風月庵だより

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純情

2006-06-10 23:57:56 | Weblog
6月10日(土)晴れ夕刻一時雨【純情】

中国人の友人から、先日感激した話として耳にしたこと。それは中国の西の方に住んでいた若者の話である。彼のフィアンセが癌のために亡くなってしまった。若者はフィアンセの両親に一週間尽くした後、フィアンセのお墓の前で命を絶ったということである。

このことについては、賛否両論があろうと思うが、常に世の中には何事にも賛否両論がつきまとう。私は賛成とも言えず、反対とも言えないが、この純情については心うごかされるものがある。若い人がこういう話に感動することは、かえって好ましくさえ思う。この頃は、若者たちの純情、特に恋における純情はどうなったのかと心配さえしていた。

一昔前は失恋したら一人しょんぼりとしたり、自殺しようかという若者さえいたのに、最近はこの頃冷たくなったとか、見向きもしてくれないとなると、その相手を刺してしまうという恐ろしい事件を耳にすることが多い。いったい恋の純情はどうしたのかと時折に心配していた。歳をとってから大学院に入ったので、若者たちと触れ合う機会は多少はあったが、大学院生ともなると恋愛も落ち着いているようで、純情を感じるような恋愛をしている若者たちとは触れ合うチャンスもなかった。

この中国の若者のように、最愛の相手を失ってその後を追う、というような話は新鮮でさえある。"RIGHT PERSON(まさにふさわしい相手)"はこの世に生まれてくるときに約束して生まれてくる、と大学生の頃ヨーロッパの友人に吹き込まれて、私もその説を信じていたのであるが、どうも出会えなかった。いや、出会えたのかもしれないが、私が愚かであったのだろう。

まさにこの人と思える人に出会えて、婚約までして、先立たれたとき、躊躇なく後を追えることは幸せとさえ言えるかもしれない。残された家族は悲しいには違いないだろうが、天国で二人は結ばれている、と思えることは救いだろう。

たまたま井波律子先生が編集された『中国の名詩101』(新書館2005年刊)を読んでいたら、妻を失った悲しみを詠んでいる次のような詩に出逢ったので、紹介させていただきたい。

「悼亡詩トウボウシ」       *カタカナは振り仮名です
如彼翰林鳥      彼の林に翰トぶ鳥の
双棲一朝隻      双棲ソウセイなるも一朝にして隻セキなるが如く
如彼游川魚      彼の川に游ぶ魚の
比目中路析      比目ヒモクなるに中路にして析ワカたるるが如し
春風縁鄛来      春風 鄛スキマに縁ヨりて来り
昃霤承檐滴   昃霤シンリュウ檐ノキを承けて滴シタタる
寝息何時忘      寝息シンソク何の時か忘れん
沈憂日盈積      沈憂 日びに盈積エイセキす
庶幾有時衰      庶幾コイネガわくは時に衰うる有らんことを
荘缶猶可撃      荘缶ソウフ猶お撃つ可し



あの林を飛んでいる鳥が、二羽で棲んでいたのにある時突然に一羽になってしまったように、
あの川を楽しげに泳いでいる魚が、並んで比目の魚のように泳いでいたのに途中で別れ別れになってしまったように、(私たち夫婦も別れ別れになってしまった)。隙間から入ってくる春風に身を震わせ、軒から滴る夜明けの雨だれに(一人)聞き入る。眠ってはいても忘れるときは無く、深い憂いは日々に積み重なっていく。願わくはいつの日か妻を失った悲しみがやわらぎ、荘子が缶を叩いて歌を歌ったような日が来てくれることを。

これは潘岳が、亡くなった妻を思う哀切の情を詠った詩である。
このように想える妻を持った幸せと、想ってもらえた妻の幸せというものが伝わってくる。長じても思い合う樣子が、純情な少年、少女のようなご夫婦がいるが、どちらかが先立たれるとより一層そのご夫婦の結びつきの強さを感じるような場合が多いように思う。

江藤淳氏のように、最愛の夫人の後を追って逝ける幸せもあるだろうが、老いた親や責任のある立場にある人はたとえ後を追いたくても許されないだろう。やがては必ず帰るのであるから、その時が来るまで、この世に生き続ける勇気をお持ちいただきたいと願う。屋根の上に一羽の鳥が止まったら、それは先に逝った人が心配して見に来てくれているのかもしれない。この世で比翼の鳥であったなら、必ずまた比翼の鳥になって天を駆けめぐる日が来るのではなかろうか。

それぞれの純情の表し方があるだろう。純情を表せる相手のいる人の幸せに祝福を。たとえ今は天地に別れているとしても。

気の重い話の多いこの頃、中国の若者の話から潔イサギヨい純情に思いを馳せたことである。

潘岳:(247~300)西晋の文学者。美男子であったそうで、彼が洛陽の道を通ると、女性が競って果物をその乗り物に投げ入れたといわれている。(今見つけられないが、たしか女性の愛の表現は果物を男性にあげることであり、男性は宝石の玉ギョクをお返しする、ということを読んだ記憶がある。)多くの詩文を作ったが、特に哀傷の歌が多い。その最期は誣告されて処刑された。
悼亡詩:悼亡はもともとは死者を悼む意味。潘岳の詩によってもっぱら妻だけを対象とするようになった。
比目:想像上の魚。雌雄それぞれ片方の目しかなく並ばないと泳げないとされる。「連理の枝」「比翼の鳥」とともに仲の良い夫婦の喩えに使われる。
荘缶猶可撃:荘子が妻を亡くしたとき、友人の恵子が弔問におとずれたところ、荘子は盆を叩いて歌っていた。恵子の非難に対して、「人の死は季節がめぐるように、当たり前のことだ」と答えた、という話をもとに作られた一句。
**以上道坂昭廣氏の解説による。

江藤淳:(1932~1999)漱石の研究が名高い。評論家。小説家。慶子夫人が癌で亡くなった翌月、自ら命を絶つ。次のような遺書を残している。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」

鎮魂歌-彩香ちゃんと豪憲くんに

2006-06-07 22:51:16 | Weblog
6月7日【鎮魂歌ー彩香ちゃんと豪憲くんに】

川の畔にめんこい童女(わらし)
じっと動かず泣いている
何も分からず泣いている

藤琴川の神様が
めんこいわらしの冷たい体
暖めてほしいとお日様に頼んだ

光の天使が降りてきて
わらしをそっと抱きあげた
雪解け水は冷たかろ
もう大丈夫帰ろうね
天のお家に帰ろうね


川の畔にめんこい童男(わらし)
母の名呼んで泣いている
父の名呼んで泣いている

藤琴川の神様も
耐えきれないとおんおん泣いた
白神山の山の神様
どうか代わりにめんこいわらし
助けてあげてくださいな

白神山から飛んできた
森の精霊勢揃い
わらしよ泣くな遊ぼうね
みんなで一緒に手をつなぎ
お歌を歌って遊ぼうね

良い子だ良い子だめんこい子
そーら良い子だ精霊たちと
遊んでいるうちおねむになった

山の神様わらしを抱いて
白神山に連れてった
天のお家に帰る前
も少し遊んでいかせたい

光の天使も輪になって
わらしを囲んで柔らかな
光につつんで守りましょう

悲しみー秋田小1男児殺害事件に思う

2006-06-07 18:42:59 | Weblog
6月7日(水)晴れ【悲しみー秋田小1男児殺害事件に思う】

秋田の米山豪憲君(7)を殺した犯人が、豪憲君にとっては一軒隣りの知り合いのおばさんであったとは、日本中の人が驚いたことであろう。私もこの犯人が警察に出頭した日曜(4日)の朝から、事件についてなにかブログに書くことすら、気力が無くなった想いである。

この犯人のお嬢さんはどうしたのであろうか。これも事故とは思いづらい事件である。この畠山彩香ちゃん(9)が4月10日に発見されたときに、警察がきちんと捜査をしておけば、と、悔やんでも悔やみきれないことである。

少しずつ犯行について供述を始めているようだが、まだ核心には至っていないようである。自分の子にすら、料理を作って食べさせてやることのできなかった母。プロパンガスは入っていないとすると、お湯は電気で沸かしていたのだろうか。わずか九歳で命を終えた少女は母の手料理の味も知らずに、死んでいったのか。

どうして近所の可愛い坊やを殺さなくてはならなかったのだろうか。まさか自分の子があの世で寂しいからなどということではないだろうが、いかような理由にしても納得できる理由などあるはずがない。

どうして鈴香容疑者はこのような残酷なことのできる人間になってしまったのか。

本当に困ったことだ。日本はどうしたのだろう。ブログに「殺」という字を書くたびに抵抗があって、もう時事問題に即したことは書くのをやめようか、とさえ思っている。

豪憲君のご冥福を祈ります。祈ります。彩香ちゃんのご冥福を祈ります。祈ります。

どうして痛ましい事件が跡を絶たないのであろうか。なにか間違っている。教育も間違っているのではなかろうか。

昔の人々は正座をしこまれた。多くの日本人が人間としての道を正座によって、自然に身につけていたのではなかろうか。また日本の幼児教育は背筋を伸ばして、きちんとご挨拶をする立腰教育に尽きると思うし、大人もきちんと背筋を伸ばして、生きていくことが大事であると思う。手前味噌ながら、坐禅は天地の全てがそこにある姿である。坐禅のできる人は背筋を伸ばして坐禅をしよう。

そんな簡単なことではない、と言われるだろうが、なにかしなくては、なにか考えなくては。夢ある子供たちの未来が断ち切られるような痛ましい事件が起きないように。できることから。はじめよう。


教育を考える、その6-子は宝、しつけは子の宝・立腰について

2006-06-03 21:27:16 | Weblog
6月3日(土)曇り【教育を考える、その6-子は宝、しつけは子の宝・立腰について】

今朝、法事に出かける道すがら、NHKラジオで幼児教育についての放送を聞くことができた。それこそ幼児教育の原点と模範がここにあり、といえるようなお話であった。それは福岡の仁愛保育園の園長先生、石橋富知子先生による「三つ子の魂を育てる」と題されたお話であった。

教育哲学者の森信三先生が提唱なさる「立腰保育 教育の方針と内容」ということの書かれた本を読まれた石橋先生は、それを読まれた翌日から、早速実践をなさったという。先生が幼稚園を始めてから三年経つその日まで、園児の教育に振り回されていた状態であったようだ。そこに森先生の立腰(りゅうよう)教育を読まれて、これだ、と思うところがあったのであろう。

立腰教育とは、「腰骨を立てる」習慣を子供たちに身をもって教え、「心と体をととのえ、自分らしく生きる意志力、性根、主体性の土台」を培うことを眼目とした教育方法であるという。仁愛保育園では園児たちに毎日正座をする時間があるそうだ。はじめのうちはよく正座のできない子も、先生たちが丁寧に正座の方法を教え、腰骨を立ててきちんと座ることを教え、きちんと座れていないときは、姿勢を直してあげて、そして先生たちも腰骨をしっかりと立てた姿勢で一緒に正座をなさるのだという。

そして森先生の語録にあるように、挨拶をきちんとするのだそうである。子どもといえども「さん」付けで呼び、一個の人間としての自覚を持たせるのだという(石橋先生の表現は少し違ったかもしれないが、そのような意味あいだと思う)。また子供たちに話しかける言葉もきれいな丁寧な言葉を使い、決して怒鳴ったり、頭ごなしの叱り方はしないのだという。子ども一人一人の人間としての尊厳を大事にするということであろう。

子供たちが幼稚園に来て、靴を靴箱に入れるときもきちんと正座をして、靴を整えていれるのだという。聞き手の金光さんがそれをみて感心なさっていた。森先生の語録には「挨拶、返事、履き物をそろえる、椅子を入れる」ことが書かれていて、それを石橋先生は実践なさっているのである。

このように幼児期に立腰を身体に教え込まれれば、静かにすべき時と、騒いで良いときの区別のつく人間になれるのであり、人間として、してはいけないこと、すべきことが自ずと分かる人間になることができると、石橋先生は確信していらっしゃる。ラジオを聴いていてまことにその通りであろうと同感し、これこそ大事な大事なしつけではなかろうかと、強く思った。可愛い子供たちに、特にしてはいけないことの分かる人間になって頂きたい。このようなしつけを受けた子供たちは、命の大事なことは当然に分かる人間に育ってくれるはずだ。

なおも石橋先生はおっしゃったが、十才を過ぎれば、それぞれの個性を伸ばすべく、今までの教えをバネに、さらにそれをうち破っていく力を出せるものだと言われた。そしてこの情報社会でこれからの日本人が生きていくのに、「立腰は日本人の構え」となりうる、とも、森先生は説かれたという。

教育の原点はまことに立腰にこそあると言えよう。それは子供に限らず、大人にも言えることだ。私もこの頃はだいぶ姿勢が悪くなってしまったが、坐禅のときも、椅子に座っているときにも合掌のときも、姿勢を直し直し生きている。石橋先生もおっしゃっているが、幼稚園でも先生方自身がきちんと立腰に心懸けていらっしゃるという。それは単に手本ということよりも、それぞれ自身のためであろう。

今日のご法事で、私も、早速に背筋を伸ばし、腰骨をきちんと立てて合掌しましょう、と話したら、三歳の坊やが最も素晴らしい合掌の姿を見せてくれた。そして大人よりも長いこと何か拝んでいるようであった。私は度々に幼児の姿に感動している。幼児でもちゃんと理解するアンテナを持っていると、確信している。幼いときからお互いの人格を信頼しあうつき合いを、親子でも持つことが大事であると思う。

帰庵してから森信三先生について、インターネットで調べたら、教育についての第一人者であるようだ。国民教育の師父とも言われる方のようである。知らなかったのは私ばかりかもしれないが、ご紹介しておきたい。

森信三:(1896年9月23日 - 1992年11月21日)哲学者・教育者。愛知県、知多半島の武豊(たけとよ)に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で岩滑(やなべ、現在の半田市)の森家に養子に出され、以来森姓となる。
1923年(大正12年)、京都大学哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。1992年(平成4年)逝去。おもな著書に『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』などがある。 半田市名誉市民。半田市がつくった新美南吉記念館の一室に森信三記念室が設けられている。

御手洗怜美さんを偲ぶ-佐世保の事件はなぜ起きたか

2006-06-01 12:28:04 | Weblog
6月1日(木)晴れ【御手洗怜美さんを偲ぶ-佐世保の事件はなぜ起きたか】

六月一日、衣替えに相応しく蒸し暑い朝である。さっぱりとした夏服に着替えた少女の一日も、何事もなければ、昨日と同じような一日を終え、家に帰ってお父さんに一日のことを報告して甘えていたであろうに…………

佐世保の小学校で痛ましい事件が起きたのは、二年前のことである。父親の御手洗恭二氏は、「時が経っても苦しみが増すとは思い及ばず、戸惑っています」と手記を綴られている。おそらく癒されることのない更なる苦しみが増していることを、このように表現なさっていられるのであろう。

少女が生きていれば、中学二年になる。この世にあれば、多感な頃を、いろいろな本を読んで楽しんでいたのではなかろうか。『赤毛のアン』を読んでギルバートのような少年に憧れたり、ちょっと背伸びしてヘッセを読んだりして、分からないことをお父さんに教えて貰ったり、将来は看護婦さんになろうか、お父さんのように新聞記者になろうか、それとも美味しい料理を亡きお母さんの代わりに作ってあげられるような料理研究家になろうか、次々にいろんな夢を見ていただろう。

いまだその死を受け入れがたい怜美さんであろう

加害少女は「なぜ」このような悲しいことをしでかしてしまったのか。県中央児童相談所の所長さんが一年前に発表したように、「社会性の障害を中心とする発達障害」のある子だとすると、その障害を治しきることができるのか、時が経てば神戸の酒鬼薔薇少年のように社会復帰してくることになるので、再発の可能性はないか危ぶまれることではなかろうか。

発達障害ということについて、そうではないと両親もその子も反論し、加害少女のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が悪化したと、当時訂正と謝罪を求めていたというが、このような主張をすること自体、理解しがたいものがある。

家庭の問題も無く、たいした理由もなく、起こされたこのような事件は時が経てば治るようなことなのだろうか。加害少女は事件の前日に殺害方法をインターネットで調べていたという。また、私も事件の前日に、たまたま観たが、サスペンス・ドラマでカッターナイフでの殺人事件を放映していた。加害少女はそれにヒントを得たという記事を、一度目にしたがどうもこの記事はその後見つけられないのだが。

事件の前日、母親と愛について話していたというが、同時進行してその心の裏にあった暗闇に誰も気付けなかった悲劇。

今は栃木の児童更正施設「国立きぬ川学院」で加害少女は暮らしているが、どのような更正プログラムを受けているのか、被害者の家族には開示されてもよいのではないか。また加害少女の家庭には問題が本当にないのか、「父親は嫌い」だと言ったことがあったそうだが、どうしてこのような悲劇が起きてしまったか、もう少し社会に情報開示をして、お互い他人事ではなく、問題の所在を考える必要が急務のこととしてあるのではなかろうか。御手洗氏も言われるように「有用な情報」を社会に還元し、開示し、社会の疑問や不安に応える必要がある

あなたの可愛い子どもが何時、被害者になるかもしれない、いや加害者になるかもしれない。このところ、三十三歳と二十二歳になる青年たちが、それぞれ両親を手にかけて死に至らしめるという痛ましい事件が起きているが、このような事件についても社会の問題として受けとめないと、今に誰しもこのような悲劇にあう可能性がでてくるだろう。

今朝は御手洗怜美さんの慰霊のために祈りを捧げた。お母さんに抱かれて、慰められていることと思いたい。安らかでありますように