12月26日(日)晴【番犬マルの悲しみ】
マルといっても私のことではありません。友人の愛犬のことです。
11年前の晋山式の時も、マルちゃんは元気に吠えていました。檀家さんが来ても、いつも吠えていたそうです。大事なお寺と飼い主を守らなくては、とばかりにいつもマルは吠えていたのでしょう。そう、マルちゃんは極楽寺さんの大事な番犬です。
そのマルちゃんが、数日前から、全く吠えなくなりました。
友人が亡くなってから、全く吠えなくなったそうです。お通夜の時も全く鳴かなかったそうです。
私が伺った密葬の時も全く鳴きません。
マルちゃんは分かっているのです。大好きだった飼い主さんが亡くなってしまったことを。
たくさんの人が集まって来るのに、可愛がってくれた飼い主さんの「マル」という声だけが全く聞こえないのです。
玄関の脇で、マルちゃんは来訪者を、じっと寂しげな目をして見ていました。
「マルちゃん」と呼んだら、少し頭をあげました。
同じ僧形の尼僧の姿を見て、優しかった飼い主に似ていると思ったかもしれません。
マルちゃんの前を通って、その人を納めたお棺がお寺を出て行きました。出棺を見送るときのマルちゃんをあらためて思って胸がいっぱいになりました。
法友は突然に脳内出血で亡くなってしまいました。その日の12時までご詠歌を教えに行っていて、「来年も宜しく」と言って帰った直後の大出血だったようです。
信じられない思いで岡山まで行ってきました。そして今日はもう初七日です。
いまだ信じがたい思いでいます。老僧の四十九日の法要が終わって、忌明けの品が届いたので、先週の金曜日には電話で話したばかりでした。ただその時にお互いの葬儀のときに飾る写真の話をしたりしたのです。つくづく自分の死も実感しました。
本葬は2月6日午後1時からだそうです。法友の名は與木淳恵(法号文秀)先生です。梅花の特派として日本中を教えに伺っていましたから、このブログの読者の方もご存じの方がいらっしゃるのではないでしょうか。いまだ私の淳恵さんに対しての気持ちも整理がついていませんので、いろいろと書くことはできません。
マルちゃんはご詠歌の会の会長老師が引き取ってくださったそうです。それが一番法友の気がかりだったかもしれません。きっと、それを一番喜んでいるのではないでしょうか。それ以外のことは、まだやらなくてはならないことが、あれもこれもあるのに困っちゃった、と言っているように思います。
ご冥福を祈るばかりです。
マルといっても私のことではありません。友人の愛犬のことです。
11年前の晋山式の時も、マルちゃんは元気に吠えていました。檀家さんが来ても、いつも吠えていたそうです。大事なお寺と飼い主を守らなくては、とばかりにいつもマルは吠えていたのでしょう。そう、マルちゃんは極楽寺さんの大事な番犬です。
そのマルちゃんが、数日前から、全く吠えなくなりました。
友人が亡くなってから、全く吠えなくなったそうです。お通夜の時も全く鳴かなかったそうです。
私が伺った密葬の時も全く鳴きません。
マルちゃんは分かっているのです。大好きだった飼い主さんが亡くなってしまったことを。
たくさんの人が集まって来るのに、可愛がってくれた飼い主さんの「マル」という声だけが全く聞こえないのです。
玄関の脇で、マルちゃんは来訪者を、じっと寂しげな目をして見ていました。
「マルちゃん」と呼んだら、少し頭をあげました。
同じ僧形の尼僧の姿を見て、優しかった飼い主に似ていると思ったかもしれません。
マルちゃんの前を通って、その人を納めたお棺がお寺を出て行きました。出棺を見送るときのマルちゃんをあらためて思って胸がいっぱいになりました。
法友は突然に脳内出血で亡くなってしまいました。その日の12時までご詠歌を教えに行っていて、「来年も宜しく」と言って帰った直後の大出血だったようです。
信じられない思いで岡山まで行ってきました。そして今日はもう初七日です。
いまだ信じがたい思いでいます。老僧の四十九日の法要が終わって、忌明けの品が届いたので、先週の金曜日には電話で話したばかりでした。ただその時にお互いの葬儀のときに飾る写真の話をしたりしたのです。つくづく自分の死も実感しました。
本葬は2月6日午後1時からだそうです。法友の名は與木淳恵(法号文秀)先生です。梅花の特派として日本中を教えに伺っていましたから、このブログの読者の方もご存じの方がいらっしゃるのではないでしょうか。いまだ私の淳恵さんに対しての気持ちも整理がついていませんので、いろいろと書くことはできません。
マルちゃんはご詠歌の会の会長老師が引き取ってくださったそうです。それが一番法友の気がかりだったかもしれません。きっと、それを一番喜んでいるのではないでしょうか。それ以外のことは、まだやらなくてはならないことが、あれもこれもあるのに困っちゃった、と言っているように思います。
ご冥福を祈るばかりです。
もうすこし話させて下さい…
学生時代 短歌研究に出席ししていた。一年先輩の女性の短歌を読んだ学友が「 寂しい歌 だね …」といいました。
ちょっとしたおり その短歌の読手に便りを差し上げたら、卒業後 出家して十七年前に【ままことの故郷】に帰っておりました。大いなる仏の世界からは【生死一如】ですが人間からは何とも…切ない思いです。
【…人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ…。】現成公按 を示して熱く語った他の先輩も喘息で帰った。(二十四歳でした)
そうでした。敦盛の最期は十六歳 那須与一は十八歳(一の谷の戦い)でした。
敦盛の最期(一の谷の合戦)
那須与一 扇の的(屋島の戦い)でした。訂正もうしあげます。
随分平敦盛も那須与一も、若くして亡くなっているのですね。
友人もまだ50代でした。
なんともいえません。楽しい思い出ばかりが、この友人とはあります。よき友でした。