mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第20回 aAg Seminar 報告(1)  生演奏でお楽しみを

2016-06-04 11:04:20 | 日記
 
 一週間前の先月の28日、aAg Seminar の第20回が行われた。今回の講師はfmnくん、お題は「音楽しろうと雑楽」。ところが、この「報告」が書けなかった。いや、今でもかけないのだが、こう長く放っておくわけにはいかない。せめて書けないわけでもお話ししておこうと、いま筆を執って、いやいや筆ではなく、キーボードをタイプしている。
 
 「報告」を書くとき、まず、Seminar全体のイメージを私の心裡で描く。その全体がぼんやりと浮かんだところから、輪郭を描き出す。それはちょうどうまくほぐれた糸口から引き出していくと、順々に鮮明に形になり、ほぐしていく私自身が〈そうか、そうだったのか〉と新たに発見した様な得心をえながら、書き進む。これがたのしい。自己満足ではないかと他人から言われるかもしれないが、これがなければ、義務的な「仕事」になる。もうそういうことからは引退しているから、わがままを通させてもらってきた。
 
 fmnくんの「音楽しろうと雑楽」は面白かった。だが、全体のイメージからするとなんであったのか、摑めない。彼が還暦を過ぎたころからヴァイオリンを習い始めたことは、以前にも紹介したことがある。その最初期のころから、同窓会などの機会を見つけては、彼に弾いてもらった。お世辞にもうまいとは言えなかった。それから十数年、たしかに腕は上がっている。だがTVをつければ、世界的な名手の演奏を耳にすることはできる。CDをまわせば、古今東西の名演奏をつまみ食いすることもできる。だから私たちの耳は肥えている。【私たちの耳は不思議なもので、自分にできないことでもウマイ/マズイを聞き分けることができる。だから、いろんなことに対して「批評」が成り立つ。スポーツでも絵画でも文学でも政治にでも、言うだけならいくらでもケチも付けられるし、ランクも付けられる。安倍さんみたいに(反対者に対して)「じゃあ対案を出しなさいよ」などということを言われる心配がないから、余計気楽に喋々している。そういうことを断ったうえでいうのだが】何が彼をそれほどに惹きつけてやまないのか、そのイメージをつかもうと考えるともなく思ってきた。それがいまだに、わからない(と思ってきた)。
 
 そうか彼は、音と遊んでいるんだと、やっと一週間たってぼんやりと胸中に思い浮かんだ。彼が今回Seminarのお題に「音楽しろうと雑楽」と名づけたのも、単なる衒いではなかった。
 
 「音と遊ぶ」ってどういうことか。ヴァイオリンを弾く。たぶん先生のお手本通りの「いい音を出そう」と思っているであろう。ピアノと違ってどのキーを叩けばどの音が出るというわけではないから、弦(ガット)の張り方、微妙な押さえる指の位置、弓の角度や弓の毛(つる)の当て方が、全部演奏者の耳と目と体によってキメなければならない。耳だけなら絶対音感などと言われるような、ある種の「基準」があるのであろう。因みに、それすらも、それを聞き分けることができるのはいいこととはかぎらないと、私の友人の話を聞いたことがある。彼の双子の息子は高校生のとき合唱部に属していたのだが、そのうちの一人は絶対音感が鋭く、そのために周りのわずかな音のずれが「間違い」として聞こえ、合唱という全体の波に乗ることができず、ずうっと違和感を抱いていたという。だが、楽器の演奏というのは、楽譜を見てその音を(頭で)イメージして出す思考作業ではないだろうから、体が覚えなければならない。うまくいった音のイメージは、(美人の若い)先生の頷く笑顔であったりするのかもしれない。うまくなればなるほど先生の笑顔がますます明るく美しくなってくることが、彼の励みと持続の秘訣であったかもしれない。
 
 「音と遊ぶ」と考えると、腑に落ちることがいくつもある。
 
 ひとつ。昭和大学のSeminar室に私はこの日、開会時刻の45分前に着いた。会場を準備してくれたstさんが(外せない仕事をこなして)遅れてくるとなったので、一足先に準備をしておこうと思ったからだ。ところがすでにfmnくんは来ていて、パワーポイントの映り具合を調整している。パワーポイントの制作も自分でやってきた。週三日のいまも続いている仕事のために、それを使用しているという。投写器も持参している。小さな音響装置も用意している。どうして? ピアノ伴奏を先生に弾いてもらって録音、用意してきたのだそうだ。譜面台も整えてから、ヴァイオリンを取り出す。弦の調整がはじまる。これだけで、もう十分入れ込んでいることが分かる。
 
 ふたつ。彼は最近、ヴァイオリンの弦をこの「音楽しろうと雑楽」のために張り替えたそうだ。文字通り「羊の腸のガット」にして、それが通常は数万円するものをアマゾンの通販でいくらで手に入れたと得意そうだ。その響きは、たしかにちょっと重々しい。ふくらみもある。ヴァイオリンの弦は、演奏する会場の温度や湿度で、時間が経つとゆるんだりきつくなったりしてしまう。音が変わるのだそうだ。だから微妙な調整をいつも心掛けなくちゃならないんですよと、ナットを一つひとつ締めたり緩めたりして弦をはじいては耳を澄ます。
 
 みっつ。予定の参加者が集まり、Seminarがはじまった。彼はA4版のプリントを用意している。「和音の不協和・・ピタゴラスの矛盾、平均律の悩み」と題している。その冒頭、
 
「相対性理論のアインシュタインに尋ねました。人は死んだらどうなりますか? 彼は何と答えたでしょうか?」
 
 と質問を置いて、そこから入る。
 
「……?」
「モーツアルトが聴けなくなる、と答えました」(笑)
 
 と、まず笑いを取る。アインシュタインがヴァイオリンをこよなく愛していたことに触れて、理系 → ピタゴラスへと話を展開する。つまり私たち「しろうと」に音楽への入口案内からはじめたわけである。西洋音楽の7音階が「ピタゴラス音階」として始まったことから説き起こし、不慣れな私たちにちょっとばかり奥行きの深さを示す。ヴァイオリンの4弦が、第一弦から四弦まで、ミ、ラ、レ、ソと配置されていて、その音の周波数がピタゴラス音階の7音階のド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、に位置していると、ピアノの鍵盤を投写器でスクリーンに写す。
 
 さらにその7音階の周波数を表示する。ド……261.6Hz、レ……293.7Hz、ミpt329.6Hz、ファ……49.2Hz、ソ……392Hz、ラ……440Hz、シ……493.9Hzと。すると、1オクターブ上のドは522.3Hzと、ちょっと1/100桁を切り上げた分だけズレが生じる。
 
「これ、ピタゴラスコンマっていうんです。」
「でね、もうひとつ純正律というのがあって、これが和音です。ヴァイオリンではフレットがなくて(どこを押さえてもいいから)この音が出せるのね。でも転調したりすると和音が狂うから、19世紀になってショパンが使い始めて広まったのが、平均律。ピタゴラス音階と純正律との折衷案、妥協の産物です。」
「その矛盾を、聞いてください。」
 
 とスマホだろうかと、もう一つ音源として用意した小さな機器を操作すると、一瞬二つの機器から発された周波数の1/100ほど違う「ド」の音がビビビと響いて、ぷつんと消えた。
 
「あれっ、電池がなくなっちゃった」
「この矛盾が聞き分けられる人には聞き分けられるんですね」
 
 と残念そうに言いながら、機器の片づけをしているこのときの彼の姿は、ヴァイオリンの学習者というよりは、音マニアに変身している。後でちょろっと耳にした気がするのだが、かれは音響機器のスピーカーにも凝っていて、真空管のものすごいのを使ってきたと話していたように思う。
 
「その矛盾って、絶対音感で分かるの?」
「いや、わからないくらいの違いですね。でもこうやって(同時に)聞くとわかるんです。」
 
 と苦笑いをしている。(つづく)