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惜別の唄 小林旭

2021-01-15 18:07:36 | Weblog

1月15日(金)曇り【惜別の唄 小林旭】

今日まで、暮れからずっと働き続きでした。
ご祈祷会の準備、ご祈祷、ご祈祷会、後始末、さらに私が住職を任されているお寺の本堂の銅板葺きの屋根の全面葺き替え工事が間もなく始まるので、そのことに関する仕事の数々。以前からの檀家さんたちにとって、緑青の吹いた屋根の見納めになるので、そのことを知らせる手紙などを出したり、等々、ようやく先ほど一区切りがついたのです。

次の仕事に移る前に、なぜか、歌を歌いたくなったのです。
それもなぜか、「惜別の唄」です。
小林旭さんが歌っている歌をインターネットで探しまして、一緒に歌いました。

なぜか、涙がこぼれました。なぜ、本日、私は「惜別の唄」なのかと思っていました。中央大学の学生歌となっているようなので、私事ですが、中央大学法学部の出身で、山を愛し、山岳部の監督までつとめ、50代で世を去った長兄もおそらくこの歌を歌ったことだろうと思いました。兄はとてもよい声でした。

しかし、それだけではなかった、と、わかりました。

そのユーチューブの最後の方に、ブログ「二木紘三のうた物語」の紹介があり、「惜別の歌」の解説が掲載されていました。作曲者藤江英輔さん自身が書いた、この歌誕生のエピソードが掲載されていまして、涙を禁じえませんでした。

ご存知のように、歌詞は、島崎藤村の『高楼(たかどの)』の中からとられています。学徒動員で、工場で働いていた藤江さんが、友人の中本さんからこの詩を教えられて、メロディーをつけたのを歌っているうちに、戦地に赴く学友を送る歌になっていったようです。

友人の中本さんは、3月に学徒出陣し、彼が藤江さんに別れに際して残していったノートの中には、老子やショーペンハウエル、パスカル、ボードレールなど、さまざまな先哲の苦悶の言葉が書き連ねてあったそうです。その中に次のような箇所には赤い線が引いてあったそうです。

「末法たりといえども、今生に道心発さずは、いずれの生にか得道せん」(道元「正法眼蔵随聞記」)

「我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。たとえ我等を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ今幸いに生まれて人たり。庶幾(こいねがわくば)人たるを成して終らん。本願ここにあり」(佐藤一斎「言志録」)

「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのでなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」(三木清「人生論ノート」)

中本さんは、ついに帰らなかったそうです。藤江さんは8月に赤紙を受け取ったそうですが、間もなく終戦になりました。中央大学法学部のご出身です。

*もしかしたらと思ったことですが、赤紙を送られた順番は学生さんの名前のあいうえお順だったのでは。「な」の方が3月、「ふ」の方は8月。??

死と背中合わせで生きた時代の若人たち、学徒出陣で戦地に散っていった若者たち、若者だけではないですが、戦死なさった人々のことを忘れてはなりませんし、改めて私は言いたい。曹洞宗の「祠堂諷経」の回向文から「万国戦死病没者」の文言を消したことには反対です。「諸英霊」と私はそのまま残したいですが、もしこの文言に問題があるのなら、「諸精霊」でもよいかもしれませんが、「万国殉難者諸精霊」に変えられてしまっていることに反対です。

今、新型コロナウイルスによって、いつ私たちも非業な死、不慮の死を迎えるかもしれません。お互いに命を大事に慎重に生きあってまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

                                  



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