1年前(2022-11-01)の記事、「歩行とお酒と睡眠と気力」が、すでに忘却して身の奥に沈んでいるコトゴトと現在とを比べてみよと問いかけている。定点観測点である。
《少し長時間歩くという意欲が甦ってきた。3時間半ほどの歩きで疲れを感じている》のから、《「ぶらり遍路の旅」の続きをやろうという思いが湧いている》とある。
そうだったかと、いま思う。1年前にこう思って、4ヶ月かけて身体を調え、今年の3月に「ふらり遍路の旅」に行ったのであった。これはうまくいった。毎日平均30kmを歩き、昨年4、5月の「ぶらり遍路の旅」のときのように「飽きる」こともなく17日間、歩き通した。
1年経った今、来週にでも「お遍路・最終章」に出かけようとしている。今年3月と同じくらいの歩行力を保っているかどうか、ちょっと不安もあるが、感触は悪くない。一つ去年と違うことがある。
去年は《涼しいというよりもちょっと寒くなって、歩いても汗をかかない》とある。今年は11月というのに、夏日の予報が今週いっぱい続いている。ま、着ているものを調節すれば、凌げる程度の気温だから、お遍路に気遣うことではない。
定点観測が、もう一つ告げている。
《4月に出版社に送っていた「70代の山歩き――山歩講8年の記録」を仕上げる気持ちが再び湧いてきた。いや、実は三度だ》
これが上下二巻となって、すでに上巻は手元に届いている。下巻も今週中に出来上がるはずだ。ただタイトルが一ヶ所変わる。「70代の山歩き――山歩講9年の記録」となる。
なぜ変わるか。「三度」という編集意欲の浮沈にかかわっている。去年の記述で思い出した。
《最初は2021年3月……4月に「私の遭難事故」》で中断。
《二度目が今年(2022年)の3月……7月に左手掌の手術》をすることとなり、そのリハビリに手子摺って、放置していた。そうして1年前、
《11月を向かえて三度目の出版意欲に辿り着いた》という三度目の正直。
わが身の盛衰に応じて、編集意欲が移ろっている。これも定点観測点の知らしむるところ。もちろん出版社の事情もあり、編集者やデザイナーのコロナ禍も途中に挟まって、やっと1年かかってこぎ着けたってところである。
これを見届け、寄贈する方々に送ってから、「お遍路・最終章」に出かけようと計画している。こういう、観測点でわが身の移ろいを時間を往き来して見極めながら、でも、先に歩くことが人生よとわが身の卑小を見切っている。それを卑小というのは世間の価値観。それはワタシのクセ。それ以外に(社会的には)取り柄がない。でもめげない。もうとっくに世間的には埒外のヒトになっているからだ。
定点観測点は次のように締めくくっている。
《ことに65歳の高齢者になってから記しはじめた「よしなしごと」が時間を往来してわが身の裡側を覗き込むような恰好になったからか、外向けの形(なり)には構わなくなった。人にどう見られてもいい、わが身に感じる不思議だけは少しでも解きほぐしていこうとするようになってからは、身が軽くなった》
そうだ。わが身が定点観測の基点にあるという定位置の定まった感触が身を軽くしているのだ。もうこれしか取り柄がない。「お遍路・最終章」も、その取材のためと考えれば、面白いではないか。
《少し長時間歩くという意欲が甦ってきた。3時間半ほどの歩きで疲れを感じている》のから、《「ぶらり遍路の旅」の続きをやろうという思いが湧いている》とある。
そうだったかと、いま思う。1年前にこう思って、4ヶ月かけて身体を調え、今年の3月に「ふらり遍路の旅」に行ったのであった。これはうまくいった。毎日平均30kmを歩き、昨年4、5月の「ぶらり遍路の旅」のときのように「飽きる」こともなく17日間、歩き通した。
1年経った今、来週にでも「お遍路・最終章」に出かけようとしている。今年3月と同じくらいの歩行力を保っているかどうか、ちょっと不安もあるが、感触は悪くない。一つ去年と違うことがある。
去年は《涼しいというよりもちょっと寒くなって、歩いても汗をかかない》とある。今年は11月というのに、夏日の予報が今週いっぱい続いている。ま、着ているものを調節すれば、凌げる程度の気温だから、お遍路に気遣うことではない。
定点観測が、もう一つ告げている。
《4月に出版社に送っていた「70代の山歩き――山歩講8年の記録」を仕上げる気持ちが再び湧いてきた。いや、実は三度だ》
これが上下二巻となって、すでに上巻は手元に届いている。下巻も今週中に出来上がるはずだ。ただタイトルが一ヶ所変わる。「70代の山歩き――山歩講9年の記録」となる。
なぜ変わるか。「三度」という編集意欲の浮沈にかかわっている。去年の記述で思い出した。
《最初は2021年3月……4月に「私の遭難事故」》で中断。
《二度目が今年(2022年)の3月……7月に左手掌の手術》をすることとなり、そのリハビリに手子摺って、放置していた。そうして1年前、
《11月を向かえて三度目の出版意欲に辿り着いた》という三度目の正直。
わが身の盛衰に応じて、編集意欲が移ろっている。これも定点観測点の知らしむるところ。もちろん出版社の事情もあり、編集者やデザイナーのコロナ禍も途中に挟まって、やっと1年かかってこぎ着けたってところである。
これを見届け、寄贈する方々に送ってから、「お遍路・最終章」に出かけようと計画している。こういう、観測点でわが身の移ろいを時間を往き来して見極めながら、でも、先に歩くことが人生よとわが身の卑小を見切っている。それを卑小というのは世間の価値観。それはワタシのクセ。それ以外に(社会的には)取り柄がない。でもめげない。もうとっくに世間的には埒外のヒトになっているからだ。
定点観測点は次のように締めくくっている。
《ことに65歳の高齢者になってから記しはじめた「よしなしごと」が時間を往来してわが身の裡側を覗き込むような恰好になったからか、外向けの形(なり)には構わなくなった。人にどう見られてもいい、わが身に感じる不思議だけは少しでも解きほぐしていこうとするようになってからは、身が軽くなった》
そうだ。わが身が定点観測の基点にあるという定位置の定まった感触が身を軽くしているのだ。もうこれしか取り柄がない。「お遍路・最終章」も、その取材のためと考えれば、面白いではないか。