朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

古城(跡) 巡り 滋賀県

2023-05-14 | 国内各地の風物

この日は家族たちが東京に戻る日で夕方の新幹線まであまり時間がないなか、東山の峠を越えて距離的に近い大津市にある坂本城跡に行きました。

明智光秀が織田信長の命により1571年に築城したお城の跡です。当時、鉄道も自動車もないなか多量の物流は水運が中心でした。琵琶湖は日本海の港から京都への水運に重要な役割をはたしていました。

 

完成した坂本城は、琵琶湖湖岸から少し離れた湖上を埋め立てて本丸とし湖岸側に関連施設を建設しました。現在でも湖の水中に城壁の石組が少し残っていて湖の水位が下がると現れるそうです。土日祝日は地元のボランティア「坂本城を考える会」のメンバーが説明をしてくれます。

いただいた資料の坂本城復元予想図です。

ここに城を築いた目的は、比叡山延暦寺に対する抑えと琵琶湖水運の交易(課税)・湖賊(海賊)の警備でした。織田信長は光秀に坂本城を、羽柴秀吉に長浜城を築かせ、そして自身の安土城の対岸に大溝城(琵琶湖西岸、高島市)を築き四つの城によって、琵琶湖の水運を完全に掌握しました。

明智光秀の像が設置されています。

「光秀の意地」(唄:鳥羽一郎)の歌碑、ボタンを押すと歌が流れました。

 

坂本の町を散策しました。ここには伝統ある鶴喜そばの本店があります。当時、築城の石垣建設の専門家集団「穴太衆」(あのうしゅう)が住んだところです。

 



以前にこのあたりを散策した時の写真を掲載します。

規格化された石材ではなく、色々多様な石を組み上げています。なにか芸術性を感じさせてくれます。

(古城巡り、終わり)

 

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古城(跡) 巡り 京都府

2023-05-13 | 京都の文化(夏)
古城巡り2日めです。
まずは、京都市内中心部にある二条城に行きました。GWの最中なので朝から入場者が多くチケット窓口には行列ができています。このお城には何回も来たことがありますが、今回は御城印あつめが目的なのです。城の外では買えないので、チケットを買い中に入ってお土産売店で買いました。都合30分の滞在。(ちょっと損した気分)
 
 
次に向かうのは福知山城。すこし遠いです。車なので、京都縦貫自動車道を走っていきました。約100km、2時間くらいのドライブでした。
 
福知山城の駐車場は100台分くらいあるのですが、ほぼ満車でした。幸い1台分空きができたのでとめることができました。
 
 
立派な天守閣が目の前にそびえます。
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公明智光秀のブームがあったようです。



武者姿の係員が城内に出かけるのをついていきました。
 
お堀に大きな新しい太鼓橋がかかっていたので、これを渡っていきました。御城印は橋の向こう側にある売店で求めることができました。
 
 
この写真はお城の公式webからの引用。紅葉の季節はこんな景色。

 
明智光秀が由良川ともう一つの川が合流する地点にある丘を利用して、1579年ころに築いた城です。織田信長から丹波攻略を命じられ、一度は敗退しましたが苦戦しながらついに丹波を平定しまた。「その名誉は天下に比類なし」と高く称賛をえて丹波国の支配を任されました。
 


この石垣は野面積みといわれる方法で自然の石に加えて五輪塔や石碑など多くの転用石材を使って積み上げられています。
 城主は度々変わりましたが、江戸時代1669年に朽木氏が常陸国土浦から入部して以来明治維新に至るまで13代にわたり藩主を務めました。明治6年の廃城令により石垣などを残し大半が失われたそうです。戦後、城再建の機運が高まり市民による「瓦一枚運動」などにより1986(昭和61)年に3層4階の大天守と2層の小天守が再建されて現在にいたりました。 
 
 
天守閣の内部には、昔の和綴じ本が色々と収集され展示してありました。この絵は「信長嫌て光秀を打擲(ちょうちゃく)する図」(絵本太閤記)。



天守閣のこの部屋は、藤井聡太竜王が竜王戦(2022年11月)を戦った場所。だれでもその場所に座ることができました。
 NHK「麒麟が来る」の観光ブームを引き継ぐために市役所など地元総出で勧誘したそうです。
 
(公式webより引用)
 
お城の見学がおわり、さて昼食をどうするかレストランを探しました。駐車場のすぐ近くには「ゆらのガーデン」と称して飲食店がいくつかありましたが、満員で待ちが長い。
 そこでインターネットで福知山の話題の食べ物を検索しました。で・・・
 


JR福知山駅の駅前にあるこの店の「ゴム焼きそば」に興味を惹かれていきました。
 しかし、目の前で店主が暖簾をしまう場面に遭遇! 今日の昼は終了でした。しかたがないので近くの喫茶店にはいって、焼うどん、ナポリタンなど各自が定番のメニューを選びました。
 
京都府の北部で、府外からの観光客は多くなかったようですが、帰路の京都縦貫自動車道の中間にある京丹波PA(京丹波味夢の里)は駐車場が満車で車の待ち行列ができていました。(つづく)
 
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古城(跡)巡り 奈良県2

2023-05-11 | 国内各地の風物

次に向かったのは、奈良県北西に位置する大和郡山市の郡山城でした。

京都から橿原神宮に向かう近鉄の線路がこのお城の堀と石垣のすぐ近くを通るので、車窓からよく眺めていてこのお城はどんなところだろうかと思っていました。

 
 
三輪そうめんの店で満員のため入店をあきらめたので、道路を走りながら和食の店を探したのですが途中には見つかりません。大和郡山の町に入ったところで一軒てごろな定食屋さんがありました。
 

 
皆さん思い思いの食べ物を買いました。私はきつねうどんとメンチカツ。子供たちが注文した豚汁がとてもおいしかったとの感想。
 
さて、郡山城に入城しました。信貴山城は小高い山の頂上でしたが、ここは平城で平地に造られています。

 
「続日本百名城」だそうです。続というのが、なにか微妙ですね。
 
 
この説明板から抜粋してみます。
「天正8(1580年)筒井順慶が大和国唯一の城郭として築城を開始する」・・~信貴山城が落城したのが1577年なので、その3年後だった!
 
「1585年に入部した豊臣秀長によって本格的に整備された。1595年に増田長盛による外堀普請で完成した」
「関ヶ原の戦い後一時在番支配となるが、大坂・京都に近い要衝として幕府に重要視され、1615年復興。水野、松平、本多といった譜代大名が城主を務める。・・江戸時代を通じて大和国の政治、経済、文化の中心として繁栄した」
 
なるほど、続百名城にふさわしいですね。
江戸時代を通じて大和国の中心だったのに、なぜ奈良県となったときに奈良市に県庁が置かれたのでしょうか?
 
 
立派な深い堀が残っています。
 
 
天守閣の発掘調査が行われています。
 
石垣は野面積みで自然石のほかに石仏や礎石、墓石などの転用材が多く使われています。



天守台からは眺望がよく、奈良の若草山がはっきりと見えました。
 
ご城印は、柳沢文庫受付でいただくことができました。
 





 
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2023GW 古城(跡)巡り 奈良県1

2023-05-10 | 国内各地の風物

5月の連休後半に東京から家族3名(うち小4と中1の男子2名)が来訪してくれました。中1君の最近の趣味は「戦国武将にゆかりの城」を見学して、ご城印を集めることです。

さっそく5月4日(木)に京都から自家用車で信貴山城跡に向かいました。道路の渋滞を避けるため、少し遠回りですが、第二京阪道路(有料)に乗り、門真JCT、近畿自動車道、第二阪奈道路から壱分ICでおりて、一般道を南下して信貴山朝護孫子寺(しぎさん ちょうごそんしじ)に到着。渋滞はほとんどなし。お寺の駐車場はほぼ満車でしたがどうにかとめることができました。
 
このお寺は1400年前に聖徳太子が毘沙門天王を感得されて建立されました。崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立し、守屋討伐のための戦いが勃発しました。聖徳太子こと厩戸王子も討伐隊に加わったのですが、寅年、寅日、寅刻に空に毘沙門天王が現れました。この伝承によって、「虎」がお寺のシンボルになりました。
 
 
世界一福虎。首を振ります。
 
 
案内図に従って、まずは本堂を目指しました。朱塗りの欄干が美しい舞台からは大和平野が遠望できました。



少し参道を戻って・・・
 
 
信貴山城跡を目指して、かなり長い石段とジグザグの坂道が続きました。約2,30分息を切らして登りました。

 
ようやく城跡の石碑を見つけました。標高433m。石垣などは残っていません。戦国大名松永久秀の居城でした。



松永秀久は1577年織田信長軍の総攻撃を受けながらも50日間籠城し、信長が何度も所望した茶釜「平蜘蛛」を渡すまいとしてこの釜もろとも爆死したと伝わっています。・・周りの地面を探してみたが破片らしきものは見つかりません。汗。
 
 
空鉢護法堂が山頂にあり、巳(み、十二支の蛇)を祀っているので、蛇の好物生卵と清酒がいくつもお供えしてありました。
 
坂道を下って参道にもどると途中に、虎の郵便ポストがありました。

 
ご城印は開運橋のたもとにある観光センター売店で買うことができました。
近くにみたらし草団子の売店があったので、食べてみると案外に美味で団子好きな中1君がとても喜んでいました。



これは大門ダム。開運橋の中央にはバンジージャンプ(高さ30m)の設備がありました。時々、歓声が沸き上がっていました。関西では唯一のジャンプ場だそうです。
 
・・・ほぼ昼食時となったのですが、門前町の食堂は避けて、奈良の名物の食べ物を探すことにしました。
 
思いついて「三輪そうめん」に行くことにしました。桜井市ですね。カーナビに目的地を入れて約30分で「三輪山本」の直販店・レストランにつきました。広い駐車場がほぼ満車。受付に行くと、ものすごく多くのお客のウエイティングリストがあり、待ち時間はおよそ1時間とのこと。
 
ここはあきらめて、次の古城の場所を目指すことにしました。その町で食事処をさがそう!
 
 
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山笑う(京都市左京区八瀬)

2023-05-02 | 油彩水彩画、雑誌の表紙

「山笑う」とは俳句の季語で、春山の木々が一斉に芽を吹き山桜などが花開く明るい景色を表している。

 京都市街地から高野川に沿って大原街道を行き、八瀬集落を過ぎたあたりの山には落葉広葉樹が多い。東山と同様に戦後の大規模な杉植林を免れた山は四季ごとに美しい。(ITUジャーナル May 2023)

 

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青函連絡船

2023-05-01 | 国内各地の風物

Day3、旅館バスで青森駅まで戻りました。帰路の飛行機出発まで多少の時間があったので、青函連絡船の見学に行きました。

 営業運航は1988年(昭和63年)に終了しています。もう若い人たちは列車に客を乗せて船で運んだことなど知らないでしょう。昭和の文化遺産の一つかな。
 青森駅は北海道への鉄道連絡の港でした。東北本線を走って来た列車は客車ごと連絡船に積み込んで出発しました。鉄の車両は乗客と荷物の重量よりも桁違いに重いのに、なぜ船で対岸まで運んだのでしょうか? 貨物車は積み替えの手間が大きいから分かるが。


現在はこの八甲田丸が青森港で実物展示されていて中を見学できました。
 


昔の風景が人形と物品模型を使って展示されていました。この木箱は文字通り「りんご箱」と言ってダンボール箱がなかった時代には便利に再利用されて引越しや簡易な家具、さらには分解して棚板などに活用されました。
 連絡船の歴史を紹介するビデオ映像室もあります。洞爺丸事故は台風によって函館で連絡船が沈み多くの乗客乗員がなくなりました。また戦争中は空襲で大きな被害が出ました。
 


操舵室。人形がいてリアリティがあります。



煙突甲板の鯉のぼり🎏。
 
 






鉄道車両を積むデッキは2階建てになっています。
乗客の乗せたまま、客車を積み込む方法は1948年12月~55年5月までの約6年半しか実施されませんでした。乗客はいったん降りて乗船し船の客室に入る。
 洞爺丸などの遭難事故が起こったため。貨物輸送は荷捌きの効果が大きいので続けられたそうですが。



巨大なエンジンが並んでいます。初期の頃の連絡船は蒸気機関だったので大量の石炭も積み込んでいたそうです。
 
私は学生時代の夏休みに、友人たちと自家用車で北海道一周旅行をしました。はっきりとは記憶がないけれど、連絡船には自動車も乗せたようなので多分そうしたと思います。
 
連絡船の近くには新しい観光施設が出来ていて、青森県のりんごや加工品などの土産物販売や、シードル(りんごワイン🍷)やクラフトビールの醸造所があり、オシャレなカフェがありました♪
 
 
駅前からバスで空港へ、30分程度。

 

この日は快晴でした。窓際の席が取れたので新潟県の日本海海岸線が良く見えました。
 
 


この山は不明?
 
 


富士山も見えました。手前の山脈は北アルプスかな?
 
2泊3日の気楽な旅でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
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