mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

がらんどうのココロを何で満たすか

2023-11-12 10:26:51 | 日記
 3日前のこの欄で「空っぽに我慢ならない文化」として「アメリカ文化は空虚を消費で埋めている」と解析するモリス・バーマンというアメリカの日本研究者のことばを入口にして、日米文化の違いを取り上げ、自然観の差異から生じる作法の表れと位置づけた。
 ちょっと手元の整理をしていたら、2015年6月20日付けの《「教養主義」と「知性主義」と「反知性主義」》と題した私のレポートを見つけた。後のささらほうさらの会の隔週勉強会で用いた「資料」である。
 私自身の辿ってきた「知=意識」にまつわる歩みを振り返っている。「教養主義」に満たされていた高校までのありよう、それから脱却する「知=意識人」の接近とその結果もたらされた「血=意識」の「発見」。それと「知=意識」との対立と相剋を通して心身一如に至る鳥瞰を、踏まえながら、現在してきた「反知性主義」をどうみているかと展開している。
 叙述の媒介として、仲正昌樹『教養主義復権論』(明日堂書店、2010年)、笠井潔×白井聡『日本劣化論』(ちくま新書、2014年)、森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書、2015年)を置いて、目下の問題意識に連なる緊張感をもっている。
 その中で、「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウになっていた」という笠井潔のことばを拾っている。それを、森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』を介在させて「ガランドウの空虚を埋める」作法が(アメリカといわず、世界中に於いて)「反知性主義」に噴き出していると展開していて、反知性主義の(存在する)合理性ととらえている。トランプ政権誕生の前年である。
 おおよそ5年後の予感でもあった。社会的には2020年にはじまるCOVID-19の世界的蔓延をきっかけにして皮肉にも、グローバリズムの進展してきた経済関係と裏腹に、反知性主義が国民国家の装いを伴って前面に押し寄せてきた。
 感染症という大自然の猛威に対して全人類的対処を主導するWHOの力は片隅に追いやられ、国民国家という枠組みで応戦対処する防御的資本家社会的ナショナリズムが前面に押し出された。覇権主義的な遣り取りが浮き彫りになった。そればかりか保健科学的な探求への取り組みさえも、陰謀論的な言説の応酬と対立でかき消され、台湾を排除したり、貧窮地域へのワクチン供給が金銭的に後回しにされる事態を招来した。
 そして2022年、ロシアのウクライナ侵略が起こり、世界の分断は修復しがたい様相を呈してきた。それに加えて、イスラエルとパレスチナの戦闘が加わって、世界の構図を描くこと自体が混沌へ向かっていることをあからさまにしている。
「教養」も「知性」もどう介在していいか、手をつかねてしまっている。笠井潔のいう「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウになっていた」世界の魂が、埋め合わせるものが無くなって、「戦争」という混沌で(空虚なガランドウを忘れるように)働いているんじゃないかと思うほどだ。
 ウクライナ戦争が長引くのにそろそろ飽きてきたヒトのクセを見抜いたかのように突発したハマスの襲撃とイスラエルの暴虐。これは、空虚なガランドウを埋める埋め草のように、報道メディアの企画を埋め合わせ、やはりガランドウの空虚な心的部分を満たす対岸の火事として画面や紙面を一杯にしている。
 笠井潔が何を指して「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分が、空虚なガランドウ」といったのか。大自然のほんの一欠片として存在しているヒトの、その存在自体の稀有ともいうべき有り難さと振る舞いの卑小さを「思い知れ」といわんばかりの状況とみることが、「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分」ではないか。
 パレスチナに限定していえば、1947年にパレスチナにイスラエル建国を承認するという「国連決議」こそ、「思い知れ」と突きつけられている原点。ドイツにすれば、ホロコーストという何をもってしても償えない罪障が原点というかも知れない。また、戦勝国家の連合体であった「国連」も、ユダヤ人迫害という、非情で非常の人類史的振る舞いへの償いとして、イスラエル建国を承認したと、当時の心理的契機を表明することもできる。だが、その後のイスラエルの暴力装置を背景にしたパレスチナへの統治と侵略とアパルトヘイト的な振る舞いは、ガザの人たちのガランドウが暴発してハマスの襲撃として現れたと言えるほどに見える。つまり、その地に何千年と棲まう人たちを排除するという人工的な人為、政治的な意図によって理想郷を建国する振る舞いこそが、生まれながらガランドウを強いられる人たちの反知性主義的暴発を招き寄せている。大自然の理法に適う人為的な作法を、ヒトは身につけなさいよと謂う天啓が、今回のガザ=パレスチナvsイスラエル問題である。
 どなたも「宗教的なものによって満たされるべき心的な部分」を抱えている。それはヒトとして大自然に生きている実存在。大自然とヒトとの、存在にかかわる動態的「かんけい」である。ワカラナイこと、知らないこと、知っていると思ってしまっていること、つまり、大自然に存在することのヒトの身の程を知ることが、畏れを育み、他の存在に対する敬いの念を生み出し、何に対しても畏敬の念をもって向き合う作法。
 どなたの胸中にもそれにあたる心的な部分があることが、存在の原点である。それが欠けてしまったことが「空虚なガランドウ」を生み出している。先ずは己の自然観を、あらためてみること。ワタシにとっての宗教性を吟味して、今の実在を有難いことととらえ、あまたの偶然に恵まれてここに至ったことを(大自然に)感謝すること。そこから出直しなさいよと、大自然の成り行きは、悟している。