式web http://anrakuji-kyoto.com/about)



仏足石。



本堂横の部屋には松虫姫と鈴虫姫の絵が飾ってありました。



鶴田一郎画伯の作品。



その画集が発行されています。



お寺の敷地を右手に登ると、



松虫姫・鈴虫姫のお墓がありました。



両上人亡き後「鹿ヶ谷草庵」は荒廃したのですが、流罪地から帰京した法然上人が追善のため「住蓮山安楽寺」と名づけて草庵を復興しました。

安楽寺、雪の石段写真はここ
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