1年前(2022-11-12)の記事「天へかえろうとする儀式」が送られて来た。1年前のワタシと山との感懐が綴られている。夢枕獏『呼ぶ山』(メディア・ファクトリー、2012年)という短編集。山での遭難に出喰わした男の内面に広がるイメージを描く。山が天にも昇る心持ちと重なってくる。
《それを、「天にかえろうとする」とか「かえろうとする儀式」といわれると、何だか胸の内を射貫かれたようである、そうして、それが宇宙とひとつになる感触を求めていたと言われると、まさしくそうだったと、受け止めた感触に名付けぬまま、心裡のどこかに棚上げして捨て置いた感触を思い出す。》
と、夢枕獏に共感し、と同時に
《もう、そのイメージを体感することは二度とないだろう。でも、その感触を感じたことを、こうして思い出すことはできるのだと、振り返っている》
と、わが身を見切る思いを記している。
何日か前にも記したが、1年ほど前にここ9年ほどの山の会の山行記録をまとめて本にしようと3度目の発心をし、出版社に原稿を送った。それが上下二巻となって、やっと今日午前中に届くという連絡があった。『70代の山歩き――山歩講9年の記録(上)』と『70代の山歩き――山歩講9年の記録(下)』。B5版の大きさ、合計590ページほど。
山の会の人や私の友人に送る手配も済ませ、到着したら「謹呈」と記した送り状を封入してすぐに郵便局にもっていくように準備をした。
原稿を送って後の校正で、5度、目を通している。その校正しながら読むのと、作品を読むこととの違いを感じたり、二校、三校と階梯が進むごとに「読み方」が変わってくるのも感じた。最後の五校のときには、9年間の山歩きに傾けるワタシの「思い」が変わりぶりが鮮明に浮かび上がってきた。
その変容が歩き方に現れ、道なき道を行く気持ちの高ぶりが行間に揺蕩うようになり、ついにオチがつくところまで行ってしまった。まさしく「天にも昇る気持ちで上り損ねた」と「終章」に記すようであった。これは、夢枕獏の描く遭難者が内心に描くイメージに近い感懐であった。違うとすれば、ワタシのそれは、いまリアルに戻って振り返っている感懐であって、無事であったからこそこうして内心を振り返る自問自答を行うことができている歓びでもあった。
そうだ、そういえば、今年の7月。梅雨明け。ほんとうに2年3ヶ月ぶりに北アルプスの笠ヶ岳へ行こうという気持ちが湧き起こり、ふつうなら1泊2日、若い人は日帰りで成し遂げる行程を、3泊4日かけて出かけた。恐る恐る山に入り、初心者のように道中で言葉を交わし、北アルプスを歩く八十爺が、まだまだ結構数いることもわかった。自分の身の上限を見限ってへこたれては引き籠もりになる。そう思って、もう一度歩き直しをしようと思い始めていた。その区切りを「本」で付けようと。
さあ、それが出来する。出来上がりを見るのは、手に持ってずしりと感じる重さとかページを繰ることによって目に入る写真と文字の割り付けデザインの眼福の愉しみということになる。遠足に出かける前の小学生の気分だね。
山歩きとそれを山行記録として書き記すときと、さらにそれを何年か経って「本」にまとめて読むときと、繰り返しわが身と山歩きとの遣り取りを身の裡に反芻するってことになっている。その都度違った感懐を抱いて、ワタシを発見している。年寄りの愉しみといってしまえば、まさしくその通りだ。「上り損ねた」からこその至福であると慶んでいる。
そうだ、そういえば、今年の7月。梅雨明け。ほんとうに2年3ヶ月ぶりに北アルプスの笠ヶ岳へ行こうという気持ちが湧き起こり、ふつうなら1泊2日、若い人は日帰りで成し遂げる行程を、3泊4日かけて出かけた。恐る恐る山に入り、初心者のように道中で言葉を交わし、北アルプスを歩く八十爺が、まだまだ結構数いることもわかった。自分の身の上限を見限ってへこたれては引き籠もりになる。そう思って、もう一度歩き直しをしようと思い始めていた。その区切りを「本」で付けようと。
さあ、それが出来する。出来上がりを見るのは、手に持ってずしりと感じる重さとかページを繰ることによって目に入る写真と文字の割り付けデザインの眼福の愉しみということになる。遠足に出かける前の小学生の気分だね。
山歩きとそれを山行記録として書き記すときと、さらにそれを何年か経って「本」にまとめて読むときと、繰り返しわが身と山歩きとの遣り取りを身の裡に反芻するってことになっている。その都度違った感懐を抱いて、ワタシを発見している。年寄りの愉しみといってしまえば、まさしくその通りだ。「上り損ねた」からこその至福であると慶んでいる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます