mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

空っぽに我慢ならない文化

2023-11-09 09:04:53 | 日記
 昨日TVを観ていたら、モリス・バーマンというアメリカの日本研究者が、「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」と解析していた。面白い、と一瞬思った。それに対し日本では、空無の文化があると伝統文化に触れて、敗戦後アメリカの植民地になったかのようにアメリカ文化に傾倒しながら、空無の文化を残していることを、禅や西田哲学やオタクやサブカルチャーにこと寄せて好ましく受け止めていた。村上春樹の「アンダーグラウンド」に触れ、オウム真理教のサリン事件やそれに傾倒してゆく若者も視界にとらえているから、この人の文化論は時代思潮をもとらえようとしているであろう。彼の著書を読んでみなければ即断できないが。
 でも、う~ん、そういえばそうなのだが、それだけでは何だか「現象をあげつらっているだけ」のよう。もひとつ向こうを見なくちゃならないんじゃないかと考えるともなく思った。も一つ向こうって、何だ?
 ふと気づいたこと。現代文化の空っぽに我慢ならないのは「アメリカ文化」だけではない。というか、戦後日本もアメリカ文化の後を追っていたから、七十数年って、同じようなものになっちゃったってか? 選択であれ決断であれ、判断を急きたてるデジタル文化は、保留とか棚上げとか、後回しというのを受け付けない。今はデジタル文化が市場を席巻しているから、どちらが因でどちらが果なのかわからなくなっているが、近代というのが、そもそもそういう急きたてる要素をもっていたのではないか。
 一つ思い出した。地動説と天動説、相対性論と量子論とが論議されるとき、どうして天動説より地動説が正しいと理科学者は判断するのかと、物理学の専門家に訊ねたことがある。「より簡潔な説明で済むかどうかだな」というのが彼の回答であった。これは今思い返すと、不可思議なコトの向こうには何某かの「法則」があるとか、論理的な筋書きがあるはずという人の思い込みが前提になっている。不条理とか不合理はあり得ないことと前提している。つまり、神が創ったかどうかは別として、自然そのものが何某かの合理性に貫かれている(はず)という近代思想が(後に)逆立ちして、ヒトがそう思い込むクセを創ったともいえる。
 ところが、モリス・バーマンが目に留めた日本文化に体現された「空無の思想」は、非科学的であり、不条理を受け容れ、祈りと諦め(断念)を基調にした「わびさび」の文化。ここに西欧風の近代が入り込む余地はなかったはず。
 だが、欧米による外圧によって迫られた近代化に素直に遵った日本文化は、西欧文化そのものをもひとつの「自然」とみて、否応なく伝統的佇まいと身のこなしを欧米文化と混淆させて、日本風近代をつくりあげる結果になった。それを、アメリカの研究者が観ると、アメリカ的近代が草臥れた先を象徴する要素をもっているように感じている。といったところではなかろうか。
 もちろん私がそれに異を唱えているわけではない。だが、近代もそうだが、それ以前からの、ヒトの社会における振る舞いに「能動/受動」の二元論を持ち込み、「能動/中動」という曖昧模糊を排斥してきたところから、判断の留保、結論の棚上げ、どちらとも決定できない状態の継続という宙吊りになることの排斥がはじまっていたのではないか。
 もちろんヒトの振る舞いの「善/悪」「美/醜」「真/偽」は、ヒトの暮らしの場面場面では問われることになるが、場面場面を総集したところにそれらを成立させようとすると、何か絶対的な規準の原点を置かねばならない。でもそうすると、世界の変転によって規準そのものが動いていかねばならなくなる。その規準の移動を「解釈」によって片付けてきたのが、欧米風の「正義」ではないか。
 絶対的な規準を「解釈」によって片付けるとは、その状況における力の強いものが「解釈」の決定権を持つことを意味する。ロシアや中国の正義、トランプやバイデンのアメリカ、イスラエルにせよイラン、アフガンにせよ、彼らの振る舞いはことごとく、皮肉にも「絶対的な規準」は存在しないことを露わにしている。
 それの反照のように、日本文化が曖昧模糊のハイブリッド、状況に応じて変転する判断、どこに原点があるのかワカラナイ価値基準、これらが浮き彫りになる。浮き彫りになると言ったからといって、岸田政権の振る舞いがそうだというわけではない。岸田政権はまるでもう、モリス・バーマンが指摘する戦後日本の植民地状態にあるから、日本文化とは別次元の動き。埒外ととらえてよさそうだ。
 つまり、「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」ことは、空無であることに我慢できない文化、つまり近代化の果てを意味しており、じつは絶対神信仰の行き詰まりであり、中動態的世界観の排斥がもたらした混沌の世界なのだ。なぜ我慢できないか。ヒトが尊大だからである。ヒトはエライ、尊大であるべきだと心身ともに深く思い込んでいるからだ。人の心もまた、満たされるべきであり、満たされることができるはずであり、満たそうとするヒトのアクションによって実現する「課題」なのだと信じ込んだ結果なのだ。
 翻って日本文化が何かすごい道筋を示していると思うのは、間違っている。日本文化もすっかり世界化して、欧米近代の悪弊をしっかり溜め込んでいる。ただひとつ、豊かな社会を経験したこともあって、生き方のモンダイを身のどこかでとらえはじめている。ギリシャの哲学者、ソクラテスが、プラトンが、アリストテレスが取り上げたモンダイを、列島風土の舞台においてだが、考えようとしている。
 そのとき、日本の風土が培ってきた大自然とわが身の位置づけ方が、空無を自然と感じ、わが身が心身一如として空っぽであることを素直に受け容れる素地をつくっている。モリス・バーマンのいうことと同じかどうかは彼の著書を読んでからにするが、私は日々そう実感して暮らしている。もしそれが、八十爺の独りよがりだと言われたら、うん、これほどの褒め言葉はないと鼻高々になってしまう。