mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

モンゴルの旅(2) 「ない」幸せを満喫する不羈の精神

2016-06-24 08:17:57 | 日記
 
 今朝(6/24)の朝日新聞「折々のことば」に稲垣えみ子のことば《「ある」幸せがあるなら「ない」幸せがあったっていいじゃない。》が揚げられていた。そう、簡にして要を得たというモンゴルのゲルの感触は、まさに「ない」幸せであった。
 
 モンゴルはチベット仏教と聞いていた。だが、ネパールやチベットで目にした風にはためくタルチョや仏塔はそれほど目につかなかった。鳥を観るために入り込んだ標高2500mほどの山のところどころに、コンクリートで固めたり石を積み上げてそこに布を巻き付けてある「塔」はあった。それを現地のガイドは「シャーマン教」と呼んでいた。(たぶん)これがチベット仏教のモンゴル形なのであろう。というのも、(シベリア出兵との関係で)ソ連の赤軍によって1921年に社会主義化したモンゴルだから、(たぶん)「宗教は大衆の麻薬」という扱いを受け、学校教育からは確実に排除されたにちがいない。また、遊牧民の「ノマドな暮らし」や共同体のつくり方は、定住的なチベットやネパールのそれとは違ったであろうから、原始宗教的な「アニミズム」や「シャーマン」が祖型として残ったと推測できる。まして)今31歳のガイドに、それへの関心が薄くても、何の不思議もない。
 
 でも、そのせいなのだろうか。チベットの重い湿った(社会の)空気に比べて、モンゴルは軽快で明るい。チベットの人たちのいつも背中に重荷を背負わされて監視されていることを呪っているようにぶつぶつと何かを唱えている姿と違って、モンゴルの人たちは独立不羈の気配を感じさせる。宗教の呪縛に囚われているからなのか、漢民族という外部の圧倒的な支配圏力に抑圧されているからなのかわからないが、モンゴルがロシアや中国からそうした抑圧を受けていないようにみえるせいかもしれない。あるいは、かつて「世界の半分を統一」したモンゴル帝国の自負が、未だに彼らの背筋をまっすぐに保っているのか。むろんそうした自負をお札のチンギス・ハーンの肖像や、ウランバートル国際空港の壁面に掲げられた「歴代ハーン」の肖像画が証している。
 
 ガイドの話を少し紹介しておこう。彼女は日本語が達者だ。高校時代を留学先の日本で過ごしたという。静岡県が受け入れたというが、たぶん優秀な学生だったのであろう。もう十年も観光ガイドをして過ごしている。日本人鳥ガイドの現地ガイドをしていても、おっと思うような機転の利いた采配をしたことがあった。南ゴビの最終日、午後1時半にウランバートルに向かうことになっていた航空便の出発が遅くなることが(午前中に)分かった。なんと、午後10時発になるという。鳥ガイドは「では、どこかに(鳥を観に)行こう」というのに応えて、彼女は南部の山岳地帯へ向かって数時間を過ごし、その空港への帰途のゲル・レストランに予約をして夕食を確保し、8時に空港へ到着するというスケジュール変更をテキパキと片づけてしまった。それを「たいしたものだ」と思うのは、その山岳地帯を鳥ガイドは知らなかったこともあるが、そこで目にしたオオノスリの巣と3羽の雛、給餌の様子、ワシミミズクの巣と雛2羽、イワシャコという珍鳥5羽など、たっぷりと楽しませてくれたからである。彼女は双眼鏡ももっていない。日本人の鳥ガイドについて歩いているだけで、鳥を見分け、野鳥の本を手に入れて、識別を確認し、いつか双眼鏡も手に入れて鳥ガイドができるようになりたいと意欲的だったからだ。ちなみに気付いたことだが、モンゴルの人たちは驚くほど目がいい。つまり私たちが双眼鏡で見ている対象を裸眼で見極めることができる。車の運転手もそうだ。ただただ広い草原を運転しながら彼が指さす方向を双眼鏡でのぞくと、草原にポツンと立っているオオノスリがいたことが何度もあった。
 
 モンゴルの女の子は、18歳から26歳くらいまでに結婚して家庭を持つといい、いま31歳で独身の現地ガイドは、〈あの子一体、どうするんだろうと〉周囲の注目の的だと笑っている。モンゴルでは「見合い結婚というのはなくて全部恋愛結婚です」と彼女は言うが、いま仕事が面白くて仕方がないという風情。同行した女性客たちは「お目当ての人でもいるの?」「今度来るときは子ども連れだったりしてね……」と容赦ないセクハラ発言をしていたが、「そうかもしれません。またお越しください」と軽く受け流す彼女の笑顔は、そういうことへのこだわりを乗り越えているのかもしれないと思わせた。つまり、日本の非婚・少子化と同じで、近代化が急速に進んでいるモンゴルでも、優秀な女子は(二者択一を迫られたら)結婚・出産よりも仕事を選び取るのかもしれない。
 
 もっとも彼女の幼い時の話を聞くと、たいへん牧歌的で面白い。彼女が小物入れから出して見せてくれた一枚の白黒写真には、馬に乗った幼い幼児が写っていた。2歳のころの馬に乗った彼女の写真。とても誇りに思っているという。聞くと子供のころ、ヤギの群れを連れ、馬に乗って草原へ出かけて一日過ごし、帰ってくることをしていたそうだ。ところが、何か足をのせる高い石や台でもなければ馬に乗れないにもかかわらず、一日を過ごしていた。馬の背なかで眠っていたのだそうだ。ヤギや馬は賢いから、道は全部知っている。時刻も彼らが見計らって帰宅していたという。
 
 モンゴルで使われているキリル文字は、ロシア語に用いられる文字を借用したもの。だが、1991年に「社会主義国から民主主義国」になったときに、小学校教育では昔のモンゴル文字を使うように変更した。縦書きで左から右へかきすすむもの。ちょうど日本の筆で書いた草書のようにくにゃくにゃと流麗な文字だ。当時小学生になったばかりであったガイドの彼女は、モンゴル文字とキリル文字の両方を習ったのだが、その両方が読めるのは祖父祖母世代まで、父母の世代はモンゴル文字が読めない。世代間の齟齬と社会的な混乱が起こり、結局、5,6年後にすべてキリル文字にすることに改めなおしたのだそうだ。そういえば日本でも戦後、ローマ字表記にしようという動きがあったが、もしそうなっていたら、ちょうど小学校に入る年齢に近かった私などは、彼女と同じ体験をしたかもしれないと思った。実際に今回困ったのは、キリル文字とアルファベットが入り混じっていること。ロシアに運ぶ途中でアルファベットの入った箱をひっくり返したためにむちゃくちゃになったといわれるキリル文字は、似て非なるもの。ついアルファベット読みにして、モンゴル語で読み上げる彼女の音が拾えず、???となったことが何回かあった。
 
 モンゴルの人口300万人の半分、150万人がウランバートルに住んでいるという。日本の4倍という広大な国土の残り部分に、150万人の遊牧民が住む格好だ。ウランバートルは盆地。四辺を山に取り囲まれた盆地だそうだ。高層住宅が立ち並び、山のふもとから山頂へ向かって、住宅が密集している。車が多く大気がひどく汚染されるので、月曜日から金曜日まで、車両ナンバー末尾数字の1,6、2,7と二数字づつ走行禁止を設けて入域車両規制をしている。メーカーやスーパーや小規模工場や商店の看板も、日本の都市のそれとあまり変わらないように見える。つまり、全速力でグローバル化が始まっているのだ。そのせいか、ウランバートルを車で一時間ほど外に出ると、広々とした草原が広がり、国立公園と呼ばれる森と草原と岩山の自然が展開していた。
 
 そういう意味で言えば、ガイドの彼女のセンスの中には、近代化と遊牧的な暮らしとがきっちりと分けられて併存しているのかもしれない。モンゴルの人たちは、近代化はウランバートルだけにしておいて、あとは昔ながらの暮らしをしていこうというのかもしれない。そういう「棲み分け」と考えたら、少子化日本の今後のイメージも、無理なく描けるように思った。
 
 根底に流れる「国民性」は「ない」幸せを満喫する不羈の精神。もっと根底的に言えば、幸せとか不幸せとか価値的に考えない。存在それ自体を大切にする感性が受け継がれることを坦々と担っているという見切りではないか。(つづく)

何とか無事に歩き切った富士見山

2016-06-23 10:56:23 | 日記
 
 インターネットの天気予報に気をよくして、いそいそと出かけた富士見山であったが、そうは問屋が卸してくれませんでした。昨日、22日の話。晴とまでは願わず、曇りがつづけば上出来。「富士山を見ようとまでは思いません」と「実施連絡」を参加者に送り、皆さん甲府駅に集合した。
 
 登山口に降り立ったのは10時少し過ぎ。雨具をつけた方がいいかしら、という声に天を見上げる。たしかに、霧のように小雨が降りかかる。装備を整えていると、小型のパトカーが通りかかる。先ほど下の方ですれ違った。「気を付けて」とお巡りさんが声をかける。地元交番の見回りか、一人しか乗っていない。だがこれで、登山届を出したようなものだと思う。
 
 歩き始める。「大峰蛇之倉七尾山修験設立道場やすらぎの宮」の堂平登山口。大峰山の洞川を本寺とする修験のお寺さん。仏教も神社も融け合って一緒くたになっているが、洞川となると、修験道の開祖・役行者(役小角)が従えた前鬼・後鬼の後鬼に当たる。女人禁制の大峰山に登ったときに洞川温泉に泊まり、後鬼の話も耳にした。そのときの記録を見ると、非合理なものを受け容れる感性に「信頼感」の源があるのではないかと書きつけてある。きっと何か、感じることがあったのであろう。
 
 いきなりの急登。杉の森林帯。落ち葉が滑りやすい。汗ばむ。すぐに「合羽を脱いでいいですか」と誰かが聞く。そんなこと人に訊くことじゃないでしょと思うが、はいはいと私も雨具を脱いで、大雑把にたたんでザックカバーの脇に滑り込ませる。見ていると、丁寧にたたんで雨具の袋におさめザックに入れている人もいる。急登がつづく。標高50mごとに表示板が置かれているから、歩くペースが目に見える。「850m/1640」と最高点との差もわかる。地理院地図に、今日の登山ルートは記載されていない。だから表示板の標高を尾根との関係で読み解いて、だいたいの自分の居る位置を推定する。今日は標高差940mを登る。富士見山の支尾根の南側にとりつき、尾根に乗ってから北側を回り込むように主稜線上に乗る。そこまでに900mの標高差。つまり、今日の登りの大半は、ひたすらな急斜面の登降というわけだ。雨は降ったりやんだり、雨具を着たり脱いだりした。賑やかな鳥の声が聞こえる。キビタキだろうか。コマドリもいるように思える。ピーッ、ピーッと口笛を吹くような声がする。ピュイッとならシカだと思うが、木の高いところからのように聞こえる。アオゲラだろうか。霧の中の岩陰に赤い花が浮かぶ。ヤマシャクヤクかなと誰かが言う。
 
 標高1400mを過ぎたところで11時45分。相変わらず霧の中。お昼にする。頭上を覆うヒノキやカエデの葉が雨を抑えてくれて、気にならない。だが動かないでいると少し冷える。それでも30分はいただろうか、再び登りを開始する。ポポポポポ、ポポポポポとツツドリの鳴く声が霧の谷間に響く。振り返るとすぐ足元に、黙々と歩く後続の人の頭が見える。13時00分、標高1600mの表示板のある主稜線に乗る。「←富士見山 御殿山・十谷→」「堂平主下山道↓」とある。お昼をふくめて約2時間40分。上々のペースだ。西側はカラマツの樹林、東側はヒノキの樹林。それらの中にカエデが多く混ざる。秋にはうつくしい山肌をみせるだろう。ジュウイチ、ジュウイチと霧の奥からさえずりが聞こえる。いいなあ、こういうのって。
 
 ここからOdさんが先頭で富士見山に向かう。みなさん急に元気が恢復したようだ。ほどなく平須下山路の分岐、さらに稜線を進むと「富士見山展望台1639.0m」の「奥の院」に到着。小さな赤い鳥居もあり、その脇に「←30分富士見山山頂」とある。ここまででもいいかと私は思ったが、「雷雨になる」とMsさんがスマホをみなが「急いだほうがいい」と言っている。ではでは行きましょう、と声をかける。OdさんとMrさんを先に立てて富士見山の山頂へ向かう。ところがそこからいきなりの急下降。「下山家」のMrさんが悲鳴を上げる。「私、ここで待ってます」というが、彼女の後ろは後続の人が詰めている。ほかの人をすれ違って通すほどの道幅がない。Kwさんに「降りて待てば」と言われて仕方なく、しゃがみ込みそうな格好で下る。同じように声をあげていたOdさんはさっさと下に降りて、見上げている。下ってしまえば怖さを忘れて先へすすむ。二度ほど上り下りを繰り返し、「富士見山1639.5m」の山頂に立つ。広い樹林におおわれている。古びた山頂を示す標識の下に、白いパネルに山名と標高を記している。その脇に三角点の石柱がある。どなたかが「山梨百名山なんですね、ここは」と話している。そうだ雷雨になるって言ってたっけ、と声を出し、下山を開始することにした。14時。先頭にKzさんが立つ。
 
 再び展望台に戻り、止まることなく「平須下山道」の分岐に踏み込む。14時20分。ここから標高差900mほどの急斜面を下る。道は山肌をジグザグに刻んで良く踏まれていて歩き易い。Kzさんは後ろを気にしながら調子よく降る。OdさんとMrさんがくっついていく。少し間隔を置いてOnさんとKwさんが余裕をみせながらついていく。そこからまた少し離れてMsさんが追う。Khさんと私が末尾を歩く。ここにも堂平登山道と同じように、標高50mごとに表示板が置いてある。なんと100mを6分で下っている。これだと1時間かからないで林道に出てしまうな、とKhさんと話す。2カ所、道が崩れて、ロープを張っているところがある。ところどころに目を瞠るような大木が枝を横に張り出して道をふさいでいる。下をくぐって振り返り、その大きさに驚く。Kzさんはところどころで全員がそろうのを待って、再び歩き出す。「そんなに急がなくてもいいよ」と声をかける。「いや、急いでいるわけじゃなくて、後ろから追い立てられてる」と笑う。「下山家」の2人は「必死で着いて行っているだけよ」と笑い返す。Msさんは「これでは鳥海山はだめだわ、私」と自分の身体と相談している。
 
 上水道水源地前の階段を下って林道に降りたのは15時42分、標高差937mを1時間25分で下った。コースタイムは2時間だから、ずいぶん早いペースだ。全行程、5時間30分。お昼タイムを除くと5時間で走破した。私の眼にした「山行記録」によると7時間20分であったから、どこかでコースを間違えたのではないかとおもったが、これほどしっかり「標示」があれば、まちがえようもない。ひょっとすると私たちは、スーパー老人なのだろうか(笑)。「皆さん健脚が多いね」と、あとでKzさんが話して、意外な女性陣の健闘に脱帽している。
 
 出発点には簡単に着いた。汗を拭き、雨具を仕舞う。靴を履き替えた方もいる。Onさんは、2台の車のフロアにもってきた新聞紙を敷いている。泥靴で汚れるのを「悪いから」という。レンタカー屋さんにとってはありがたい配慮だ。帰宅ラッシュの時間と重なってはいたが、順調に帰路をたどり甲府駅に着いたのは、17時10分。車を返却する。Khさんは、彼がやっているアスリート養成の総会があるといって、すぐに特急に乗って帰る。ほかの人たちは、駅近の「ほうとう屋」へ立ち寄って、まずビールで乾杯。かぼちゃのほうとうやキノコのほうとうをいただいて、甲府発の特急新宿行きに乗って帰路についたのでした。

モンゴルの旅(1) 簡にして要を得たモンゴルのもてなし

2016-06-22 05:14:37 | 日記
 
 モンゴルへ行ってきた。6日間といっても、1日目と6日目はほとんど空港と飛行機の中だから、正味は4日間。そのうち3日間は南ゴビ、1日だけが首都ウランバートル。もちろん観光の旅ではなく、探鳥が目的であるが、私にとってはモンゴルの地誌的な興味が先行する。
 
 往きが成田14時半発、還りがウランバートル発午前8時頃だから、モンゴルから成田へ来て折り返しモンゴルへ帰るという1日1便のモンゴル航空の往還便。それも季節によるらしい。165人乗りの中型機はほぼ満席。確かに、極寒のモンゴルへはそうたくさん訪れる人はいないかもしれない。
 
 成田を定刻少し前に出発、5時間半のフライトでウランバートルに着陸。閑散とした空港には複葉機が2機駐機していたりして、ちょっとしたタイムトラベルをした感じ。標高が1350mといいうせいもあろうか、カラッとしている。寒くはない。バスで宿に直行、「夕食」を食べ終わって床に就いたのは23時を過ぎていた。4時間ほどの睡眠で集合して、南ゴビへ飛ぶ早朝便に乗るために、ふたたび空港へ向かう。朝食は弁当。サンドイッチにトマト、キュウリがついていたか。野菜が採れないと聞いていたわりには、このあとも野菜サラダなどが豊富であった。もっとも現地ガイドの話では、彼らはほとんど肉ばかり食して、野菜を食べないそうだ。実際ゴビに入ってから「レストラン」で夕食をとったとき、ドライバーもガイドも、肉に添えられていたご飯をすっかり残していた。
 
 そうそう、大事なことに触れておかねばならない。日本との時差は1時間。だが今はサマータイム制が実施されているので、事実上、時差がない。今回は、時計の針を直さなくてもよかった。ウランバートルは、緯度で言えば日本の稚内より北に当たるが、経度では30度も西にある。陽の当たり方は2時間も違うはず。それなのになぜ時差がないのかはわからない。遊牧生活と関係があるのかもしれない。朝は6時半を過ぎてやっと朝日が昇る。夜は10時過ぎまで野外も明るい。そういうわけで、ちょっと調子がくるってしまう。
 
 南ゴビの中心都市、ダランザドガドは標高1500m、ウランバートルから直線距離で550㎞南にある。ゴビ砂漠南端の県の中心都市だ。双発のプロペラ機で飛ぶ。56人乗り。これなら何かあっても不時着できる、とジェット機より安心感を持つのは、私の歳のせいか。ウランバートル到着のときにもそう思ったが、ゴビは沙漠だと思っていたのに、なだらかな丘陵帯を緑が覆っている。あちらこちらに水たまりもある。川も流れているようだ。先週も一組、鳥の案内をして、こちらに滞在していた日本人の鳥ガイドに聞くと、彼が来てから6日間は、雨ばかりだったという。年間降水量が300㎜ていどというモンゴルの人たちは、雨を歓迎する。まさに恵みの雨。そういうわけで、雨男の彼は、恵み男と歓迎されていたという。何年かこちらに足を運んでいる彼の話では、ウランバートルもゴビも、茶色の草原だそうだ。今回のように緑に覆われているのは珍しい、と。異常気象がモンゴルには恵みをもたらしているのか。
 
 朝9時には南ゴビに降り立ち、迎えに来ていた4台の車に分乗して、まずは宿に向かう。草原の中をひたすら走る。道路があるわけではなく、車の多く通ったところの草がはげ、走路であることが分かる。目をあげるとどこまでもつづく草原の向こうに水平線が広がっている。私の乗った3号車は、ふと前の車と離れて草原へ踏み出し、左へ大きく回り込むほかの車へショートカットで近づいたりする。草原の草は10センチあるかないかの背の高さ。ポツリポツリと根を生やし、視界の限りに広がって、緑が覆っているように見える。つまり、草のその部分を上から観ると、ほとんど覆われているというよりは、荒れた砂礫の土地に懸命にしがみついている草々と見えるが、視線を低く置いて水平線を見ると、一面の緑にみえる。ところどころに何かがいると分かるころには、馬であったり牛であったり、山羊であったりする。柵囲いがあるわけでもなく、放牧しているというわけでもない。夕方になると帰ってくるのだそうだ。
 
 やがて草原の一角に白く丸い円柱形のゲルが立ち並んでいるのが現れる。円柱形のゲルが三つ繋がって二部屋のゲルになる。真ん中の一つはその真ん中で二つに仕切って、両側のゲルからそれぞれ出入り出来るトイレと洗面所とシャワールーム。昨年つくられたモダンなゲルだという。それまでは外のトイレ、外のシャワールームへ足を運ばねばならなかったそうだ。これが今回の私たちの宿。出迎えの青年たちが荷を運んでくれる。私たちは、2人ひとゲルで割り当てられて、鍵を渡され、ここに二泊することになる。
 
 ゲルの構造を記しておこう。大雑把に言えば、半径3.5mほどの丸い円柱が高さ2mほど起ちあがり、その囲いの上棟から中央部にかけて絞り込まれて円錐状に高くなり、中央部の高さは4mほどもある。正確に言うと、高さ2mの八角形の角柱が、さらにその上部2mを八角形の角錐形に絞り込んでいる。太い八本の柱のあいだを7本の細い柱が立ち並んで円形の、棟を支え、そこから中央部の、直径2mの丸い棟に向けて、やはり合計64本の柱が組まれて、揺るがない。その上を天幕が覆っているから丸く見える。中央上部は、明かり取りにもなるように、天幕を開け閉めできる。入口は背をかがめなくても入れるくらいの高さがある。ドアを閉めても、外が明るいうちは、中央部から光が差し込む。これで38㎡もあるのだから、日本風に言うと20畳敷き以上ある。2人では十分広い。ゆったりとしている。余計な装飾がない。簡にして要を得ていると感じた。
 
 ほかのキャンプも見たり立ち寄ったりしたが、これほどの高さをもっていたり、トイレやシャワールームが併設されているゲルは、ほとんど見なかった。もちろんキャンプだけではない。ゲルはごく一般的な家屋として使われていると見えた。むろん、住居以外の建物が木造であったりコンクリートづくりであったりするのは、どこにでも見かける。だが、敷地の中にゲルを設えている家も、ずいぶん見かけた。手軽に作れて、移動もできるゲルを、シンプルライフの便宜に用いるのが都市生活でも流行っているのかもしれない。むろん南ゴビだけではない。自分の敷地を柵で囲ったウランバートルの郊外でも、両方の家屋が併存している。
 
 ゲルの食堂での食事のもてなしも、行き渡っていた。過剰過ぎず、不足もない。肉ばかりではなかった。こちらが(野菜好きな)日本人だとみているからであろうが、生野菜や煮た野菜がずいぶんと添えられていた。お蔭で体調を崩すこともなく、モンゴルの旅を過ごすことが出来た。全般に、ゲルの接遇も、簡にして要を得たものであった。同道した現役の(何やらの)事業主は「人手が多いって余裕が、こういうもてなしをうむんだよなあ」と褒めていた。日本に留学して高校生活を過ごしたという現地ガイドは「まだ途上国ですから」と簡素であることを詫びていたが、すでに日本が捨て去ったものが、ちょうど蒙古斑のように、ここに残されている。それが「先進国」になることによって忘れ去られるとしたら、モンゴルにとって不幸ではないか。そんなことを考えさせられた。(つづく)

やはりくたびれて……

2016-06-21 10:13:28 | 日記
 
 昨日モンゴルから帰ってきた。成田に帰着したのが午後の2時前。携帯電話をオンにすると、「留守メール」に「そろそろ出発か」と兄からのがあった。「いま成田に帰り着いた。元気です」と返信。電車に乗っていて、そうだ今日が入籍50年目だと気づいた。「今夜はごちそうにしよう」と話す。
 
 家に帰りついたのが4時。すぐに私はパソコンを開いて、明後日の身延・富士見山の天気を確認する。出発前は「曇りのち雨、80%の降水確率」だったから、「50%以上の降水確率なら中止、20日に決定して連絡します」としていた。「曇り、降水確率は10~0%」。前後が雨だが、この日だけ登山歓迎だ。早速、甲府駅のレンタカーにアクセスして車2台の手配を済ませ、参加者に「実施します」とメールをする。何人かから「疲れていませんか」と返信が来る。なんの、なんの。
 
 荷を解き、洗濯物を取り出す。風呂に湯を張り、私は汗を流す。その間に、注文の寿司が届けられ、夕食になる。機中でも一杯やったが、ワインを開け、半世紀間ご苦労さんでしたとカミサンと乾杯する。やれやれ、この調子なら明日が山でも行けそうだと思いながら、床に就いた。
 
 そうして今朝、4時ちょっと過ぎに目が覚める。起きだしてコーヒーを淹れ、「モンゴルの旅」を綴りはじめたが、すぐに飽きが来てタイプの手が止まる。新聞を読む。またタイプに向かうが、数行書いてやめてしまう。そのうち朝食になり、TVをみていると、うとうとと眠くなる。おやおや。
 
  モンゴルとの時差は、ない。経度は30度ほど違うから、2時間くらいあってもおかしくないのに、どういうわけか時計の針を直さない。だから時差ボケというのではない(と思う)。ただ、スケジュールは、普段とずいぶん違った。朝は(移動の関係で)早い。夜は10時過ぎてもまだ明るいから、遅い。いうならば、鳥好きな人たちが集まっているから、行動はきつくても、鳥さえ見ていれば一向に気にしない、というプランニング。(たぶん)この行動スケジュールのせいで、疲れがたまっているのであろう。その上、非日常の空間に身を置いて、身体が興奮しているのかもしれない。眠るもならず、起きて気持ちを集中させるもならず。
 
 くたびれているときは、実務的な作業に身を入れる。まず明日の荷づくりをする。5分ほどで済んでしまう。明日の「通信」を作成し、地図を取り出してルートを描きこみ、コピーを作成する。これとても、20分とかからない。いやはや。
 
 今日は一日、お休みにした方がよさそうだ。

またしばらく、このブログはお休み

2016-06-15 06:35:37 | 日記
 
 今日から一週間ほど出かける。昨日はいつもと違う準備の一日であったかというと、そうでもない。成田空港集合が午後とあって、「緊張感がない」とカミサン。県立美術館へ行って、昔の同僚の県展入選作品をみたり本を読んだりして、のんびりと過ごしている。私は、図書館に足を運び、本を返却し予約本を借り受けて、ときどき思いついて荷物を用意するという体たらく。涼しくて過ごしやすかった。
 
 3月に八重山諸島に行ったせいで、モンゴルへの旅も遠いと思わなくなった。(私のようなものが)国内も海外も似たような感覚で足を運べるというのは、世界の人の行き来が自在になって、国境がさほど気にならなくなった(関係の)国々が多くなったということ。むろん、長年行きたいと思っていたが機会を失して、いまは「危険地域」になってしまったところもある。まあ、行けないからといって歯ぎしりするほど悔しいと思うわけではないから、さほどの存念を持っていたわけではない。
 
 荷物は55リットルのザックひとつ。洗面用具と着替えだけ。機内持ち込みのナップサックをふくめても4kgていど。日帰りの山歩きより軽いかもしれない。図書館でモンゴル関係の本を探してみたが、いちばん新しいのが「地球の歩き方」2011年版。地誌的なことを記した本は、1992年の椎名真の旅行記とあって、つまり、彼の国との行き来はそれほどポピュラーでないらしい。1991年にソビエトが崩壊してのちに「人民共和国」がモンゴル国に代わったというから、それから25年、ずいぶん変化が大きいと思う。日本の大相撲を支えている横綱はモンゴル出身ばかりだ。
 
 私が子どものころは、モンゴルはなぜか親しい国であった。蒙古斑という青痣が親しみを覚えさせたのであろうか。日本語がモンゴル語族に属するということもあったろうか、外国語大学のモンゴル語科というのも、結構あったように思う。少しものごころつき始めたころに、井上靖の「蒼き狼」も読んだ覚えがある。今西錦司たちの「大興安嶺踏査記」も読んだ。「さまよえる湖・ロプノール」の物語は、なんで読んだのだったろうか。西域もモンゴルもノモンハンも一緒くたになって私の身体のどこかに埋め込まれている。
 
 一つ驚かされたことがある。楊海英『草原と馬とモンゴル人』(NHKブックス、2001年)で、著者の生まれ育ったモンゴルの土地が「黄河の南、万里の長城の北」とあったことだ。えっ? どうして? と思った。黄河が西から流れて来て大きく北へ東へ南へと屈曲して、方形の地形を区画していることは知っていたつもりであった。北京の西南である。でもそこが、チンギス・ハーンの亡くなったモンゴルの聖地であるとは、思いもよらなかった。なにしろ、北京より南の地に万里の長城があるなんて、と不思議な思いに囚われたくらいだ。そう言われて地図を取り出して眺めてみると、「内モンゴル自治区」は、北京の西に迫っている。そうか、モンゴルも世界大戦とその後の情勢に大きく左右されて翻弄されてきた地なのだと、あらためて思い直した。
 
 さて、行ってきます。鳥を観るのが第一目的の旅ですが、私にとっては初めての地誌的な興味が先行する旅になります。そういうわけで、またしばらく、このブログはお休みします。ではでは。