mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「文学なんかやってる人はいるのかね」

2016-06-14 17:48:12 | 日記
 
 昨日の記述の一部訂正。軽井沢が外国人宣教師の避暑地となったというのは、明治10年前後ではなく、明治20年前後です。ごめんなさい。ちゃんとチェックしなくちゃなりませんね。
 
 もう一つ、付け加えておきたい。軽井沢での芥川龍之介の「越し人」への恋、堀辰雄の「菜穂子」への想い――それを超えようとした福永武彦の「草の花」と記したが、「草の花」でも浅間山の噴火によって妨げられ、ついに一線を越えることはなかった。それを福永はこう記している。
 
《……山が鳴り、木の葉が散り、僕等の身体が次第に落ち葉の中に埋められて行くそのときでも、僕を死の如き忘却にまで導くことはなかった。もう一歩を踏み出せば、時は永遠にとどまるかもしれない。しかしその死が、僕に与える筈の悦びとは何だろうか……》
 
《……もし僕らがお互いに愛し合い、理解し合い、何の煩いもなく何の不安もなく、ねむの葉陰に新床を持つことが出来るならば、、このように苦しむこともなく、もっと自然に、もっと素直に、僕等が愛し合えるならば。――ねむの葉は、夕べを待って、一日の、平和な、忘却の眠りを眠るだろう。》
 
 芥川が「越し人」への思慕を断ち切るときに謳った抒情詩の詩編、
 
《風に舞ひたるすげ笠の/何かは道に落ちざらん/我が名はいかで惜しむべき/惜しむは君が名のみとよ。》
 
 に比すれば、たしかに福永は一歩をすすめている。そこには「自然に、もっと素直に」という感性の、伝統的な「忍ぶ」でもなく、ハイカラな「愛」を受け売りするでもなく、己が身が備えてきた自ずからなる然るべき佇まいに迫る地平を見据えているように思える。そこを「文学的」と感じるのは、戦中生まれ戦後育ちの私などの世代だからこそかもしれない。私たちの「身」それ自体が通過してきた感懐がこもるからだ。
 
 でも、それは昔の話。今や時代は、とっくにその結界さえも消え失せて、「もっと自然に、もっと素直に、僕らが愛し合」っても、「僕は僕の孤独を消すことはできな」い時代に立ち会っている。ただ「かんけい」だけが無用に傷つけあってさまようばかりになっていると思われる。「若い人で文学なんかやってる人はいるのかね」という問いは、案外深いところを衝いているのかもしれない。