mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

久々に旧知の人と出会って挨拶を交わした

2016-06-01 04:12:08 | 日記
 
 日高敏隆『動物は何を見ているか』(青土社、2013年)を読む。日高敏隆2010年に79歳で亡くなっているから、没後の出版になる。日高敏隆に注目したのはもう30年以上も前になるか、アリの集団を観察して、ハタラキアリのうち働いているものと働いていないものを区別して、どの集団にも何%かの働いていないのがいることをつきとめたり、餌を採ってきたアリが仲間にその場所を教え、仲間は(フェロモンか何かのかおりに着いた)その航跡をたどるのだが、必ずと言っていいほどそれを逸脱して近回りルートを発見するヤツがいるという研究をしていて、面白いと思った。たぶんバブル時代の勢いだったかバブルがはじけて後の、働く者の尻を叩くために何でも「効率」を叫び始めたころだったか、一つの人間社会批判になっていると思って、呼んだことを覚えている。それ以降、「動物行動学」にも関心を持ち、京大霊長類研究所のゴリラの観察研究などに目を通したりしていた。その彼が大学を退官し、滋賀県立大学の学長をしていたなどは知らなかった。
 
 この本は、彼が求められて書いたエッセイや動物学から観た教育論や、たぶん学長としてあいさつしたことなどがまとめられたもの。研究した「論文」でないから、ずいぶん砕けた自伝的な回顧も含まれている。一読してそう思ったのだが、いい時代に生きたと思う。ちょうど私のひと廻り上、昭和5年の生まれになる。小学校で教師らからいじめられ、親にもあまり大事にされず、虫を友にして過ごす少年時代から、昆虫学を目指すことへの記述は、まさに彼自身の「nature history」である。「nature history」を彼は自然誌と訳している。動物の観察も、その(動物の)特性とする資質がなぜ形成されたかを観察することによって、その動物自身の来歴を重ねてとらえることができる、というのである。誌と史の意味合いを重ねて、historyとしてとらえるのは、言い得て妙、卓抜であり、面白い。な~るほど彼の「研究」が、動物だけでなく、博物学的に広がり、人間についても言い及んでいるのは、そうした視点の結晶したものであろう。
 
 だが最後まで読んでもう一つ驚いた。「解説」を精神科医の岸田秀が書いている。岸田秀も、もう40年以上も前になろうか、私が注目して読んできた著作家である。「ものぐさ精神分析」は、ひと言でいえば、「人間は本能が壊れた動物」という視点から、人間観も社会観も貫き通す「分析」をしてみせて、秀逸であった。人間という不自然な存在、人為的な文化や制度という社会関係を構築しないでは生きることができず、しかもそれを自らに強制する幻想によって世界を構成していると、「唯幻論」を説いた。この2人が、フランス政府の招聘を受けてストラスブール大学で同じ時期に研究活動をし、隣部屋を隣り合わせて暮らして、始終語り合っていたと知ったのは、驚きであった。そうなのか。そういうことが背景にあって、この2人の著作が私の目を惹いたのか。久々に旧知の人と出会って挨拶を交わしたように感じた。
 
 岸田も同意できないと記すように、日高のこの本における人間論や社会論、教育論の言説には、ちょっと単純に動物行動学を敷衍しすぎるきらいがある。だが、彼自身の生育歴中の「モンダイ」に目を通すと、もうそういう細かいこだわりはどっちでもよくなる。日高もまた(たぶん)岸田の所論を耳にすれば、目を細めて、そうだよなあとうなずいていたのではないかと思う。それくらい、余計な部分が行間にくっついていて、表現されたこと以上の余白の持ち味が感じられて、読後の気持ちが良い。遅ればせながら、日高敏隆の冥福を祈りたい。合掌。