mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

愚民社会か選良の条件か(再掲)

2019-02-06 20:30:34 | 日記
 
 4年半前に記したこの欄の記事が目に止まった。いまも思いが変わらないなあと、読み返して思った。再掲します。
 何かの本を読んでいて、宮台真司×大塚英志『愚民社会』(太田出版、2011年)があるのを知った。図書館に予約しようと検索したら、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、2007年)もあったので、2冊とも予約して借りた。
 
 宮台たちの方は、最初の対談に「すべての動員に抗して――立ち止まって自分の頭で考えるための『災害下の思考』」と見出しと袖をつけている。「動員」というのは、世の中の大勢に流されて動くことを指している(あとの対談2本は、2003年のものと004年のもの)。彼らはいずれも、日本の社会を変えたいと願っていて、変えられないことに苛立ってきた。変えられないのは、日本の大衆の根っこに底流している「気質」であると見て取る。それを宮台は、〈任せて文句を垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ、〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へ、〈褒美をもらって行政に従う社会〉から〈善いことをすると儲かる社会〉にシフトすることを願っている。この、〈 〉の中のシフトする主体が「愚民」である。つまり、角度を変えていえば、丸山真男が近代的市民への変容を希望しながらついに果たせなかった「自然(じねん)観」を受け継いできた「大衆」に、「自律/自立せよ」と呼びかけているのである。
 
 そうしてついに二人はアンソニー・ギデンズに倣って「社会を変えられないにせよ、何が起こっているのか理解したうえで死んでいこう」と考えて、対談に臨んでいる。そのシニカルとも思えるようなスタンスに、私は好感をもつ。「何が起こっているか理解」する姿勢は、超越的な視線をもたなければみてとれない。それには自身に何ほどの力があるか限定する視点がなければ、優越的な目線の見下した「愚民」しか浮かんでこないからだ。シニカルに見える地点に立つことによって自身をも対象化するベースが余地を残す。というか、自分たちが拠って立つ足元をみつめることが担保される。だから彼らは、あくまでもプラグマティックに語ろうとする。そして切歯扼腕している。それが読む者には、我がことのように感じられる。
 
 宮台が「まえがき」に、次のような見出しをつけている。「なにもしない大塚英志と、何かをする宮台真司の差異が、さして意味を持たない理由」と。これは、たぶん自らを「選良」と思っているこの2人が、自らを「愚民」大衆の一人であると知覚していることを意味している。この、プラグマティックさが、語られるモノゴトの具体的なときとところを限定する。「愚民」という表現も、したがって、私たちの身体性に塗りこめられ、受け継がれてきている「ネイションシップ/お国柄」ともいうべき、愛おしさをたもっている。モノゴトを普遍的に語って「愚民」を貶めて「選良」である自分を保つスタンスとは違った、モンダイの提起の仕方と言える。
 
 他方、小谷野の方の書名は、皮肉を込めた「すばらしき愚民社会」である。むろん彼は自らを「愚民」とは思っていない。大衆(「庶民」と小谷野はいう)をそれとしては、敬して遠ざける位置においているようにも感じる。では、小谷野にとって「愚民」とはだれであるか。小賢しい、生半可な知識人とでもいおうか、文学も科学も歴史も、たいして(確かなところを)知りもしないのに、訳知り顔にコメントするプチ=インテリである。彼らは、TVに顔を出し、雑誌やメディアの「論壇」を占拠して、大衆に贅言をまき散らしている、という。
 
 小谷野自身は、自らを「学者」と位置づけている。そして、宮崎哲也、中沢新一、梅原猛、香山リカ、鷲田小彌太、野口悠紀雄、、斎藤孝、宮台真司、大塚英志などなどに、片っ端から当り散らしている。彼らは古典を知らず、歴史的な位置づけをせず、ウケのいい言説を吐いて、間違ったことやいい加減なことを、思いつきだけで言っているにすぎない、とでもいうように(それぞれの人に応じてだが)。
 
 読んでいて、いやになる。どうして小谷野は、これらの人たちの言説がウケル理由とか根拠(あるいはメディアという場)を探らないのだろうか。あるいは、その言動に違和感を持つ自分の根拠に深く入らないのであろうか。間違いであるにもかかわらず、それが(大衆に)受け入れられているのだとしたら、それは何を意味しているか、と踏み込めば面白いのに、と思う。他者との差異は、自己の輪郭を浮かび上がらせる機会でもある。何に自分は執着し、何を忌避し、何を嫌悪しているのか、それはなぜか、と。
 
 小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉をまた引きして、つづけて次のように言っている。
 
 《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》
 
 私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。
 
 もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。
 
 どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として掴みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。
 
 むろん「学者」である小谷野が、「自己確認」のためという大衆次元の目的で満足すべきでないことは、当然である。彼は「選良」であり、「大衆」を領導する責任を感じているであろうから、先端的なことに言及しなければならないと考えているに違いない。軽々に政治にかかわったり、政治的な発言をしたりしないように心しているのかもしれない。だが、それは、宮台ではないが、「どちらにしても、さしてその差異が(現実過程では)意味を持たない」としか思えない。小谷野自身の、確固として持っている(と考えている)「知性」が、どの場面に位置づき、それがどのように「庶民」を「国民」にすることに影響しているかということを、関係の絶対性においてとらえ続けることが必要なのではないか。小谷野敦という方を知らないから断定はしないが、たぶん、いまの社会の彼に対する遇し方が気に食わないのであろう。だが、そういうことを言ってしまうと、せっかくの批判が、「人格攻撃」になってしまう。そういう(議論の)矮小化を避けて通るためにも、発言の場面を限定し、論議のポイントを「選良の条件」とか何とかに絞って、やり取りしてもらいたいと思った。(2014-09-06)