mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

お遍路最終章(3)疲れが滲み出してくる遍路道

2023-11-29 15:05:33 | 日記
 第2日目に歩いた距離は(私の歩数計では)28.1km。計画段階では21kmだったのに、なぜか多い。これは区切り打ちの第3回目の時に計画の2割方多くなるとわかっていたので驚きはしない。
 この日は61番札所より62番札所に近い所にある「ビジネス旅館小松」と銘打った宿。「小松」は平成の大合併前の町の名だ。次の日の行程と考え合わせると、翌日61番へ戻って歩く方が時間的にゆとりができる。
 この宿、ビジネスホテルのようなものと考えていたが,大違いであった。平屋のフロアに六畳間ほどの部屋をいくつも設えてある。「今日は16人(が泊まっている)」と耳にした。お二人さんで歩いている人は一部屋であろうから、16部屋ある訳じゃないだろうが、食事は広い部屋のテーブルで一斉にとる。お遍路さんたちが顔を合わせ,お喋りをしながら過ごす場がビジネスホテルの名にそぐわない。
 6人ひとテーブルの中にひとりでもコミュ力のある人がいると場が変わる。私の前に座ったアラコキの男はお遍路何回というベテラン。それがわかったのはやはり向かいに座るアラカンの女性が、いろいろと質問して言葉を交わしていたからであった。連泊しているこの方は二度目のお遍路。今度は通しで歩いている。私がリハビリお遍路で、山歩きの事故とわかるとあれこれと訊ねる。この方の父親が90歳で亡くなったというから、やはりそれぞれにお遍路をする事情を抱えているようだ。私のような「歩くリハビリお遍路」なんていうのは外国人観光客と同列なのかも知れない。
 そうそう、私を追い越して少し言葉を交わした(日本語の達者な)ガイジンも、この宿に泊まっていた。アメリカ人。若い頃、香川県志度の高校で3年間英語教師をしていた縁で、まとまった休暇が取れたので2度目のお遍路を通しでやろうとやってきたという。私はあと十日ほどかけるが、彼はその歩く速さからすると6日くらいで88番札所まで行けるかも知れない。
 そうだもう一人、三十代の女性。顔見知りのように私に挨拶するから,どこかであったことがあるかと考えていて、思い出した。初日の「しこくや」で会釈を交わした方だった。お遍路16回目とか。初めバスツアーのガイドとして経巡り、そのうち歩き遍路をするようになったそうだ。
 遍路宿のこうした出逢いが縁でメールを交換してもう十何年という知り合いになった人たちに,その後何人にも会った。「お四国病」と呼んでいるらしい。私にも「全部終わって、次の春が来たら、また、歩きたくなりますよ」と予言する人は、このあと3人も居た。
 いえいえ私は信仰心がありませんからと思いつつ、そうか、こうして歩くことがクセになってついに人生を歩くことに全部投入するようになると、永遠の循環遍路になる。ウォーキング・ハイになって山歩きがクセになるのと同じかも知れない。宿の予約をしているともうその段階からウキウキして・・・と話していた75歳の同宿者もいた。これは、山行計画を立て始めるときの気分と同じだ。
 さて第三日目、7時前に出発し、61番札所・香園寺へ向かう。コンクリート造りの大きな美術館のようなモダンな建物。「聖徳太子ゆかりの・・・」と紹介があるから、創建は6世紀後半か。とすると1400年以上昔になる。建物二階は大聖堂のように黄金色に輝く大日如来を正面に据えた祭壇に何百席かの固定席があって、大きな祭礼も行われるように見える。ここで、初日に頂いたお接待の500円で蝋燭を「献灯」して、一つお勤めを果たした。
 わずか1.5kmしか離れていない62番札所・宝寿寺は街中のこぢんまりしたお寺さん。8世紀前半に建立され、戦国時代の戦火に焼かれ、その後再建されたが、神仏分離令(1868年)で廃寺となり、明治十年(1877年)に再建されたというから、政治世界の有為転変に振り回され、なおかつしぶとく生き延びてきたということか。でもそういう苦難の蓄積を感じさせない簡素な境内であった。そうだ、ひとつ記し措くことがあった。
 境内に「一宮稲荷」があった。説明によると、なんでも京都の伏見稲荷、岡山の最上稲荷、愛知の豊川稲荷の三神を護法神として迎え・・・という。これだ、これ。ワタシの神と仏の神仏習合が、ここでも画然と姿を現している。明治初めの廃仏毀釈というのが、日本仏教の伝統を足蹴にして天皇教を打ちたてようとした薩長政府の迷妄だと、露わに示しているではないか。日本庶民の「信仰」の根柢に流れている「カミ信仰」をないがしろにしては仏教も根付かなかった証明でもあるし、逆に「カミ信仰」だけでは宗教的な心の支えにならず、仏教的なロゴスによる後ろ盾を必要としたとも言える証左である。そんなことを思いながら、63番札所へ向かった。
 街中の国道を歩いて20分ほどで83番札所・吉祥寺についた。ここには88ヶ所中唯一毘沙門天が祀られているとあった。毘沙門天て四天王のひとりだったかな? 七福神のひとりだったかな? 後で調べるとどちらも正解だった。四天王では多聞天と呼んだという。そうだ、聴く耳を持った福の神か。そうはそうだが、毘沙門天というと戦勝を祈る神というから、庶民の願う「福」とはちょっと違うんじゃないか。寺中の解説を読みながらそんなことを思っていた。
 64番札所・前神寺へは国道を避け、ほぼそれと並行して走る「四国のみち」を辿る。google-mapにガイドして貰うとメインの国道ばかり案内する。だが事前にgeographicaに記し置いたポイントを辿るようにすると、昔のへんろ道へ入ることができる。わずか3.2kmの間に9本の川を越える。古い町並みには住宅が建ち並び,しかし人影はない。昼間働きに出ていて留守ということもあろうし、年寄りだけが家に逼塞しているとも考えられる。しかし、お昼近い時刻なのに、買い物に出歩く姿も見えないというのは、どういうことなのだろうか。ときどき車は通り過ぎる。もう終わった町、そういう時代なのよ、と静謐が伝えているように感じた。
 またしても朱い大きな鳥居があった。そこから百メートルほどに前神寺の山門がある。長いアプローチを歩いて小高い丘の上に上がって納経所。本堂へはさらに上に向かい、もっと石段を上がったところに権現堂はあった。杉木立に囲まれ、町の通りからそう離れていないのに幽谷の風情が漂う。
 さてここから85番札所・三角寺までは45km以上ある。今日はその3分の1ほどのところに宿を取っている。国道11号線を辿るのが最短のようだが、「四国のみち」はそれとつかず離れず概ね並行して走っている。当然裏通りの道を選ぶ。途中でスーパーマーケットがあったので、お昼のサンドイッチを買い求め公園でも見つけて食べようと考えた。石鎚山のある山脈から流れ出る川を何本か横切る。そのうちの一本、大きな加茂川をわたるところでは自転車でお墓掃除に来ているというおばさんにへんろ道を教わる。「ここはね、季節になるとサクラがきれいなんですよ」と橋を渡りながら話してくれた。川の右岸にある武丈公園で休憩所を見つけ、お昼にした。SAINOHとマークを付けたジャージーでランニングする高校生が走る。西条農業高校の体育の授業なのであろう。初めの集団はリズム良く走っている。後からやってくるごとにリズムは崩れ、もはや走っているというよりは歩いているようになり、最後尾の方はシカタナイから少しは前に躰を動かしている風情。どこの高校生も同じだなあと可笑しい。
 途中に王至森寺というお寺さんがあった。私はトイレを借りようと立ち寄っただけであったが、風格があり、山門前参道の紅葉がきれいであった。中へ入ってみると、「日露忠死者碑」が石段とその上の権現堂とさらにその後背の針葉樹林を従えて、荘厳な雰囲気を醸し出していた。そうか、日露戦は謂わば初めての国民の戦争であったなあと,海軍で従軍していた祖父が繰り返し話していた旅順・大連攻略の犠牲者を思い起こしていた。
 草臥れてきた頃に道は国道11号線を車とともに進むこととなり、いやはや体が重い。途中のスーパーで,トイレを借りるとともに、今日の夕食と明日朝の食事を買い込む。歩いている途中で「あっ、ちょっと待ってて」と玄関から出て来た50代の男が柿を三つ抱えて「荷物になるけど、食べて」と手渡してくれた。これは夕食と朝食になった。
 ビジネスホテルMISORAは、素泊まり。到着してすぐに部屋の風呂に浸り洗濯機を使い乾燥機で乾かしてビールを開ける。大相撲を見終わる頃には夕食も終わっていた。歩数計を見ると30kmを越えている。計画では23.4kmであったのに、どこでこんなに増えたろうか。やはり「へんろ道」と「国道」との違いなのだろうか。
 明日の天気は晴れという。疲れがじんわりと身体にしみ出してくるように思えた。