mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

春の気配の奥日光(2)ひねもすのたりの春の湖

2019-02-22 15:04:50 | 日記
 
 翌日(2/20)、まだ暗い外の雪景色を見ながら朝風呂につかり、7時の朝食までに荷物を整理する。朝食のバイキングは、テーブルの半分くらいが空いている。冬のウィークデイとあって、お客が少ないのかもしれない。宿泊料金も、「誕生月割引」というのがあって、二人も該当者がいた。8時15分に宿を出発。Kさんと私は、スノーシューを車に積んで一足先に赤沼へ向かう。その途次、Kさんが指さす先の木の枝に、ノスリが止まっている。わりと大きな猛禽類。車を止めてシャッターを押す。
 
 晴天。青空が広がる。外気温は4℃。羽毛服はもちろん、雨着の上も脱いで寒くない。バスの到着を待ち、スノーシューをザックにつけて壺足で歩く。積もった雪が融け、それが凍ってつるつると滑る。ストックでバランスをとり、まだ雪が残っているところを踏んで歩く。戦場ヶ原の入口の端を過ぎ、すぐ向こうの小田代ヶ原へ向かう太鼓橋を右にみて、湯川沿いにシャクナゲ橋へ向かう。Kさんが太鼓橋の上にまで行ってカメラのシャッターを押している。
 
 シジュウカラが何羽かいる。アカゲラが赤いお腹をみせて向こうの木の枝を渡っている。まるで春が来たように、鳥たちがさえずり、飛び回る。湯川も心なしか、水温む感じでのったりと流れている。シャクナゲ橋を渡る車道の雪はすっかり解けて、ところどころに水溜りが出来ている。後の方でswdさんとKさんが何かをしゃべりながらついてくるが、それも鳥のさえずりのように風景に溶け込んで、足元に雪を置いた周りのカラマツ林に差し込む陽の織りなす、木々の陰を讃えているように響く。春だなあと、また、思う。後から車が来る。止まって、最後尾のKさんと何か話している。千手が浜に住む方のようだ。「気を付けてと言ってた」とKさん。
 
 高山峠への標識のあるところから、車道を離れてたっぷりの雪の原に踏み込む。スノーシューをつける。何日か前に歩いたであろうスノーシューの跡が、少しの雪と暖かい気温に溶けてかたちが崩れている。テンやウサギの足跡がところどころについて、獣の世界に踏み込んでいる感触が伝わる。クマもいるんじゃないか、いや、まだ冬眠中だろうと、話す声が聞こえる。シカ柵の入口は、ネットを垂らして、人が通るのに不都合がないようにしてある。去年だったか、高山峠からこちらへ来たときには、鉄製の扉が閉まっていて、通過するのに、扉の根元の雪を取り除いてやらねばならなかった。でもそのときは、手前に引く格好だったから雪をどけることが出来たが、逆の方から来ると除雪もできない。そう思ってじつは、5日前に下見にきたのだった。どなたがそうしてくれたかわからないが、ネットを垂らすだけにしてくれていて、ありがたいと思った。
 
 そこを通過してから、斜面を上るようになる。swdさんが先行する。彼女は大股でガシガシとすすむ。私は一番後ろに回って壺足のKさんと話しながらついていく。斜面が急になるところで、ルートをガイドする杭とロープが雪の上に顔を出している。
「その左側を歩いて……」
 と声をかける。もっと急な斜面をジグザグに登るところで、私の前を歩いていたkwmさんに
「ここを直登すると、ショートカットだよ」
 と、そそのかす。kwmさんは、吹きだまった雪を一足ごとに踏み固めながら身を持ち上げる。積もり、気温で溶け、夜中の低気温で凍ってザラメのようにガリガリと固まっている。スノーシューの後が階段のようになって、ついて歩く私は、らくちんだ。
 
 kwmさんが先頭になって、高山峠に着く。去年に比べて少ない雪のためか、倒木がそちこちの斜面を塞いで、通り抜けるには、右へ左へとルートを選ばなくてはならない。いつしか私が先頭になる。谷への踏み跡があるが、そちらへ踏み込むと跡が厄介。高山から下って来る太い稜線の背中の部分へと、太い倒木を避け、雪の斜面をトラバースして下る。Yさんが後ろについている。はじめてのスノーシューにしては、急傾斜を怖がる様子がない。この度胸があれば、着いてくるのに不都合はない。やがて急な傾斜に雪が着いていないところに来る。枯葉の堆積を踏んで、木につかまりながら下るルートへ踏み込む。うしろのKさんが
「こっちの方へ下ってもいいかな」
 と声をかける。みると下に、ガイドの杭とロープがみえ、踏み跡もついている。
「いいですね。気を付けて」
 と応じて、でも、すでにこちらは降りる用意をしている。Yさん、つづいてswdさん、kwmさんが降りてくる。私はそこにとどまり、Yさんに、
「先に下って、下の広いところで待っていて」
 と声をかけて、先行してもらう。スノーシューの向きを違えるだけで、次の脚のおきどころに困って、滑り落ちそうになる。それらを考えながら、後の二人も順調に続く。
 Kさんと彼の後を踏んできた二人を通して、私は後に続く。日陰は凍っている。落ち葉の下が凍っていると滑るのだが、スノーシューの刃がアイゼンのように働いて、ストップしてくれる。
 
 そこからは緩やかに下る広い谷の凸凹を、あちらこちらと散らばって下り、前方に見えるようになった中禅寺湖岸、熊窪を目指す。高山峠からおおむね標高差200mを降って来たことになる。ちょうど中天に上がった陽ざしを受けて、中禅寺湖の湖面がキラキラと輝く。これも春の光だと思う。
 
 熊窪でスノーシューをとってザックに縛り付ける。11時10分。千手が浜への湖岸のルートをたどる。ここは雪も少なく、夏道のように歩ける。一カ所、危ないところがあると現地のMさんが注意してくれたところは、幅50センチくらいの細いトラバース道。左側が湖へ落ちている。右側は山肌が切れ落ちてきた崖。ここに雪が積もると、ルートがすべて急斜面の雪に塞がれる。それが凍っていたりすると、スノーシューのストッパーも利かない。以前にも別のところで、そのようなルートを歩いたことを思い出したか、msさんが「恐かったわよ」と話している。今年は枯葉が積もった快適な散歩道だ。カケスが二羽、ぎゃあぎゃあと濁声を出して飛び交っている。
 
 20分余で千手が浜に着いた。青空に男体山がくっきりと姿を見せる。穏やかな中禅寺湖の湖面が、ひねもすのたりの春の海を思わせる。お昼にする。軽やかなおしゃべりの声が砂浜へ湖面へと風に吹かれるように、陽ざしを浴びて流れていく。風などないのに。この雰囲気が私は好きだ。
 
 30分余を過ごして歩きはじめる。小田代ヶ原まで1時間20分と、声をかける。おおよその時間を頭に入れてないと、この車道歩きは長すぎて身に応える。車道は乾いている。両側に雪は積もっていて、お昼の日差しを浴びて明るく光る。前方の道路をサルが5匹、横切っている。後から何匹かがつづく。渡り切って山に登る斜面で、こちらを見透かすように眺めている。
 
 45分歩いて一休みをとる。
「これで8℃なんて信じられない」
 と誰かが言う。今日の最高気温の予報が8℃であった。
「えっ、まだ半分?」
 と、この地をよく知るKさんまでが、飽きてきたような声を上げる。彼はこの地でマラソンを走ったこともある。この地のガイド本をつくるために、私と一緒に自転車で走ったこともある。写真を撮るだけのために、独りで早朝にカメラをもって入ったこともあったようだ。彼が来ているおかげで、皆さんが退屈しないで、話題を次々と移しておしゃべりが絶えない。私はそういう世間話が苦手だから、ありがたい。

 kwmさんが小鳥を見つける。ヒガラとコガラのようだ。おおっ、キバシリがいる。コンコンコンコンとキツツキのドラミングが、樹間に響き渡る。雪原に立つシラカバとカラマツの林に陽が差し込み、長い木陰をつくって、暖かい春の訪れを告げているようだ。
 
 小田代ヶ原に1時間25分で到着する。swdさんが「ねえねえ、山の同定をして」と私に声をかける。右から男体山、大真名子山、小真名子山、太郎山、山王帽子山、三つ岳と一望できる。雪原を臨むベンチのところに5,6人の人たちがいる。swdさんが入り込んで「貴婦人」を見てくるが、後の人たちは、シカ柵の外側で待っている。そこから小田代ヶ原の南端を歩く車道がひどかった。雪が解け水が溜まり、あるいは凍りついてつるつると滑る。道の脇の残った雪に足を乗せて、滑らないように注意して歩く。そして末端のところで赤沼への雪道に踏み込む。
 
 皆さんのペースは衰えない。踏み固めた道。皆さんは壺足のまゝでさかさかと歩く。あとからひとパーティやってきて、追い越していった。私たちより若いグループだ。ガイドらしい若者が一番若かったが。朝方、脇を通った太鼓橋につき、そこを渡って赤沼はもうすぐだ。こうして、2時20分頃、赤沼に着いた。行動時間、おおよそ5時間半。お昼を除くと、5時間で歩いている。いいペースだ。まだまだ年には負けない。
 
 ここでスノーシューを車に収納し、皆さんはバスで帰る。外気温は10℃であった。私とKさんは車で借りたスノーシューを返しに久次良町に立ち寄る。1年ぶりに会うMさんは事務所にいて、受け取ってくれたばかりか、代金を200円差し引いてくれた。あとで皆さんに返さなければならない。帰り道の車の中、Kさんが話しかけてくれるから眠くならない。
「今日の高山から下るルート、あれは良かったねえ。ああいう緊張するところが1カ所あると、今日のコースが単なるハイキングではなくて、印象に残りますよね」
 と、Kさんが評価をしてくれる。Yさんがステップアップした様なことを話していたと付け加える。長年アスリートのトップを育てる仕事をしてきた彼にそう言ってもらえるのは、うれしい。
 
 順調に運転して無事に帰還した。気温ばかりでなく、鳥の声も、陽ざしも、佇まいがすべて春の奥日光であった。

春の気配の奥日光(1)みぞれの山王峠道

2019-02-21 20:05:24 | 日記
 
 19日―20日と奥日光へ行ってきた。恒例となっている山の会の2月スノーシュー合宿。湯元の休暇村に宿をとり、二つのコースを歩く。事前の天気予報は、60%の降水確率。麓の日光市は雨でも上は雪になると踏んで、今年は雪が少ないから歓迎だとタカをくくっていた。
 ところが19日、Kさんと一緒にスノーシューを借りて光徳牧場に着き、ほかの皆さんがバスで到着するのを待つ間、曇り空が温い感じがする。手袋なしでも冷たくない。外気温は1℃。風はない。15日に別のところを歩いたときは雪が少ない感じがしたが、牧場から奥の方は、しっかりと積雪がある。  バスが到着する。車にもっていかない荷物を置き、スノーシューをそれぞれが身に着ける。参加者の一人、kwmさんが9日にこのルートを歩いて涸沼まで往復している。今日はその手前の山王峠まで。スノーシューが初めてというYさんもいる。swdさんの友人であるこの方は、表銀座を歩いたり、毎月のように高尾山をゲレンデに山歩きをつづけているという。アラカンと、年齢も一番若い。Kさんがスノーシューの付け方をいろいろ世話してくれている。
 
 10時20分頃、歩きはじめる。降り積もった雪が締まって、50センチほどの高さになっている。光徳牧場のクロスカントリースキー・コースもあって、そちこちへ行く踏み跡が、すっかり固められている。山王峠へ向かうと、左の方に砂防の堰堤が見えてくる。もう何年前であったか、湯元から切込湖、刈込湖を経て山王峠に上り下って来た時、大きくトラバースするルートを踏み外し、下の谷に降りてしまったことがあった。雪が多かったから、谷間を通過して、無事にこの堰堤に降りてきたことを思い出した。
「どこで間違ったんだろう」
 と、そのとき先頭を歩いていたKさんは、なぜ間違えたかを、いま思案している。
 Kさんのスノーシューが壊れてしまった。私の初代スノーシューが11年で壊れたのを聞いた彼は、自分のこれは12年もってるよと自慢したばかりであった。プラスティックの底板が割れてしまったのだ。細引きを使って固定しようとしたが、ムリなようだ。Kさんはそのあと、壺足で歩く。
 
 雨かとおもったら、みぞれが降ってくる。気温が高いのだ。雨着を着たりザックカバーをつける。斜面をジグザグに上がって、右側に崖のような急斜面を見ながらトラバースして登る。針葉樹林に入ると、前方になだらかに下る広い斜面が目に入る。
「ああ、ここで間違えて向こうへ下っていたんだ」
 と、Kさんが想い出す。彼が記憶しているというより、場所が彼の記憶をとどめていたような塩梅であった。
 
 皆さん順調に歩いている。そろそろ45分、峠までの半分と思う頃、前方に「シラカンバとダケカンバの混淆琳」の看板が見える。後ろの方にいたmsさんが、
「ちょっとお水を飲みたいのですが……」
 と、一本取ってくれという。
「あと一分で一休みします」
 と応えて、看板のところまで行く。今回初参加のYさんがシラカンバとダケカンバの違いを尋ねている。看板には、標高1500メートルまでのシラカンバが、ここ1600mにダケカンバとともに林をなしていると、記している。
 
 この地点から上りは傾斜が急になる。ルートは溝を辿るように深くなり、両側はたっぷりの雪。そのところどころにクロスカントリースキーのとった跡が二本、下へと延びている。いつもなら背の高いブッシュなのだが、雪があるとどこでも通れる。これがクロカンもそうだが、スノーシューでもそのように上れる。
 みぞれが雪になったのだろうか、気にならない。左からこのルートに踏み込んでくる、しっかりした踏み跡がある。これは、涸沼からの旧道を上って来た人たちが、山王峠の古い、朽ち果てた看板のところから、すぐに延びる稜線を下ってきて、ここで夏道に合流しているのだ。私たちは夏道の方へ向かう。ふたたびヒノキの針葉樹林に入る。暗い道筋の傾斜を上る。見上げると樹林の合間にスカイラインが見える。あそこが山王峠と、声をかけて励まそうとするが、そんな配慮は無用とばかり皆さん元気がいい。
 
 山王峠前の表示板から左へ行けば旧道の涸沼ルートに向かう。皆さんにどうするか尋ねる。みぞれが少しきつくなっている。峠に出ると風も強まって、夏のベンチがすっかり雪に埋まっている広い場所では、とてもお昼をとる気にならない。
 涸沼にはいかないことにして、もう少し先へ進んで木陰の下に座ったり屈んだりして、お昼にする。15分くらいでお昼を切り上げ、早々に下山にかかることにする。

 夏の舗装車道を下ろうかと思っていたが、上って来たルートのほうが面白そうと誰かが言い、そちらを下ることにする。固まった踏み跡じゃなくて、バージンスノーを踏んで行ってください、と声をかける。新しいスノーシューを手に入れたばかりのkwmさんは、皆さんと離れて樹林の間を抜けて下る。swdさんもそのあとを追う。雪に踏み跡をつけて歩くのが、たまらなく楽しいという風情だ。ほかの皆さんが踏み跡をぐるりと回り込むところを、雪面を直進してショートカットする。
 
 いつかルートを踏み外した地点で、夏道へすすむ人たちと違って、kwmさんとswdさんが下が崖のようになっている急斜面に踏み込む。そこをトラバースしてショートカットしようとしているのか。滑り落ちると面倒だなと思い、私もそちらについてゆく。急な斜面に雪が落ちてしまって、ところどころ枯葉が吹きだまって露出している。雪の上でないとスノーシューのストッパーが利かないのではないか。こちらの雪のある方へいったん方向を変えて下り、のちにヘアピンして先へ進むのがいいんじゃないかと声をかけ、先頭を行くkwmさんと別のルートをすすむ。その先をさらに雪のあるところを辿ると、谷底に降りてしまう。そうするとまた、少しばかり登るようになるのが面倒だ。そう考えて、少しばかり枯葉の堆積を踏んで、崩れそうな急斜面をトラバースする。swdさんには「木につかまってね」と声をかける。そのうち木がなくなり、雪のあいだから顔を出しているササを束にしてつかんで、斜面の廻り込む。うまくいった。振り向くと、swdさんが慎重についてきている。降り立って「ああ、怖かった」とため息をつくが、やったねという響きに溢れている。kwmさんも続いて降り立つ。
 
 ほかの方々はとっくに下っていて、光徳の入口の所で待っていてくれた。いつしかみぞれは上がっている。1時45分。こうして、一日目のスノーシューは終わった。Kさんと私はスノーシューを乗せて車で宿へ向かい、ほかの方々はバスに乗って湯元へ向かう。しばらくロビーで待ってからチェックインをし、部屋へ通してもらう。
 風呂に入り、風呂上がりのビールを飲み、kwmさんがもってきてくれたシャンパンで、私の喜寿祝いと称して乾杯し、そう言えば、昨年はoktさんとKさんの喜寿祝をしたなあと思い出す。来年はkwrさんが喜寿だ。そういえば男たちは皆さん、後期高齢者になっている。この年で元気に歩けるのはお祝いするに値するよと、oktさんはいう。
 皆さん、飲み過ぎるほど飲まなくなり、疲れも加わって私は、8時ころには夢の中にいたのではありました。(つづく)

私の平成時代(3)向き合う社会階層の違い

2019-02-19 05:47:03 | 日記
 
 1989年に昭和が終わり、平成がはじまった。1月6日が、わが息子の20歳の誕生日であったのでよく覚えている。それと、もうひとつ。私は高校3年生の担任であった。卒業証書の準備は、12月からはじまる。卒業予定者の記名はしたが「昭和」がそのまま続くかどうかがわからないから、そこの部分を空白にして、のちに書き込めるようにおいた。それが「平成」になり、予測通りに書き込みができるようになったと、書道の教師が喜んでいたのが印象に残っている。
 
 全日制の高校であった。私にとっては、21年間定時制の教師を務めたのちに、はじめて2年次から担任した全日制の学年であったから、この二年間は新鮮な驚きの連続であった。まず、屈託のない生徒たちに驚かされた。理解も早い。というか、私のふつうに使うことばが簡単に通じる。ある生徒には「先生は(表現が)くどい」と叱られたことがある。定時制の生徒たちに意を伝えようと噛み砕いていう癖が身について、それが煩わしかったのであろう。
 
 もう一つ、教師たちが順接的に生徒に接しているのが驚きであった。ほとんど落差がない。ことばが同じ地平にいて通じるということが、じつは、象徴しているのだが、教師と生徒の文化的な落差がほとんどない。それなりに教師は、生徒から敬意を受け、教師は自分の知的道徳的力量で生徒の尊敬を得ていると思っている。私は長い間の定時制生活を通じて、制度的に保障された立ち位置によって(言葉を変えて言うと、教壇が高いことによって)教師面できていると思ってきたのであった。
 
 一般的に言うが、生徒が教師を信用するポイントが違う。定時制の生徒は、教師が建前と本音を使い分けていると見透かしている。そして生徒も(教師に対するに)、建前と本音を使い分けて心裡をさらけ出さない「賢い」生徒と、ダブルスタンダードで平然と通す教師に対して反発する生徒とに、大雑把に言って半々に分かれる。あるいは、教師の振る舞いが威圧的であることに「本能的に」反撥する。知的な分野ではかなわないとみているから逆らわないが、道徳的なことや世の中的なことでは教師の常識の底が浅いのを見てとって、バカにする。つまり「かんけい」的に警戒しながら感触を察知し、敵なのか味方(とみてもいいの)かを見極め、断片において教師と向き合う。そういう人間関係の厳しさにさらされて15年~19年、あるいは20年以上を過ごしてきた生徒たちが発する言葉は、原点的であった。
 「なんで(オレたち)勉強してんの?」
 「数学なんてやって、役に立つの?」
 と問う。それに対して教師が、世の中的なタテマエを発するとせせら笑われる。
 
 こうも言えようか。定時制高校の生徒は、まず自分が全幅の信頼を教師から受けていると思っていない。小中高と児童・生徒体験を積み重ねてきているから、どこがどうだったというのではないが、どちらかというと教師の視界の隅の方に置かれていると感じ続けてきた。それが、当の生徒が教師を見る目にも反映される。教師の視線に、自分への敬意とか尊重の気配をまるで感じないといおうか。あるいは蔑(さげす)む気配を敏感に感じ取る。つまり教師の棲む世界と自分のいる「せかい」とのつながりがあると実感できないのかもしれない。
 
 ところが私が赴任した全日制高校の生徒たちは、知的であることに対する敬意を、基本的にはもっている。親もそうだという身近なモデルがあるからか、そうした人々がもっている見識とか判断に、日常的に接しているからなのか、自分と順接的な「せかい」を感じているように思える。わが身の将来をイメージするとき、教師の語る「進路」イメージを、わりと率直に受け入れることが出来る。だから「なんで勉強ってするんだろう?」という自問は、哲学的な色合いを帯びた問いとして発せられているように見える。「数学が役に立つか」ということも、どのように人の思索や世界のとらえ方に意味を持つのかと考えているように思えて刺激的であった。
 
 こうした学校種の違いによる生徒の現れ方の違いは、いま振り返ってみると、大きな時代的変化のように思える。定時制高校の生徒たちは昭和時代を象徴するようであり、全日制高校の生徒たちは平成時代を表象しているようであった。ここでいう昭和時代というのは、刻苦勉励、自分を励まし世の中の変化に合わせて自分を励まし、一歩ずつ暮らしをよくするために頑張るという構図だ。
 
 私が教師仕事を始めた1960年代後半の定時制高校の生徒たちは、「金の卵」と言われた、中学卒業してすぐに、故郷を離れて働き始め、定時制に通って学歴を高めていこうとする人々であった。高度経済成長を経たのちの1970年代の半ばになると、生徒の勤めている現場でもクオリティ・コントロールとかゼロ・ディフェクトと呼ばれた品質管理が声高に叫ばれ、いま思うと、ほんの十年前の中国の製造業界のようであった。「安かろう、悪かろう」を乗り越えねばならない壁に、製造業界が突き当たっていたのである。
 
  ところが平成時代は、バブルの頂点に達した時期にはじまった。高度消費社会の実現したのちの日本社会の豊かさを体現した若者たちであった。私からすると、物資的豊かさにおいて、人類史的菜頂点に達したのではないかと思っていた。人と競うよりは、人それぞれが固有の人格を持って尊重されるという地平から生まれ落ちてきていた。この育った環境の違いがもたらす「人となり」への反映は、多分に、時代の変化というよりも向き合っている社会階層の違いによるものであった(と今になっては思う)。それは同時に、私の向き合う社会階層の変化でもあったから、それが私の「平成時代」を彩ることになったのであった。(つづく)

雲が晴れ、ゆめのなかへ~

2019-02-18 10:00:30 | 日記
 
 一昨々日(2/14)は「ささらほうさら」の月例会。咽頭にがんが見つかり、放射線治療と抗がん剤の投与をしているnkさんは、まだ復帰していない。まだ現役の大学教師であるosmさんは、仕事が入って顔を出せない。今日の講師は、教育長まで務めたことのある元大学教師のkwrさん。お題は《『いじめ防止等のための基本的な方針』を読む》というもの。文科省の作成した「資料」を読み解いて、「いじめ」に対する教育関係者の思索を解読しようとする。

 いま、あまり深く入り込みたくないから、結論的な、kwrさんの指摘だけをとりだすと、子どもを端から一人前に自律した市民と仮定して立論している人間観が施策に顕れている。「いじめを根絶する」とか「いじめを防止する」という施策が、結果的には子どもたちに「タテマエ」を押し付けているだけに過ぎないことに、気づかない。それどころか、近ごろは、トランプ現象ではないが、本音も建前も区別がつかなくなってきている。つまり、本気で「正義」や「真理」があると思い込んで他人に対するものがいれば、自己の感情をぶつけることが、対する相手にどのように作用するかに感知しない。だから、差別もいじめも、自分の思い通りに他人に対する率直な態度と思っている。簡略に言えば、「かんけい」を感知・関知するセンスがなくなっているのだ。

 夕食を兼ねて一杯やって帰宅。翌日のことを考えて呑み過ぎないようにしたが、翌朝の目覚めは、すこしアルコールの分解不良状態に感じた。
 
 一昨日(2/15)、奥日光のスノーシューに昔の同僚を案内したことは、昨日記した。早めに帰り着いて、夕食時に、気分よく焼酎のお湯割りを楽しんだ。この日の焼酎は「赤魔王」というさほど高くない芋焼酎。雑味が少なく、甘みが広がり、おいしかった。ところがやはり疲れが出ているのか、「山行記録」の筆運びがのたりのたり。翌日の食事も終わり、寝る前にやっと書き上げるという始末。

 ひとつことに集中できない。こういうときに、3月初めまでに書き上げる「5月通常総会の議案書」の原稿を手掛ける。大きな「課題」はすでにクリアしているから、どう体裁を整えるのか、思案している。文学性は受け入れられない。どうするのか。
 
 今日の午前中は、修繕専門委員会の定例会。「2019年度の事業計画」を立案するやりとりの中で、一人の委員が、「余計なことは書かなくていいよ」と修繕専門委員長にサジェストしているのを聞いて、雲が晴れた。どう書き換えるかというよりも、どう、そぎ落として単純化するかを考えればいいんだ、と。

 全部で36ページもあった「修繕積立金改正案」の「説明会資料」も、6ページに簡略化した。16ページにまとめて文章化し、来月配布する予定の「理事・役員選出方法に関する提案と説明」も、わずか1ページに収めた。つまり、「提案」の骨子を記述して、後はやりとりで説明すればいいという、官僚的手法を採用することにしたわけだ。

 これは、事後のわが手を縛る分をできるだけ緩くして、フリーハンドを確保することにつながる。ま、事後のわが手といっても、次年度の理事に受け継がれるから、後の方々の「よしなに」運んでもらえるような手当ともいえる。これって、庶民の哲学的な知恵なのだろうか。理事会権力の独善なのだろうか。
 
 こうして、「議案書」には目途をつけた。小説を読むが、頭に入らない。横になっていると、うとうととしてしまう。そうか、今ごろ「三日遅れの疲れを乗せて」が、やってきたか。どれ、疲れのまゝに、ゆらりゆら~りと、ゆめのなかへ~、ゆめのなかへ~。

雪の少ない奥日光

2019-02-16 21:33:36 | 日記
 
 今年3月に定年を迎える昔の同僚・Uさんを、昨日(2/15)奥日光に案内した。朝7時前に駅で待ち合わせて、私の車で東北道に乗って向かう。16年ぶり、車中のおしゃべりが愉しみであった。
 彼はシティボーイのアウトドア派。フルマラソンに挑戦したり、鉄人レースに出場して、川口市の彩湖で泳いだり、サイクリングツアーに出かけたりしていた。横浜ベイスターズのファンで試合を見に行ったり、水泳部の監督を務めたりと、外へ向かう旺盛な意欲を、いろいろな方面に発散していた。私は彼にクロスカントリースキーのレースに誘われて出場したことがあるし、東京湾のアジ釣りに連れて行ったもらったこともある。彼に父親が、私の卒業した大学新聞会の10年ほど上の先輩であったことも、のちに分かって(父子関係はそれほど良さそうでなかったが)、仕事の面ではたいへんシンパシーを感じながらかかわってきた。
 定年退職すると年賀にあった。2月になれば、少し暇になるのではないかと思い、ちょうど私が来週の奥日光スノーシューの下見に行くついでに、よろしければ同行しませんかとお誘いした。
「スノーシュー行きたいです」
 と、一気に昔の交際をほうふつとさせる返事が返ってきた。
 駅のタクシープールにやって来た彼を見て、一瞬、あれ? あんなに背が高かったかなと思った。まさかね。40歳代の半ばから背が伸びるなんて聞いたことがないから、シティボーイの服装なのだろうか。風貌が年を取ったことと関係あるだろうか。だが言葉を交わすと、一挙に隔たっていた距離が縮まる。 
 奥日光までの2時間があっという間に過ぎるようであった。9時前に赤沼に到着。彼は運動用のタイツに履き替え、雨着を着る。私のスパッツをつけてもらい、雪が靴に入らないようにする。スノーシューを出すが、じつは、雪が少ない。これから歩くルートも、高山に差し掛かるまでは人が多く歩いているから、道が圧雪されていて、壺足で何の障りもない。彼は自転車レース用のほんとに小さい
リュックを用意しているだけだから、スノーシューを袈裟掛けに肩に懸けるように細引きを出して結んでもらう。私のそれは、ザックに縛り付ける。
 たしかにスノーシューが要らないくらい、雪はしっかり締まっています。ほんの15分ほどでシャクナゲ橋を渡り、冬場は通行止めになっているバス道路に出る。道路にほとんど雪はない。Uさんは快調に歩く。
「早すぎますか?」と聞く。
「いやいや、いい調子です。汗をかかないように歩いてください」と応じる。
 斜面になったら、歩き方もまた、変わるだろう。30分で、車道から高山へ向かう分岐に出る。ここからはしっかりと雪がついている。ところが、先行者がいるのか、踏み跡がある。二人連れだろうか? 壺足の踏み跡に足を置くようにして、高山峠へ向かう。ところがすぐに、踏み跡は途絶える。引き返している。
 ここでスノーシューをつける。踏み跡の上に雪が降り積もって新雪のように見える。Uさんに先頭を譲る。雪を踏み崩しながらシラカバの林を抜ける。
「いや、気持ちいいですね。空気がいい」
「それに、どこでも歩けますね。地図がないと道がわからないなあ」
 とUさんはご満悦だ。じつは車の中で地図を渡した。彼はちらりと見ただけで、僕は地理に弱いからと言って、仕舞ってしまった。全部私にお任せだ。
 私は、この先にあるシカ柵を心配していた。去年逆コースを歩いたとき、シカ柵のドアを開けるのに、雪かきをしなければならなかった。降り積もり凍った雪が鉄製のドアの枠組みを押さえて動かなくしていたのだ。それでも、向こうからやってくる分には、手前に雪をどかせばよかったが、こちらから向こうへ行きをどかすわけにはいかない。誰か通って除雪してくれていたらいいのだが、さてどうなるだろうと思いつつ、Uさんの後ろを歩いた。
 シカ柵に差し掛かると、何と、鉄製のドアがなく、網のカーテンが吊り下げられていて、容易に向こうへ抜けることが出来た。ドアは最初から開いて、通行できるようにしてくれていたのだ。ありがたい。
 Uさんは雪の上の動物の足跡をみて、
「これ、なんですか」
 と尋ねる。
「これはテン、4つの足跡を結ぶ線が平行四辺形になるでしょ」
「おや、これは肉球の後がついてる。犬かな」
 とUさん。
 こちらはウサギですねと言いながら、すすむ。
 斜面を登るようになる。少し息が切れている。ゆっくりでいいですよと声を掛けながら、今度は私が先行する。去年はすっかり雪に覆われていたルートガイドのロープが、雪の上に出ている。
 高山峠に着く。倒木が雪の上に散乱している。下から登って来たのであろうか、壺足の踏み跡が一筋ついている。だが高山へ登った様子はない。ここまで来て引き返すというのも変だ。壺足だから、古い踏み跡が残ったのだろうか。しかしそれを辿ると、谷間に入り込んでしまうようだ。もう少し、稜線の尾根を辿るように、去年は下から上った記憶がある。少し左の方へ踏み込む。Uさんのスノーシューが外れたらしく、付け直している。彼を待って、降る。急な斜面だ。先が見えないから、盛り上がった雪の先は切れ落ちているように思える。だが、一番高い所に立ってみると、倒木を回り込んで、ヘアピンカーブになっているのが分かる。ついて来ていたUさんがまた、スノーシューを直している。バランスも危うくなるから、木につかまっていいだよと声をかける。
 去年、あまりの急斜面に深い雪が溜まっていたものだから、下から来た一人が上がれず、雪が崩れては滑り落ちていたところに来た。去年は用意の短いロープを出して上から引っ張り上げた。そこを過ぎると、ジグザグに歩いて緩やかに下れる。雪がたっぷりあると、滑り落ちるように降りるのが面白いと期待していたのに、残念だ。Uさんは懸命についてくる。
 やっとなだらかな所に来た。「中禅寺湖0.8km→」の標識がある。またUさんに先頭を歩いてもらう。右へ左へ凸凹の尾根上をうまく辿るようにして、どんどん中禅寺湖の方へ下っていく。しばらく黙っていたUさんの声が聞こえる。やはり下りのほうが上りよりは楽なのだ。向こうに湖面が見える。時刻は11時20分頃。熊窪に着いた。出発してから2時間。
 ここでお昼にする。波打ち際の倒木に腰かけてお昼を食べる。私はサンドイッチ、彼はおにぎり。ココアを入れて、身体を温める。20分ほどで済ませ、スノーシューを脱いで千手が浜に向かう。ここから千手が浜のルート上に、ひとつ難しいところがあると、奥日光のガイドをしている方の情報があった。それがどんなものか見ておきたいというのが、下見に来た目的でもある。大量の雪が降った去年の湖岸の道は、雪崩れてきた雪が凍り、湖まで落ちていている。そこを通過するのに、スノーシューの横滑りを防止するフックを利かせないと、落ちてしまいそうになって、ひやひやしたものだ。でも今年の小雪で危ないというと凍っているのかと考えたから、私は軽アイゼンを持ってきた。
 ところが案に相違して、千手が浜まで少しも危ないところはなく、さかさかと25分ほどで歩いてしまった。穏やかな湖面の向こうに男体山がくっきりと見える。ここからのバス道路が長かった。外山沢沿いをたどり、1時間かけて小田代ヶ原の入口にある峠の下に来る。予報は曇りだったのに、陽ざしがある。一枚脱ぐ。Uさんはさほど疲れをみせず、
「でも、飽きちゃいますね、こういう道って」
 とぼやきながら、相変わらず早い足取り。疲れを自分に見せると、歩くのが嫌になってしまうと思っているのかもしれない。
 小田代ヶ原が明るい。貴婦人がすっくと立っている。3人連れのクロスカントリーのスキー板をもった人たちが、先を歩いている。小田代ヶ原から赤沼への道に踏み込むと、たっぷりの雪があり、彼らはそこでスキー板を履く。挨拶をして、私たちが先行する。相変わらず壺足で歩く。それほどに圧雪されている。少しばかり凸凹とした傾斜を登るがほとんど平坦なルートは、休みなく走るレースに似ている。Uさんはクロカンのレースにでも出ているように、わき目もふらず先へ急ぐ。イヤ急ぐわけではないが、早く片付けてしまいたいのかもしれない、と思う。
 こうして赤沼に着いた。お昼を入れて、行動時間は5時間。歩いた距離は、14.5km。短いのか長いのかわからないが、6時間を予定していたのに、ずいぶんと早かった。車に乗り、また、おしゃべりをしながら帰途についた。駅でUさんと別れたのは、4時半前であった。