遅いことは猫でもやる

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島でなくなった出島

2014-12-12 12:27:37 | 雑感
 出島の外観
 出島内部のメインストリート

江戸時代、唯一の外国との接触地点だった出島はかねて私の興味の的だったところだ。ホテルから歩いていけるくらいの近さではあったが、港よりかなり内陸にある。明治以降周りを埋め立ててしまったのか、復元した建物群は市電のレール沿いにあった。黒い屋根の上に伸びる物見櫓が青緑色に塗られ、一見して変わった雰囲気を醸し出している建物群に入ってみる。
 一番船頭部屋寝室と大広間
 一番船頭部屋居室

出島はもともとポルトガル人の居住区であったが、1639年追放令を受けて無人となり、1641年平戸にいたオランダ人を移住させて以来、唯一の外国人居住区となったのである。
川(堀?)沿いに250mほど伸びる道の両側に復元慕っ建物が並ぶ。「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」などが復元され、異国の雰囲気を残している。

 カピタン部屋入口
 カピタン部屋食堂
 メインダイニングルーム

カピタン(商館長)部屋は、中でももっとも力を入れて復元したもので、部屋数も多く広く、唯一外国の中では通称を許された、オランダ人の拠点として使われた様子を彷彿とさせた。日本人の出入りは禁止されていたが、宴会接待用の遊女は例外であったらしい。当時の浮世絵に記録が残っていた。どの展示も明るく、本当に今も使っているような状態で、ただやたらに古びた什器、家具をおいている従来の展示とは違い、臨場感は増していた。

しかしながら、オランダ大使館と思えばまだしも、この狭い出島に閉じ込められたオランダ人の閉塞感はいかばかりであったろう。またここしか世界への窓口がなかった日本の状況は、グローバル時代の現代からは想像もつかない。
今は周りがすっかり埋め立てられてはいるが、当時は四方海だったことを考えると、正に東洋の島国に来てしまったという思いでいっぱいだったろう。
 ヘトル屋敷 物見櫓が屋根に架かる

建物はこの他、へトル(商館長次席)屋敷、料理部屋、乙名部屋(日本側の貿易事務や管理を担当していた出島乙名が拠点とした建物)旧長崎内外クラブ、旧出島神学校、などが復元されている。狭くはあるが、この力様々な文化が発信されていた息吹みたいなものを感じるには十分な復元建物であった。
 オランダ坂

夜、一千万ドルの夜景と言われる、稲佐山に登ってみた。確かに山の斜面にそって、灯りは散りばめられ、煌めく。ただ函館、神戸のほうは100万ドルと言われるが、海との兼ね合いで、むしろそちらに軍配を上げたい。