6月7日(水)晴れ【悲しみー秋田小1男児殺害事件に思う】
秋田の米山豪憲君(7)を殺した犯人が、豪憲君にとっては一軒隣りの知り合いのおばさんであったとは、日本中の人が驚いたことであろう。私もこの犯人が警察に出頭した日曜(4日)の朝から、事件についてなにかブログに書くことすら、気力が無くなった想いである。
この犯人のお嬢さんはどうしたのであろうか。これも事故とは思いづらい事件である。この畠山彩香ちゃん(9)が4月10日に発見されたときに、警察がきちんと捜査をしておけば、と、悔やんでも悔やみきれないことである。
少しずつ犯行について供述を始めているようだが、まだ核心には至っていないようである。自分の子にすら、料理を作って食べさせてやることのできなかった母。プロパンガスは入っていないとすると、お湯は電気で沸かしていたのだろうか。わずか九歳で命を終えた少女は母の手料理の味も知らずに、死んでいったのか。
どうして近所の可愛い坊やを殺さなくてはならなかったのだろうか。まさか自分の子があの世で寂しいからなどということではないだろうが、いかような理由にしても納得できる理由などあるはずがない。
どうして鈴香容疑者はこのような残酷なことのできる人間になってしまったのか。
本当に困ったことだ。日本はどうしたのだろう。ブログに「殺」という字を書くたびに抵抗があって、もう時事問題に即したことは書くのをやめようか、とさえ思っている。
豪憲君のご冥福を祈ります。祈ります。彩香ちゃんのご冥福を祈ります。祈ります。
どうして痛ましい事件が跡を絶たないのであろうか。なにか間違っている。教育も間違っているのではなかろうか。
昔の人々は正座をしこまれた。多くの日本人が人間としての道を正座によって、自然に身につけていたのではなかろうか。また日本の幼児教育は背筋を伸ばして、きちんとご挨拶をする立腰教育に尽きると思うし、大人もきちんと背筋を伸ばして、生きていくことが大事であると思う。手前味噌ながら、坐禅は天地の全てがそこにある姿である。坐禅のできる人は背筋を伸ばして坐禅をしよう。
そんな簡単なことではない、と言われるだろうが、なにかしなくては、なにか考えなくては。夢ある子供たちの未来が断ち切られるような痛ましい事件が起きないように。できることから。はじめよう。
秋田の米山豪憲君(7)を殺した犯人が、豪憲君にとっては一軒隣りの知り合いのおばさんであったとは、日本中の人が驚いたことであろう。私もこの犯人が警察に出頭した日曜(4日)の朝から、事件についてなにかブログに書くことすら、気力が無くなった想いである。
この犯人のお嬢さんはどうしたのであろうか。これも事故とは思いづらい事件である。この畠山彩香ちゃん(9)が4月10日に発見されたときに、警察がきちんと捜査をしておけば、と、悔やんでも悔やみきれないことである。
少しずつ犯行について供述を始めているようだが、まだ核心には至っていないようである。自分の子にすら、料理を作って食べさせてやることのできなかった母。プロパンガスは入っていないとすると、お湯は電気で沸かしていたのだろうか。わずか九歳で命を終えた少女は母の手料理の味も知らずに、死んでいったのか。
どうして近所の可愛い坊やを殺さなくてはならなかったのだろうか。まさか自分の子があの世で寂しいからなどということではないだろうが、いかような理由にしても納得できる理由などあるはずがない。
どうして鈴香容疑者はこのような残酷なことのできる人間になってしまったのか。
本当に困ったことだ。日本はどうしたのだろう。ブログに「殺」という字を書くたびに抵抗があって、もう時事問題に即したことは書くのをやめようか、とさえ思っている。
豪憲君のご冥福を祈ります。祈ります。彩香ちゃんのご冥福を祈ります。祈ります。
どうして痛ましい事件が跡を絶たないのであろうか。なにか間違っている。教育も間違っているのではなかろうか。
昔の人々は正座をしこまれた。多くの日本人が人間としての道を正座によって、自然に身につけていたのではなかろうか。また日本の幼児教育は背筋を伸ばして、きちんとご挨拶をする立腰教育に尽きると思うし、大人もきちんと背筋を伸ばして、生きていくことが大事であると思う。手前味噌ながら、坐禅は天地の全てがそこにある姿である。坐禅のできる人は背筋を伸ばして坐禅をしよう。
そんな簡単なことではない、と言われるだろうが、なにかしなくては、なにか考えなくては。夢ある子供たちの未来が断ち切られるような痛ましい事件が起きないように。できることから。はじめよう。
この事件は、自分達の何気ない日々の浅はかな行動を戒めるための報道であって欲しいと願います…が、そうもいかないのがこの世の中です。
残念です。
貴重なブログ読ませて頂きました。
次の詩の中で鬼と表現していますが、その行為は鬼と呼ばせて下さい。
彼女も幼児期、少女期の多感な頃の、辛い傷を負っているのではあろうと、私も思わないわけではありません。
あなたのブログも消さないで、社会に発信しておいて下さいませんか。
鬼はやめました。その母は「そんなに悪い子ではない」と泣いています。その言葉を聞く前に直したのですが。こんな言葉使う方が辛いです。
じゃりっこチエちゃん、久しぶりに思い出しました。