mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

反芻するワタシの発見

2023-11-13 08:57:54 | 日記
 1年前(2022-11-12)の記事「天へかえろうとする儀式」が送られて来た。1年前のワタシと山との感懐が綴られている。夢枕獏『呼ぶ山』(メディア・ファクトリー、2012年)という短編集。山での遭難に出喰わした男の内面に広がるイメージを描く。山が天にも昇る心持ちと重なってくる。

《それを、「天にかえろうとする」とか「かえろうとする儀式」といわれると、何だか胸の内を射貫かれたようである、そうして、それが宇宙とひとつになる感触を求めていたと言われると、まさしくそうだったと、受け止めた感触に名付けぬまま、心裡のどこかに棚上げして捨て置いた感触を思い出す。》

 と、夢枕獏に共感し、と同時に

《もう、そのイメージを体感することは二度とないだろう。でも、その感触を感じたことを、こうして思い出すことはできるのだと、振り返っている》

 と、わが身を見切る思いを記している。
 何日か前にも記したが、1年ほど前にここ9年ほどの山の会の山行記録をまとめて本にしようと3度目の発心をし、出版社に原稿を送った。それが上下二巻となって、やっと今日午前中に届くという連絡があった。『70代の山歩き――山歩講9年の記録(上)』と『70代の山歩き――山歩講9年の記録(下)』。B5版の大きさ、合計590ページほど。
 山の会の人や私の友人に送る手配も済ませ、到着したら「謹呈」と記した送り状を封入してすぐに郵便局にもっていくように準備をした。
 原稿を送って後の校正で、5度、目を通している。その校正しながら読むのと、作品を読むこととの違いを感じたり、二校、三校と階梯が進むごとに「読み方」が変わってくるのも感じた。最後の五校のときには、9年間の山歩きに傾けるワタシの「思い」が変わりぶりが鮮明に浮かび上がってきた。
 その変容が歩き方に現れ、道なき道を行く気持ちの高ぶりが行間に揺蕩うようになり、ついにオチがつくところまで行ってしまった。まさしく「天にも昇る気持ちで上り損ねた」と「終章」に記すようであった。これは、夢枕獏の描く遭難者が内心に描くイメージに近い感懐であった。違うとすれば、ワタシのそれは、いまリアルに戻って振り返っている感懐であって、無事であったからこそこうして内心を振り返る自問自答を行うことができている歓びでもあった。
 そうだ、そういえば、今年の7月。梅雨明け。ほんとうに2年3ヶ月ぶりに北アルプスの笠ヶ岳へ行こうという気持ちが湧き起こり、ふつうなら1泊2日、若い人は日帰りで成し遂げる行程を、3泊4日かけて出かけた。恐る恐る山に入り、初心者のように道中で言葉を交わし、北アルプスを歩く八十爺が、まだまだ結構数いることもわかった。自分の身の上限を見限ってへこたれては引き籠もりになる。そう思って、もう一度歩き直しをしようと思い始めていた。その区切りを「本」で付けようと。
 さあ、それが出来する。出来上がりを見るのは、手に持ってずしりと感じる重さとかページを繰ることによって目に入る写真と文字の割り付けデザインの眼福の愉しみということになる。遠足に出かける前の小学生の気分だね。
 山歩きとそれを山行記録として書き記すときと、さらにそれを何年か経って「本」にまとめて読むときと、繰り返しわが身と山歩きとの遣り取りを身の裡に反芻するってことになっている。その都度違った感懐を抱いて、ワタシを発見している。年寄りの愉しみといってしまえば、まさしくその通りだ。「上り損ねた」からこその至福であると慶んでいる。

がらんどうのココロを何で満たすか

2023-11-12 10:26:51 | 日記
 3日前のこの欄で「空っぽに我慢ならない文化」として「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」と解析するモリス・バーマンというアメリカの日本研究者のことばを入口にして、日米文化の違いを取り上げ、自然観の差異から生じる作法の表れと位置づけた。
 ちょっと手元の整理をしていたら、2015年6月20日付けの《「教養主義」と「知性主義」と「反知性主義」》と題した私のレポートを見つけた。後のささらほうさらの会の隔週勉強会で用いた「資料」である。
 私自身の辿ってきた「知=意識」にまつわる歩みを振り返っている。「教養主義」に満たされていた高校までのありよう、それから脱却する「知=意識人」の接近とその結果もたらされた「血=意識」の「発見」。それと「知=意識」との対立と相剋を通して心身一如に至る鳥瞰を、踏まえながら、現在してきた「反知性主義」をどうみているかと展開している。
 叙述の媒介として、仲正昌樹『教養主義復権論』(明日堂書店、2010年)、笠井潔×白井聡『日本劣化論』(ちくま新書、2014年)、森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書、2015年)を置いて、目下の問題意識に連なる緊張感をもっている。
 その中で、「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウになっていた」という笠井潔のことばを拾っている。それを、森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』を介在させて「ガランドウの空虚を埋める」作法が(アメリカといわず、世界中に於いて)「反知性主義」に噴き出していると展開していて、反知性主義の(存在する)合理性ととらえている。トランプ政権誕生の前年である。
 おおよそ5年後の予感でもあった。社会的には2020年にはじまるCOVID-19の世界的蔓延をきっかけにして皮肉にも、グローバリズムの進展してきた経済関係と裏腹に、反知性主義が国民国家の装いを伴って前面に押し寄せてきた。
 感染症という大自然の猛威に対して全人類的対処を主導するWHOの力は片隅に追いやられ、国民国家という枠組みで応戦対処する防御的資本家社会的ナショナリズムが前面に押し出された。覇権主義的な遣り取りが浮き彫りになった。そればかりか保健科学的な探求への取り組みさえも、陰謀論的な言説の応酬と対立でかき消され、台湾を排除したり、貧窮地域へのワクチン供給が金銭的に後回しにされる事態を招来した。
 そして2022年、ロシアのウクライナ侵略が起こり、世界の分断は修復しがたい様相を呈してきた。それに加えて、イスラエルとパレスチナの戦闘が加わって、世界の構図を描くこと自体が混沌へ向かっていることをあからさまにしている。
「教養」も「知性」もどう介在していいか、手をつかねてしまっている。笠井潔のいう「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウになっていた」世界の魂が、埋め合わせるものが無くなって、「戦争」という混沌で(空虚なガランドウを忘れるように)働いているんじゃないかと思うほどだ。
 ウクライナ戦争が長引くのにそろそろ飽きてきたヒトのクセを見抜いたかのように突発したハマスの襲撃とイスラエルの暴虐。これは、空虚なガランドウを埋める埋め草のように、報道メディアの企画を埋め合わせ、やはりガランドウの空虚な心的部分を満たす対岸の火事として画面や紙面を一杯にしている。
 笠井潔が何を指して「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウ」といったのか。大自然のほんの一欠片として存在しているヒトの、その存在自体の稀有ともいうべき有り難さと振る舞いの卑小さを「思い知れ」といわんばかりの状況とみることが、「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分」ではないか。
 パレスチナに限定していえば、1947年にパレスチナにイスラエル建国を承認するという「国連決議」こそ、「思い知れ」と突きつけられている原点。ドイツにすれば、ホロコーストという何をもってしても償えない罪障が原点というかも知れない。また、戦勝国家の連合体であった「国連」も、ユダヤ人迫害という、非情で非常の人類史的振る舞いへの償いとして、イスラエル建国を承認したと、当時の心理的契機を表明することもできる。だが、その後のイスラエルの暴力装置を背景にしたパレスチナへの統治と侵略とアパルトヘイト的な振る舞いは、ガザの人たちのガランドウが暴発してハマスの襲撃として現れたと言えるほどに見える。つまり、その地に何千年と棲まう人たちを排除するという人工的な人為、政治的な意図によって理想郷を建国する振る舞いこそが、生まれながらガランドウを強いられる人たちの反知性主義的暴発を招き寄せている。大自然の理法に適う人為的な作法を、ヒトは身につけなさいよと謂う天啓が、今回のガザ=パレスチナvsイスラエル問題である。
 どなたも「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分」を抱えている。それはヒトとして大自然に生きている実存在。大自然とヒトとの、存在にかかわる動態的「かんけい」である。ワカラナイこと、知らないこと、知っていると思ってしまっていること、つまり、大自然に存在することのヒトの身の程を知ることが、畏れを育み、他の存在に対する敬いの念を生み出し、何に対しても畏敬の念をもって向き合う作法。
 どなたの胸中にもそれにあたる心的な部分があることが、存在の原点である。それが欠けてしまったことが「空虚なガランドウ」を生み出している。先ずは己の自然観を、あらためてみること。ワタシにとっての宗教性を吟味して、今の実在を有難いことととらえ、あまたの偶然に恵まれてここに至ったことを(大自然に)感謝すること。そこから出直しなさいよと、大自然の成り行きは、悟している。

身も世もなく

2023-11-11 08:14:01 | 日記
 詩集を貰った。北村紀子『夕暮れのおくりもの』(土曜美術社、2023年)。この詩人の連れ合いが何も言わず、ほいと手渡してくれた。
 詩というのは、混沌の海に身を浸しているわたしの感じとる世界を言葉にして取り出す心身一如の意識。感官は、一瞬のことをぱちりと受け止める。一つの感触。まだことばにならない。
 詩はことばによる高速度撮影。ちょうど水面に落ちる雨粒をとらえたスローモーション画像のように、ぴよんと王冠のような水滴を見事な対象形にまき散らす。おっ、とその姿に見とれ、身の裡に湧き起こる感触がせかいとわたしの交歓のかたち。
 昔、1980年の頃、人間って言葉だよとフランス哲学に通じた友人と日本文学を知る友人二人が同席したところでいわれたことを思い出す。そのとき何がモンダイであったかすっかり忘れたが、う~ん、でもそうなのかな。絵も音楽も、言葉になる前のイメージもある。音や画像にならないおもいもある。瞬時に受けとった感触や刺激もヒトなんじゃないか。
 表現しなければヒトは人間になれないと、友人たちはいいたかったのかも知れない。欧米近代にいわせれば、言葉にできないヒトは人間ではない。そればかりかそのヒトを、あからさまに埒外に置くのが欧米流だと耳にしてきた。
 わたしはヒトはヒトのままでニンゲンだと思っていたのかも知れない。八十爺の今は、ヒトは獣と同じと言われるとちょっとうれしく感じたりしている。人間であることが、それほど誇らしいわけでもない、とも思っている。
 詩がとどめる世界との交歓のかたちを心身一如と呼ぶのは、無意識の感官や感触をまるで高速度カメラのようにとらえてことばにして残す。その行為がヒトの無意識を意識化する。それは、身に刻まれ堆積している人類史を、生命体の蓄積をとりだして認識することになる。
 詩を詠むということは、わが身の裡に潜むどう言っていいかわからない感触を、一瞬にとどめことばにする。「夕暮れのおくりもの」というメルヘン的な表題は、この詩人の人柄を言い表している。メルヘン的というのは、世界とわが身との齟齬を、わが身の方へ引き寄せて希望として送り出す所作。詩人の身の無意識に潜む「世界への遠慮」が立ち現れる。詩篇「ユメのナカ」は、それをよく表している。「世界への遠慮」は文化である。
 わが感触をおそるおそることばにし、それが世界と触れ合ったことに一瞬ためらい、でもそれがわが身なのよと思い直して書き落とす。その、発見とためらいと決断のたゆたいが読み取れて、この詩人の生きている息吹に感じられる。それを私は人柄と名付けた。
 それは心身一如、その一瞬の姿。善し悪し抜きにしてとりだし、ことばにする。身も世もあらずという風情の自己省察を、いかにメルヘン的であったにしても、世に晒す。詩人の心身一如は人類史であり生命体史。それが、読むものの心身一如と一瞬交錯する。そのスパークの放つ閃光が読むものの無意識を照らし出し、意識世界に引きだしてくる。
 詩はしかし、解釈ではない。ここに記すようなぐだぐだが「解釈」。閃きをとどめることができないワタシは、こうしてぐだぐだと身の内を辿るようにして、やっと世界とコンタクトをとっている。これがワタシよ、と。身の世もないところが、好ましい。

壊れていくのか溶けていくのか

2023-11-10 08:57:20 | 日記
 昨日、ささらほうさらの月例老人会。1月の予定を立てるときに交わす言葉の狭間に、近況が混ざる。サトルさんの連れ合いの所謂認知症が急速度に進行しているという。
 えっ、9月に玄関口であったとき、私は言葉を交わした。
「短歌を詠む旅に出たり、会合に参加したりしてる?」
 と尋ねると、
「ハイ、どうにか続いています」
 とにこやかに応えていた。それなのに、どうして?
 いやね、娘婿が亡くなったのね。娘は婿さんの言い分を聞いて、病気のことも亡くなったことも知らせず葬儀も済ませ、父親に話をした。それを母親にも知らせたが、それを承知できないのか、婿さんにも電話をかけ「どうしたんだろう、電話に出ないわ」とこぼす、と。
 リョウイチさんが言葉を挟む。
 隣の奥さんが同じような症状で、進行が早くてね。それがもうすっかり赤ちゃんになったようになっちゃってるよ。そりゃあ、目が離せないね。サトルさんはたいへんだわ。
 だが他人事ではない。いつ自分がそうならないとも限らない。
 そう思いつつ家へ帰ってみると、兄からメールが入っている。連れ合いが赤血球が減る病で入院点滴を受けている、と。80代の半ばになる。赤血球の血小板が減るというのなら「再生不良性貧血」かもしれない。
 いやまだ病名が決まったわけじゃない。いまのところ増血剤と栄養補給の点滴を毎日3回、3時間、計9時間ほど受けてある程度恢復したら検査をする段階と。わりと軽い事態と考えているようだった。
 でも難病だよ、それは。
 うん、貧血で連れて行った病院だけど、医者には「即入院、え、帰る? 帰ったら命がないよ」といわれ、すぐに入院手続きをして、着替えや何やらを家を往復してもっていってねと、言葉を探しながら、落ち着こうとしている気配を感じる。「百貨店」などと昔の言葉が混ざる。だいぶ慌てているのかもしれない。
 おいおい、大丈夫かい。手が必要なら助けに行くよ。
 いやいや、むしろかみさんがいなくて楽になったくらいだよ、と平気な様子をみせるが、それがかえって肩肘を張っているように感じられる。娘にも知らせたら、ベネズエラから直に母親にLINEで話をするわと言っていたから、今日にでも、やりとりするようになるよ、きっと。
 先月亡くなった義兄の連れ合いであるわがカミサンの実姉も、ご亭主の入院の衝撃で認知症を発症した。「お大師さんへ行ってくるわ」とご亭主に告げて出かけたまんま、1年経った今も行方不明。
 植物観察に出かけていたカミサンも、「わたしが最高齢になっちゃった」という。十人足らず集まる同好の人たちはまだ60代から70代と若い。若い人と一緒だとホッとするというが、高尾山からの帰り、ロープウェイではなくてリフトに乗りたいと言ったら、リフトを降りてから歩く階段がコワイと皆さん腰が引けた。結局リフトに乗ったのは2人だけだったと、足腰の弱りが思いのほか早く進行していることに気づいたと言葉を添える。
 さてささらほうさらの老人会。八十爺3人を筆頭に古稀世代ばかり。自分たち自身もいつ怪しくなってもおかしくない年齢。そういう近況が、ひたひたと身に染むように押し寄せてくる感触。壊れていくのか溶けていくのか、世界から緩やかに消えていっているように思える。ああ、こういうのを彼岸と此岸がおぼろになって感じられるってことなんだろうか。

空っぽに我慢ならない文化

2023-11-09 09:04:53 | 日記
 昨日TVを観ていたら、モリス・バーマンというアメリカの日本研究者が、「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」と解析していた。面白い、と一瞬思った。それに対し日本では、空無の文化があると伝統文化に触れて、敗戦後アメリカの植民地になったかのようにアメリカ文化に傾倒しながら、空無の文化を残していることを、禅や西田哲学やオタクやサブカルチャーにこと寄せて好ましく受け止めていた。村上春樹の「アンダーグラウンド」に触れ、オウム真理教のサリン事件やそれに傾倒してゆく若者も視界にとらえているから、この人の文化論は時代思潮をもとらえようとしているであろう。彼の著書を読んでみなければ即断できないが。
 でも、う~ん、そういえばそうなのだが、それだけでは何だか「現象をあげつらっているだけ」のよう。もひとつ向こうを見なくちゃならないんじゃないかと考えるともなく思った。も一つ向こうって、何だ?
 ふと気づいたこと。現代文化の空っぽに我慢ならないのは「アメリカ文化」だけではない。というか、戦後日本もアメリカ文化の後を追っていたから、七十数年って、同じようなものになっちゃったってか? 選択であれ決断であれ、判断を急きたてるデジタル文化は、保留とか棚上げとか、後回しというのを受け付けない。今はデジタル文化が市場を席巻しているから、どちらが因でどちらが果なのかわからなくなっているが、近代というのが、そもそもそういう急きたてる要素をもっていたのではないか。
 一つ思い出した。地動説と天動説、相対性論と量子論とが論議されるとき、どうして天動説より地動説が正しいと理科学者は判断するのかと、物理学の専門家に訊ねたことがある。「より簡潔な説明で済むかどうかだな」というのが彼の回答であった。これは今思い返すと、不可思議なコトの向こうには何某かの「法則」があるとか、論理的な筋書きがあるはずという人の思い込みが前提になっている。不条理とか不合理はあり得ないことと前提している。つまり、神が創ったかどうかは別として、自然そのものが何某かの合理性に貫かれている(はず)という近代思想が(後に)逆立ちして、ヒトがそう思い込むクセを創ったともいえる。
 ところが、モリス・バーマンが目に留めた日本文化に体現された「空無の思想」は、非科学的であり、不条理を受け容れ、祈りと諦め(断念)を基調にした「わびさび」の文化。ここに西欧風の近代が入り込む余地はなかったはず。
 だが、欧米による外圧によって迫られた近代化に素直に遵った日本文化は、西欧文化そのものをもひとつの「自然」とみて、否応なく伝統的佇まいと身のこなしを欧米文化と混淆させて、日本風近代をつくりあげる結果になった。それを、アメリカの研究者が観ると、アメリカ的近代が草臥れた先を象徴する要素をもっているように感じている。といったところではなかろうか。
 もちろん私がそれに異を唱えているわけではない。だが、近代もそうだが、それ以前からの、ヒトの社会における振る舞いに「能動/受動」の二元論を持ち込み、「能動/中動」という曖昧模糊を排斥してきたところから、判断の留保、結論の棚上げ、どちらとも決定できない状態の継続という宙吊りになることの排斥がはじまっていたのではないか。
 もちろんヒトの振る舞いの「善/悪」「美/醜」「真/偽」は、ヒトの暮らしの場面場面では問われることになるが、場面場面を総集したところにそれらを成立させようとすると、何か絶対的な規準の原点を置かねばならない。でもそうすると、世界の変転によって規準そのものが動いていかねばならなくなる。その規準の移動を「解釈」によって片付けてきたのが、欧米風の「正義」ではないか。
 絶対的な規準を「解釈」によって片付けるとは、その状況における力の強いものが「解釈」の決定権を持つことを意味する。ロシアや中国の正義、トランプやバイデンのアメリカ、イスラエルにせよイラン、アフガンにせよ、彼らの振る舞いはことごとく、皮肉にも「絶対的な規準」は存在しないことを露わにしている。
 それの反照のように、日本文化が曖昧模糊のハイブリッド、状況に応じて変転する判断、どこに原点があるのかワカラナイ価値基準、これらが浮き彫りになる。浮き彫りになると言ったからといって、岸田政権の振る舞いがそうだというわけではない。岸田政権はまるでもう、モリス・バーマンが指摘する戦後日本の植民地状態にあるから、日本文化とは別次元の動き。埒外ととらえてよさそうだ。
 つまり、「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」ことは、空無であることに我慢できない文化、つまり近代化の果てを意味しており、じつは絶対神信仰の行き詰まりであり、中動態的世界観の排斥がもたらした混沌の世界なのだ。なぜ我慢できないか。ヒトが尊大だからである。ヒトはエライ、尊大であるべきだと心身ともに深く思い込んでいるからだ。人の心もまた、満たされるべきであり、満たされることができるはずであり、満たそうとするヒトのアクションによって実現する「課題」なのだと信じ込んだ結果なのだ。
 翻って日本文化が何かすごい道筋を示していると思うのは、間違っている。日本文化もすっかり世界化して、欧米近代の悪弊をしっかり溜め込んでいる。ただひとつ、豊かな社会を経験したこともあって、生き方のモンダイを身のどこかでとらえはじめている。ギリシャの哲学者、ソクラテスが、プラトンが、アリストテレスが取り上げたモンダイを、列島風土の舞台においてだが、考えようとしている。
 そのとき、日本の風土が培ってきた大自然とわが身の位置づけ方が、空無を自然と感じ、わが身が心身一如として空っぽであることを素直に受け容れる素地をつくっている。モリス・バーマンのいうことと同じかどうかは彼の著書を読んでからにするが、私は日々そう実感して暮らしている。もしそれが、八十爺の独りよがりだと言われたら、うん、これほどの褒め言葉はないと鼻高々になってしまう。