mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ワタシの脳作業

2024-08-31 06:00:10 | 日記
 水晶岳から帰ってきた夜に見た夢のことを、逸脱ながら(2024-08-24)「無事帰還」に記しました。なぜこれを山行記に措いたのか。
 いつぞや触れた脳科学者・小池祐二の言葉を思い出したからです。
 ひょっとすると寝ているときにしている脳の営みが人の人生の本体なんじゃないか。そういう趣旨のオモシロイことを言っていました。
 柳田國男じゃありませんが、私たちは毎日一回死ぬ、寝るということは死ぬのと同じだと考えてきました。それを、この脳科学者は転倒させ、寝ている間に営まれている脳作業の方こそ、目が覚めている間に受け止めたさまざまな刺激を、心身一如の場に置いて調整し、程よくバランスをとって安定させる作用をしているのではないか。そう言っていました。つまり動物としてヒトが生きていくのに必要な心身一如の統一性を、(寝ている間に)脳作業が懸命に保つ尽力をしているというのです。
 これは、ワタシの経験則的な身体の実感を見事に表現していると受け止めました。
 もちろん起きている間の振る舞いや言説が、社会的には生きているヒトの活動ですから、それを否定しているわけではないでしょう。ただ、寝ている間は、無為に過ごしているとか、死んでいる(のと同じ)というのではなく、明らかにそこでの心身一如の調整を経て、辛うじてワタシというヒトの個体性が保たれ、一体としての一貫性を感じつつ維持されている。「寝ること」は、山の暮らしにおいてワタシの重大な存在の部分。そう、実感を持って位置づけることができるように感じて、帰ってきました。
 ことにこの夢見をした前日の日中、ワタシはヘトヘトになってやっとの思いで、14時40分頃、野口五郎小屋に到達しました。いつもなら8時間20分のコースタイムで歩けるであろうところに9時間10分もかかった。そのことに「リミットを感じた」と言葉にしました。またその夜「9時間も続けて寝た」とも記していますが、じつは、それは夜の就寝のこと。到着して濡れた衣類を着替えたり、夕食を摂ったりはしましたが、それ以外は床に身を横たえ、ボーッとしているか寝ていたのです。そしてそれが翌日、何とかコースタイム男の復活につながったと思っています。
 そのときワタシは、ほぼ完璧に動物になり、「歩く寝る食う飲む排泄する」をすべてとして存在していました。だからこそ、その就寝中の9時間に見た夢(の覚えている部分)が何を意味していたか、山行記録としては逸脱ながら、記し措きたいと思ったのでした。
 さて、覚えていたのは以下の二つ。
     *
(1)ものすごい紙メモの山。そこにはあちらこちらの在所の暮らし模様が記されていて、どこからどう手をつけていいかわからない。そのメモの山の中から、一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係に目をつけて調べたものが目に止まって、そこから調べがはじまっていく夢。メモの山にのみこまれそうになりながら 、メモを踏み越えてあちらこちらと彷徨っている気配。
(2)選挙だろうか。一適他否、一合一排など、耳慣れない漢語の並んだ文書を読んでいる。選挙管理委員会のお役人が書いたものだろうか。そのなかに、選ばれた首長が行政の主導権を取るとしても、役人には役人の従うべきベースがあり、それは人びとの暮らしに基礎を置くものであって、首長の指図に基礎を置くものではないという記述があった。読んでいるのに、次々と書かれたものが更新されて、記述が詳しくなっていく。論点も移ろっていくように感じたが、じつは詳しく思い出せない。
     *
 この脳作業は、ワタシの一如心身の、身の裡の「しこう(嗜好・思考・志向)」に関することです。つまり、無意識が意識との調整に当たったことによって、その亀裂の狭間からぷかりと浮かび上がった、何かワタシが(無意識のうちに)こだわっていることだと思います。
 そう考えると(1)は、ワタシが子どもの頃から現在に至るまで、受け継いできた諸々の「情報の山」が紙メモの形をとって山になっている。それをワタシは、何某かの物語を付与して一貫性を持たせて引きずりだそうと逍遙しているっていう図か。
「一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係に目をつけて調べたもの」という限定がありますから、ただ単なる「情報の山」ではない。その基本的なことに目をつけて、丁寧にピックアップして関連付けよという示唆かもしれない。いや、本気でそれを真に受けて、これからこの八十爺がどうにかしようと思っているわけではありません。そういう面がオマエさんは弱点でしたねと自戒しているのかもしれません。
 そういう壮大な構想力と執念深い探究心に不足がありましたよと、動物になったと感じているワタシに、身ばかりでなく心にも呼びかけているような気もします。
 そうか。とすると、夢というのは、ただ単にバランスをとるというよりも、動物になった自分に得心して自足するのは考えものだと警鐘を鳴らしているのかもしれません。自足した途端に、ヒトはダメになるぞ。そう簡単に、心身一如を腑に落として自足するんじゃない。生きるってのは(死ぬまでつづく)永続運動だ。それも一筋縄でいかない、アンビバレンスな要素をきっちり意識してつかむ。そうして、そのアンビバレンスを泳いでいくことが「生きる」ってことさ、と。アンビバレンス、絶対矛盾的自己同一ってことを言っていた方もいたなあ。
 ふむ、そうかい。そう思うと、この先余命も少ないワタシ一代でどうにかなることじゃないよね。いや、ま、一代で何かをどうにかしようってふうに考えたこともない。といって誰かに受け渡し、受け継いでというふうにも、思ったこともない。ワタシの一代で、つまりワタシ自身に言い聞かせる。「言い当てたいことがある」と(山行記を書く動機を)言葉にしたことが、すでに、(1)を体現している、と読みましょうか。
 とすると(2)は、「言い当てたいこと」の、社会的関係を意識せよと言っているのだろうか。「役人には役人の従うべきベース」があるというのは、オマエさんの「ベース」って何だと問うているのかもしれない。「首長の指図に基礎を置く」というのは、オマエさんが無意識に踏み台にしていること、「権威」ってヤツに意識的になれということか。
 役人の従うべきベースというのは、市井の八十爺にとっては、ヒトが暮らしてきたごくごく基本的なこと。(1)にいう「一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係」といった基礎的な暮らしの所作が、それに当たるか。
 今のご時世、街に暮らすヒトは誰も彼もが、日々お祭りのような暮らしをしている。おいしいものを食べ、目新しいものを手に入れ、驚くような競技やイベントやデキゴトに囲まれて、愉しい。でもこれって、商品交換の世界にどっぷりと浸って、その交換の仕組みに則って運ばれているだけで、もしヒトが独りで投げ出されたら果たして、何をどこまでやっていけるかと問うと、いやはや、ほとんど何にもできません。祖先が営々と築いてきた「暮らしの基本」を皆、他人(ひと)に預けて暮らしている。それに慣れ親しみ、それの欠如に対する意識を失っているんじゃないか。
 動物を実感して得心する前に、まず、己自身の「ベース」が消えてなくなっていることを、思い出してご覧。そう、ワタシの脳作業が告げているように思いました。
     *
 こういうことをお話ししながら、じつはこれから鉄道に乗って遠方へ三日間ほど遊びに行きます。
 えっ? 今、書いてたことはどこへいったのかって?
 ははは。これぞアンビバレンスの極み。だめだね、これじゃあ。
 でもそれがワタシなんです。では、行ってきます。