mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私の平成時代(2)変化は積み重なって、今に留まる

2019-02-14 10:49:50 | 日記
 
 社会学者の大澤真幸は、戦後の「時代区分」として、25年毎に区切ってみせた。敗戦の1945年~1970年、その後の、~1995年、そして、~現在まで、と。エポックメイキングな、大きな出来事をかぶせて、その変化の特徴をとりだしている。私にとっては、まさにその時代の空気を吸ってきたこともあって、感触としては、異議はない。だがその区分は、大澤真幸の人生とは切り離された客観的な視線で見たものだ。なにより、この後のことについての時代の継続性について、引き続く「未来」という気分を漂わせている。だが私はすでに、後期高齢者。謝意快適な年齢区分というよりも、わが身の衰えを感じているから、わが身の区分としては「結末」が置かれている方が、似つかわしい。
 
 その運びからすると、4コマ漫画の起承転結のような四展開がいいかもしれない。そういえば、ヒンドゥの「マヌ法典」の四住期という区切り方が思い浮かぶ。「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」は、ライフサイクルとしての変転を特徴づけて命名している。それからすると私の場合、おおよそ25年毎に区切って、~25歳(1967年)、~50歳(1992年)、~75歳(1997年)、~これ以後と、4区分できる。これ以後を25年とみると、人生百年時代という大きな括りに相当する。だが、まあ、それほど楽観的ではないし、わが身の移ろいに関して楽天的ではない。最後の遊行期があとちょっぴりであっても別に悔しくはないほど、それなりに生きてきたという思いがある。
 
 そう考えてみると、50歳~75歳の「林棲期」の25年が若干前後に延長すると、「平成時代」に相当する。「マヌの法典」(岩波文庫)は「林棲期」を次のように記している。
 
「家住者、顔に皺より、毛髪灰色となり、その子に子息を見るに至らば、その時、彼は森林に赴くべし」
「耕作による全ての食物、及び彼のすべての財産を捨て、その妻を子に託し、或いはこれを伴いて森林に赴くべし」
 
 ヒンドゥの世界とは少しずれるから、定年退職したり孫の顔を見るのはもう少し後になるが、私が50歳のとき、ちょうど下の子が成人した年であったことを思うと、文字通り「子育て」は終了した。子を育てるという人類史的役割を終えて、わが身のかかわりにおいて思うところを遂げるように振る舞う時期に重なっている。仕事においても、そこそこ安定した切り回しをしながら、全国で四番目という新しい仕組みを導入した体制を構築する運びに取りかかることになった。あるいは、山歩きにしても海外へ足を延ばすようになり、東南アジアやヒマラヤ、のちにはスイスやイタリア・アルプス、ニューギニア、モロッコ、中国、チベットやキリマンジャロに向かったのも、50歳代前半から70歳までにかけてであった。ではそれが、「平成」の変化とどうかかわっているのか。そこに、「私にとっての平成時代」がある。
 
 だがそこを述べるには、それ以前の、私の「学生期」「家住期」と「時代」の変遷について触れておかねばならない。
 
 「学生期」とは、学びの時代である。誕生して親兄弟や近隣の人々に育まれ、混沌の海から紡ぎだされるようにして、いつしか「じぶん」をもち来る。その「じぶん」が混沌の海で育まれた「せかい」の受け渡したものであることに気づくのは、物心ついて「じぶん」の感じていること、考えていることが本当に自分で感じたことなのか、考えたことなのかと自問しはじめててからだ。
 
 つまり、「じぶん」が受け入れることのできない外界が屹立し、翻って、では「じぶん」の感じていること、考えていることの根拠は何かと問う内なる声に出逢ったときであった。「じぶん」を対象化し、その感性や感覚、その考えかたの根拠を言葉にしはじめたとき、「わたし」が姿を見せはじた。
 
 「マヌの法典」は「学生期」をベーダを学ぶ時期としている。「入門の儀式を行いたる後、師は先づ第一に学生に身体の潔斎、作法、聖火の礼拝、及び朝夕の薄明時の勤行の諸規則を教うべし」と。これはしかし、「学ぶ」本体、つまり「じぶん」に触れていない。

 すでに「じぶん」は(十分かどうかは疑問だが)学んでつくられてきている。混沌の「せかい」が受け継ぐようにして(いつしか)かたちづくったものである。だから「マヌ法典」のいう「学ぶ」は、意識的に学習することを指しているが、だれが、なぜ学ぶかについて言い及んでいない。まるで白紙に書き込むように「学び」があるという設定である。
 
 私がいう自己対象化は、その(ベーダでも学校ででもいいのだが「学び」の)過程で発生する「じぶん」とは何かという疑問に応え始めることを指している。それは「外からの学ぶべきこと」に触発されるようにして、すでに形を成している「じぶん」の輪郭を描き出すことを指している。それは同時に、「外からの学ぶべきこと」を分節化することにもつながり、「せかい」を描き出すことになる。

 畢竟、この「せかい」が「林棲期」や「遊行期」の「捨てる」ことに大きくつながるのである。
 
 私の「学生期」を誕生から1967年とみると、その半ば、1952年ころまでは、私は混沌の世界にあった。「ボーっと生きてんじゃねえよ」と近頃は叱る人がいるが、混沌の海を泳いで、ボーっと生きてるのが子どもである。だがそのボーっと生きてる間に、ことばを覚え、振る舞い方を身に着け、世の中の仕組みや慣習や規範をいつしか身に着ける。身に着けながら、どこかに「文法があること」を感知し、根底的なこととして「じぶんなりに」一般化するのが、子どもが育つということであった。
 
 親兄弟との関係で、近隣の人々とのかんけいで、学校における子ども同士のかかわりのあいだに、どう振る舞うことがなぜ必要なのかを、ことばにならないが、雰囲気として、イメージとして、かたちにならない混沌の味わいとして、身に着けた心の習慣が、のちのち大きく、「じぶん」を規定する。それに気づいたとき、「わたし」への脱皮がはじまるが、脱皮しないままにすり抜ける道筋もないわけではない。すり抜けてしまったり緩やかな方へ舵を切ってしまうと、大きくなってから、苦しむことになったり、世の中に背を向けられるようになる。
 
 そういうふうに「学生期」を考えると、私の場合、自己対象化の視線は、じつは、若いうちに終わったわけではなく、かたちを変えながら、今でも続いている。脱皮に脱皮を重ねてついには、骨川筋衛門になる分けにはいかないから、相変わらず「じぶん」はどこから来てどこへ行くのかと、埒もないことを考えている。あるいは「わたし」は、所詮、「せかい」の借り物。人類史的な「営みの所産」が「わたし」という身に乗り移って、いまここを通過しつつある。そんな感じで、「じぶん」をみている。四住期は、通り過ぎて行ってしまうのではなく、積み重なって現在にとどまっている。そのように「変化」がわが身に訪れていると考えるようになった。(つづく)

私の平成時代(1)なぜ時代区分ができるか

2019-02-12 16:48:48 | 日記
 
 間もなく「平成」が終わる。マスメディアは、その30年を振り返って「特集」を組んでいる。私はチラリと目を通すだけで、細かく読まない。
 天皇制を国体と考えている人たちは「元号」を信奉して「画期」と考えているだろうが、国体としての天皇制は、敗戦とともに消滅した。百歩譲っても、昭和天皇の死とともに蒸発した。
 だから「元号」は日本の文化的な遺産として意味を持つだけだ。天皇の「御代」を表す記号ではなくなっている。
 「戦後日本の国体はアメリカであった」と、最近若手の政治学者が指摘して評判になった。戦後の政治過程を社会学的に読み取って、「国体」って何? と問えば、この答えになる。
 「いや日本の国体は(変わることなく)天皇制だよ」と答える人は、そう信じていると自己表白しているにすぎない。このやりとりを見ていると、「国体」って所詮、統治者がもっている「国民統合の」自己イメージだ。
 象徴天皇でもいい、「国民統合の象徴」こそ日本人の誇るべき唯一の集約点だと考えているのであろう。統治者としては、そう言っていればいいかもしれない。でもそれを私たち国民に押し付けるのだったら、「日本の国体はアメリカ」というような事象をまず排斥して、たとえば、日米行政協定をきっちり五分にするとかして、からにしてもらいたいね。
 
 元号についていうと、日本の高度経済成長が進展するにともなって、使わなくなってきた。その境目を、私の記憶から引き出して記せば、1960年代にある。
 いまでもそうだが、高校の同窓生の会は、「36会」と名づけている。卒業年次の「昭和36年」に由来する。
 だが、大学を出てからは西暦で通してきた。欧米の文書を参照することもあったからだが、簡単にいうと、日本が国際化してきたからだ。
 高度経済成長時代に日本が経済合理主義を争って世界の舞台に登場するようになれば、まず利便性が優先される。今のご時世に西暦がキリスト教世界の元号だと言いつのるのは、アラビア数字が日本起源ではないと言い張って拒否するようなものだ。
 日本の文化もまた世界の文化との交流に洗われ大きく変容してきた。利便性を優先するというのも、その一つといえば言えなくはない。でも日本文化は、外来の文化文明を遠慮なく咀嚼して取り入れてきたではないか。その「流動性」「柔軟性」を日本の国体と言ってもいいほどだと、私は思う。
 
 ならば元号で時代区分する「平成時代」に、なぜいまさら、こだわるのか。ここでやっと、「時代区分」の話になる。
 「平成時代」という言葉をいまのメディアは、単なる周年行事的にとらえて使い始めた。平成が30年で終わるから平成時代が終わる、と。
 だが、ではどういう「時代」だったかと振り返ると、後付けながら画然とした特徴が浮かび上がる。それは、平成以前と画然たる違いをもち、平成以後とも異なる時代と記憶されるような予感を孕んでいるとでもいうように。
 
 特徴も、予感も、読み取る者が読み取っているにすぎない。だが私の読み取りが個別性から発しながら一般性を失わないのは、戦中生まれ戦後育ちという世代的な通有性をもっているからにほかならない。
 子どもの物心つくのを十歳前後とみると、そのころ日本は独立した。「アメリカ国体」時代の幕開けである。たっぷりと時代の空気を吸って私たちは育った。
 高校を卒業した昭和36年は「所得倍増政策」の池田内閣がスタートした直後であり、私たちが就職したのちの日本社会は、高度経済成長から高度消費社会へ向けて一目散に走りに走った時代であった。思い返すと私たちが、その先端を担って走っていた。
 中流社会が招来され、アメリカをして「どちらが敗戦国であったか」と言わしめた黄金の1980年代は、「アメリカ国体」の精華であり、それが幕を閉じたのも、奇しくも「昭和」の終わりとともにであった。
 
 「時代区分」とは「変化」をとりだすこと。私たちが「昭和時代」という時代区分に馴染めないのは、「戦前―戦後」という「変化」が強烈であったからだ。
 戦前の、国際社会におけるそれなりの隆盛と傲慢と破綻、戦後の混沌と高度成長と高度消費社会とバブルという際立つ変化は、その同時代を生きた者にとっては、ふた世を生きたような面持ちさえある。それをともども一緒にして一つの「時代」としてしまうのには違和感を感じないではいられない。
 あえて私が「昭和」を区分するとしたら「昭和前期」と「昭和後期」と名づける。画期は1960年安保。あれで日本の「アメリカ国体」が定まった。
 
 ところが、「平成時代」という区分を私が受け入れるのは、バブルが崩壊してからここまで、それなりの高度消費社会をつづけている昭和との対照にある。予感だが、日本は、ポルトガルのようになりつつある。一度高度に発展し隆盛を誇った社会が、時間をかけて、そのときの富の蓄えをつかいながらゆっくりと成熟していっていると思える。これは、そうなるといいなという予感である。(つづく)

ゆっくりと静かな崩壊

2019-02-11 11:39:16 | 日記
 
 このところ、微細なわが身の変化が気にかかる。
1、お酒がおいしくなくなった。
 むろん、だれと飲むかが一番の「肴」だから、独りで呑むのにそれほど身を入れたことはない。だが、少しずつでも日々嗜むのは、愉しみであった。ところが、それほど美味いと思わなくなった。
 口当たりがいいワインは、値段にかかわらず(というのは、安くてもという意味だが)美味いと思って口にした。それが、グラスに一杯で、もういいやって思うようになった。
 焼酎は、少々値段が張っても、雑味の少ないものを呑みつけていた。それも(お湯割りにして)、五酌くらいで十分と感じている。いやそれだけでなく、翌日目覚めたときに、胃の腑にちょっとばかりだが、どろんとした重みを感じるようになった。消化吸収が十全でないのかもしれない。
 日本酒は、近ごろ(一般的にだが)たいへん旨くなって、ほんわりとした風味が口中に広がるのを愉しむように冷酒を口にしている。それでも、お猪口に二杯くらい、一合も呑まないで杯を卓においてしまう。
 アル中になるのではないかと常々カミサンが気遣うほど酒好きだったのに、どうしたことだ。
 
2、指の感覚が鈍くなっている。
 先日、何かの折に友人から千円を借りた。それを返そうと財布から千円を抜き出して封筒に入れ、ポストに投げ込んだ。そうしたらその友人から、「お貸ししたのは千円、利息は要りません」と書いて、封筒に千円を入れて返してきた。二千円入れていたのだ。ぱっと財布から抜き出したお札が、一枚か二枚かは、手の感触で分かるはずなのに、どうしたんだろう。これはちょっとした、驚きだった。
 
3、きっぱりと起きられない。
 夜は早く床に就く。これまでは6時間とか、7時間半とか寝ると、トイレに行きたくなって目が覚めた。いや、トイレに行きたいから目が覚めるのか、目が覚めるからトイレに行きたくなるのか、わからないと思ったりしたものだ。たいていは目が醒めると起きだす。カミサンとは床に就くペースが違うから、そっと起きだして書斎のリクライニングに座って新聞を読んだり、本を読んだりしていた。
 ところが最近、トイレに行ってから、もう一度床に入る。カミサンが起きだすのは、なんとなくわかっている。でも、起きられない。なんと、それから1時間半ほどはうつらうつらと、いつしか寝入ってしまう。もちろん山に行く予定があったりすると、目覚ましをかけるから、文句なく起きるのだが、そうでもないと、なんとなくだらしなくなったように感じる。
 寝起きのキレが悪くなったとでも言おうか。できるだけわが身の自然には逆らわないようにふるまっているから、何時でも後から気づくことになるのだが、ここ二、三か月のあいだの変わりよう。なんだろうこれは。
 
4、記憶の持続時間が短くなった。
 本を読んでいて、気になったことを文章にしようとして、え~っと、何だったっけ? と思っている自分に気づく。すぐに書き記しておかないと、忘れてしまうのだ。いや、気になったことなら、まだそれほどでもないか。
 読みながら、ほほう、なるほど、これは面白いとか、ふむふむ、そうかあの本はこういう視点から読む読み方があるんだと、私も読んだことのある引用文献の読み取り方に感心する。それを文章にしようとすると、はて、なにに感心したのか、なにを面白いと思ったのか、忘れている。これは、気づいてショックであった。付箋を貼るとか、メモをとるとかしなければならない。
 昨日などは、ついに、読んでいる文章の肝心と思うところを、パソコンにいちいち書きつけていった。そうすると時間がかかるが、仕方がない。書き付けた文書を見返すと、読みながら感じていた感懐が甦る。
 こうでもしなければ、本全体が、読み終わったとき、ぼんやりとした遠景に佇んでいて、たしかに印象は刻まれているように感じるが、ずいぶんこれは、抽象化した受け止め方だなと思ってしまうほどになる。これじゃあ、コメントのしようもない。たぶん、読んだかどうかさえ、何日か経つと忘れてしまうのじゃないかと、わが身の変わりようを感じている。
 むろんそれほど切実に思って読んでいるわけではないから、忘れることへの「恐れ」はない。忘れることが、自分への抑圧にはならない。でもこれは間違いなく、「ボーっと読んでんじゃねえよ」と著者に叱られる事態ではある。
 日本人の3割は日本語が読めないと、AI研究者の大学の先生が声をあげている。私も、もう、その一人に加わっているように思う。
 
 上記の微細な変化は、ゆっくりと静かに進行してきている(ように思う)。「私の崩壊」である。それは、別様にみれば、「私」が「わたし」を離れて、遠景に溶け込んでいく姿かもしれない。独りが全体に一体化していく。個別が普遍に合一化する。ああ、涅槃の境地って、こういうものをいったのかもしれないと、我田引水で読み解けば、言えるかもしれない。
 後期高齢者の鳥羽口に入ったところだから、まだ早いかもしれないし、喜寿でなくなった長兄のことを思うと、そろそろだねと順調な運びに同意できるかもしれない。ことに「4」のようなことに出逢うと、藤田省三が古希を迎える前に「断筆宣言」をしたのも、無理からぬことと「わかる」ような気がする。彼の厳格な思考と筆運びは、ちゃらんぽらんの私の比ではないくらい、綿密であったのだから、彼の感じた自覚的ショックは烈しいものだったに違いない。
 ちゃらんぽらんを悔いているわけではない。ときの訪れをしみじみと感じている。

すでに春の三浦半島・大楠山

2019-02-08 17:00:58 | 日記
 
 昨日(2/7)の日和見山歩(CL:myさん)は大楠山。三浦半島にある里山。逗子駅に集合してバスに乗る。私は横須賀線は鎌倉に行ったときだけ。その先の逗子にも葉山にも横須賀にも行ったことがない。山よりも、その土地がどんなところか、興味が湧く。家を出るのも7時半とずいぶんゆっくりだった。
 ところが、朝食を済ませながら付けたTVが、「武蔵野線・南船橋~府中本町 運休中」とテロップが出ている。おいおい、どうすりゃあいいんだ。浦和駅まで4km、歩くと45分かかる。そうか、バスがあると、思い出す。バス停に向かう。すぐにきたバスは座席が空いていたが、止まるごとに通勤客が乗ってくる。やがて満員になり、乗るであろうお客がいても止まらずに走り、20分かかって浦和駅西口に着いた。乗ってから分かったのだが、「濃霧のため」武蔵野線や総武線が軒並み遅れているという。そうか、今日は気温が上がると言っていた。加えて昨日は、久々の雨が降って、関東南部にはたっぷりとお湿りがあった。
 逗子への行程を検索すると、上野東京ラインに乗り戸塚で乗り換えろと、「案内」が出る。車輛はボックス席のあるものだったが、駅ごとに乗り降りがあり、上野で座席に座る。戸塚で乗り換えて大船から横須賀線に入り逗子へ着いたのは、集合時刻の50分も前であった。
 ひとつ不思議だったのは、集合場所が逗子駅東口だったから、電車の進行方向左へ出ようとしたら、東口は右にあると表示がなされていたことだ。それじゃあ西口になるんじゃないかと、ちょっと方向感覚がくるってしまって慌てた。後で地図を見ると、大船から鎌倉を回り込むから横須賀線は西側から三浦半島に入り込んでいる。そしてちょうど逗子辺りで少し北向きに方向を変えて、三浦半島の東側へ横切り横須賀へ向かうとわかった。
 逗子は、私の暮らす東浦和よりも大きな町だ。横須賀線が回り込むのは、その東側に標高200mほどの小高い山が連なっているからだとみえる。駅ビルのコーヒーショップに入って、次々とやってくるバスの乗降客をみながら手持ちの本を読む。リュックを背負ったシニアも目につく。集合の少し前に駅の出口へいくとkwrさんが手を振っている。彼は新宿湘南ラインで、池袋から一足でやって来たそうだ。集合時刻にはほかの方々もきた。「上野東京ラインで楽だったわよ」とにこやか。「ああ、これこれ」とmyさんが指さすバスに乗る。
 バスは葉山の御用邸前で進路を変え、三浦半島の西側に沿うように海沿いを南下する。「ここは標高3m」と表示があるのをkwrさんがみつけ「津波が来ると逃げようがないね」と、地形に思いを馳せる。海へ注ぎ込む小川があるらしく、「〇〇橋」と名づけられたバス停が何カ所も出てくる。海が見える。その向こうに富士山が下の方を雲に隠すようにぽっかりと浮かんで見える。
「おっおっ、あれ、江の島よ」
 とkwrさん。富士山の南に山並みがつづく。ひときわ高く、雲に浮かぶのは天城の連山のようだ。ずうっと海の向こうには、大島が霞んで見える。
 30分ほども乗ったろうか。前田橋というバス停で降りる。ここから東へ向かい、大楠山242mに登る。海を背に川の上流へ歩を進める。この前田川の流れに沿って、川床に木道が設えられている。流れを遮らないように飛び石が置かれ、それを踏み渡って川床に降り立ち、砂利と石を踏んで「前田川遊歩道」を1.4kmほどすすみ、大楠山へ向かう。面白いルートだ。CLのmyさんは二度ほどここを歩いている様子だ。迷いがない。
 ゆっくりした上りがやがて少しばかり階段になったり、傾斜が現れる。例によってmrさんが山道に悪態をつく。こうやって彼女は、ご自分を励まして、ここ6年山を歩いてきた。照葉樹林の木の葉がキラキラと陽ざしに照り輝く。羽毛服は脱いでいたが、さらに一枚上着を脱ぐ。前を歩いていた女性の3人組が道を譲ってくれる。上から降りてくる人たちとすれ違う。朝早くから登り下山しているのか。あるいは、この山が散歩に親しまれている里山なのか。
 スミレが咲いている。タンポポも。まだ2月。三浦半島は、春が早いのだ。樹木が密生しているようにびっしりと身を寄せ合っている。スイセンが花をつけている先に、菜の花畑がある。花をつけて満開の風情。と、灯台のようにすっくと立つ高い塔が現れた。当の一番上は、丸いドームのようになっている。近づいてみると「国土交通省 大楠山レーダー雨量観測所」とある。レーダー・ドームだったのだ。半径120kmの雲にレーザーを当て水滴の含有量から雨量を推測して計測しているようだ。埼玉県はほぼ全部が含まれている。ちょっぴり群馬、栃木、茨城の南部が囲われた地図がつけてある。その傍らに展望台が設えられている。通りかかった地元の方らしい人が、ここの展望台のほうが、あっちよりいいですよと、指さす先に、大楠山があった。上ってみる。
 くるくるとらせん状に上がる。先に登ったkwrさんが富士山が見えると声を上げる。裾野の丹沢山塊から箱根、伊豆半島への山並みを従えて、雪を置いた頂を天に向けて屹立させて、悠然としている。その前に広がる相模湾の江の島が、灌木の枝に邪魔されながら目に入る。目を南に転ずると油壷から城ケ崎に至る三浦半島の突端が、のっぺりと海へ張り出す。そのさらに先には、ぼんやりと島影が浮かぶ。大島のようだ。春の海ひねもすのたり♫という言葉が思い浮かぶ。
 東をみると、浦賀水道を挟んで、房総半島の突先、洲崎だろうか。視線を北へ移動させると、林立する煙突と背の高い建物が並ぶようにみえるのは、千葉県の工業地帯だろうか。航空機が列をなすように飛び立つ。羽田空港が近いのだ。
 ウメ一輪かと思ったら、サクラが咲いている。一輪どころではない。ポツンポツンとだが、何輪も花開いている。カワヅザクラだよと誰かが言う。コスモスと菜の花の種まき時期と満開時、刈り取り時期を記した看板がある。「自然と菜の花畑 大楠観光協会」と明示している。観光協会ができるほど大楠山が親しまれている。まさに里山。
 そこから200mほどの南に高台をなしている大楠山へ登ると、たくさんの人がベンチに、芝地に座り込んなるほどで、暖かい日差しを浴びながらおしゃべりをしている。なるほど鉄製の見晴らし台がつくられているが、こちらの方は、風が強いと登りたくない。南に樹木がなく視界が開け、太平洋が店長に上がった陽ざしを受けてキラキラと輝いている。西の風が強い。東側のくぼ地の芝に腰かけて、お昼に取りかかる。12時だ。こちらにもサクラが花をつけている。kwrさんがサクラの葉のすでに開いているのに気づく。ヤマザクラなのだろう。そうか、大楠山はサクラの山なのだ。満開の時期になると、きっと大勢の人でにぎわうに違いない。
 20分ほどのお昼タイムを過ごして東の方へ下山にかかる。つまり、三浦半島の西側から登り、東側の横須賀の町の方へ下る。「大楠山ハイキングコース」とルート表示がある。階段状の下山路の上に金網の屋根が掛かっている。左手側が「葉山カンツリー倶楽部」というゴルフ場になっている。そのボールが歩行者にあたらないようにネットを張ったのだろうが、こちらに打ち込んだ人はそうするんだろう。ボールは藪の斜面に落ちてしまう。
 「衣笠城址3.3km→」の表示にしたがって下る。豊かな樹木に囲まれ、なかなか風情のある道がつづく。その先に「迂回路のお知らせ」が立っている。ごみ処理施設を建築するために、従来のルートが閉鎖され、新しいルートが指示されている。四車線の広い「横浜横須賀道路」を横切ってもっと東側へ出るのだ。myさんがスマホの地図を見て「こっち」と信号の先を左折する。畑の向こうに表示看板があり、上りの階段がつづく。
 白梅の咲く農地の間を歩き、いつのまにか密生する樹々に覆われた道をすすむと、大善寺というお寺の境内に出た。その脇の階段を上がった小高い丘の上に衣笠城址はあった。石碑がぽつんとあるだけ。前九年の役で功労のあった三浦氏にこの地が与えられ……と大善寺の看板に記されていたから、おおよそ一千年近く前のこと。以後相模の国三浦郡を拠点にして源氏に味方して勢威をふるった三浦氏の居城が、この衣笠城であったとか。そうか、それがこの半島の名の由来であったか。ここもサクラの名所らしい。
 ひとたび衣笠公園に入り、そこの案内標識にしたがって、衣笠駅へ向かう。樹々の合間から街並みの建物とその向こうの東京湾の海が見える。木製のムササビがぽつりと立てられていて、市民公園という感触が漂う。下校中の中学生に道を聞き、ほどなく衣笠駅に着いた。きぬがさえきは、これまた、東浦和よりも大きく賑やかな感触だ。太平洋岸がこのように明るく開けているのは、都市化の進んだ順序に由来するのだろうかと思いながら、下山祝いのビールを、ギョウザをつまみに空けて、横須賀線の電車に乗った。kwrさんは横浜から東上線への直通に乗るという。ほかの人たちは上野東京ラインの宇都宮行快速に乗り換え、仕事帰りの方々に混じって浦和駅へ5時過ぎに到着したのでありました。
 そう言えば立春を過ぎていた。今日は、ずうっと暖かいまゝの、いい日和見山歩でした。

愚民社会か選良の条件か(再掲)

2019-02-06 20:30:34 | 日記
 
 4年半前に記したこの欄の記事が目に止まった。いまも思いが変わらないなあと、読み返して思った。再掲します。
 何かの本を読んでいて、宮台真司×大塚英志『愚民社会』(太田出版、2011年)があるのを知った。図書館に予約しようと検索したら、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、2007年)もあったので、2冊とも予約して借りた。
 
 宮台たちの方は、最初の対談に「すべての動員に抗して――立ち止まって自分の頭で考えるための『災害下の思考』」と見出しと袖をつけている。「動員」というのは、世の中の大勢に流されて動くことを指している(あとの対談2本は、2003年のものと004年のもの)。彼らはいずれも、日本の社会を変えたいと願っていて、変えられないことに苛立ってきた。変えられないのは、日本の大衆の根っこに底流している「気質」であると見て取る。それを宮台は、〈任せて文句を垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ、〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へ、〈褒美をもらって行政に従う社会〉から〈善いことをすると儲かる社会〉にシフトすることを願っている。この、〈 〉の中のシフトする主体が「愚民」である。つまり、角度を変えていえば、丸山真男が近代的市民への変容を希望しながらついに果たせなかった「自然(じねん)観」を受け継いできた「大衆」に、「自律/自立せよ」と呼びかけているのである。
 
 そうしてついに二人はアンソニー・ギデンズに倣って「社会を変えられないにせよ、何が起こっているのか理解したうえで死んでいこう」と考えて、対談に臨んでいる。そのシニカルとも思えるようなスタンスに、私は好感をもつ。「何が起こっているか理解」する姿勢は、超越的な視線をもたなければみてとれない。それには自身に何ほどの力があるか限定する視点がなければ、優越的な目線の見下した「愚民」しか浮かんでこないからだ。シニカルに見える地点に立つことによって自身をも対象化するベースが余地を残す。というか、自分たちが拠って立つ足元をみつめることが担保される。だから彼らは、あくまでもプラグマティックに語ろうとする。そして切歯扼腕している。それが読む者には、我がことのように感じられる。
 
 宮台が「まえがき」に、次のような見出しをつけている。「なにもしない大塚英志と、何かをする宮台真司の差異が、さして意味を持たない理由」と。これは、たぶん自らを「選良」と思っているこの2人が、自らを「愚民」大衆の一人であると知覚していることを意味している。この、プラグマティックさが、語られるモノゴトの具体的なときとところを限定する。「愚民」という表現も、したがって、私たちの身体性に塗りこめられ、受け継がれてきている「ネイションシップ/お国柄」ともいうべき、愛おしさをたもっている。モノゴトを普遍的に語って「愚民」を貶めて「選良」である自分を保つスタンスとは違った、モンダイの提起の仕方と言える。
 
 他方、小谷野の方の書名は、皮肉を込めた「すばらしき愚民社会」である。むろん彼は自らを「愚民」とは思っていない。大衆(「庶民」と小谷野はいう)をそれとしては、敬して遠ざける位置においているようにも感じる。では、小谷野にとって「愚民」とはだれであるか。小賢しい、生半可な知識人とでもいおうか、文学も科学も歴史も、たいして(確かなところを)知りもしないのに、訳知り顔にコメントするプチ=インテリである。彼らは、TVに顔を出し、雑誌やメディアの「論壇」を占拠して、大衆に贅言をまき散らしている、という。
 
 小谷野自身は、自らを「学者」と位置づけている。そして、宮崎哲也、中沢新一、梅原猛、香山リカ、鷲田小彌太、野口悠紀雄、、斎藤孝、宮台真司、大塚英志などなどに、片っ端から当り散らしている。彼らは古典を知らず、歴史的な位置づけをせず、ウケのいい言説を吐いて、間違ったことやいい加減なことを、思いつきだけで言っているにすぎない、とでもいうように(それぞれの人に応じてだが)。
 
 読んでいて、いやになる。どうして小谷野は、これらの人たちの言説がウケル理由とか根拠(あるいはメディアという場)を探らないのだろうか。あるいは、その言動に違和感を持つ自分の根拠に深く入らないのであろうか。間違いであるにもかかわらず、それが(大衆に)受け入れられているのだとしたら、それは何を意味しているか、と踏み込めば面白いのに、と思う。他者との差異は、自己の輪郭を浮かび上がらせる機会でもある。何に自分は執着し、何を忌避し、何を嫌悪しているのか、それはなぜか、と。
 
 小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉をまた引きして、つづけて次のように言っている。
 
 《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》
 
 私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。
 
 もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。
 
 どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として掴みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。
 
 むろん「学者」である小谷野が、「自己確認」のためという大衆次元の目的で満足すべきでないことは、当然である。彼は「選良」であり、「大衆」を領導する責任を感じているであろうから、先端的なことに言及しなければならないと考えているに違いない。軽々に政治にかかわったり、政治的な発言をしたりしないように心しているのかもしれない。だが、それは、宮台ではないが、「どちらにしても、さしてその差異が(現実過程では)意味を持たない」としか思えない。小谷野自身の、確固として持っている(と考えている)「知性」が、どの場面に位置づき、それがどのように「庶民」を「国民」にすることに影響しているかということを、関係の絶対性においてとらえ続けることが必要なのではないか。小谷野敦という方を知らないから断定はしないが、たぶん、いまの社会の彼に対する遇し方が気に食わないのであろう。だが、そういうことを言ってしまうと、せっかくの批判が、「人格攻撃」になってしまう。そういう(議論の)矮小化を避けて通るためにも、発言の場面を限定し、論議のポイントを「選良の条件」とか何とかに絞って、やり取りしてもらいたいと思った。(2014-09-06)