mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

モンゴルの旅(2) 「ない」幸せを満喫する不羈の精神

2016-06-24 08:17:57 | 日記
 
 今朝(6/24)の朝日新聞「折々のことば」に稲垣えみ子のことば《「ある」幸せがあるなら「ない」幸せがあったっていいじゃない。》が揚げられていた。そう、簡にして要を得たというモンゴルのゲルの感触は、まさに「ない」幸せであった。
 
 モンゴルはチベット仏教と聞いていた。だが、ネパールやチベットで目にした風にはためくタルチョや仏塔はそれほど目につかなかった。鳥を観るために入り込んだ標高2500mほどの山のところどころに、コンクリートで固めたり石を積み上げてそこに布を巻き付けてある「塔」はあった。それを現地のガイドは「シャーマン教」と呼んでいた。(たぶん)これがチベット仏教のモンゴル形なのであろう。というのも、(シベリア出兵との関係で)ソ連の赤軍によって1921年に社会主義化したモンゴルだから、(たぶん)「宗教は大衆の麻薬」という扱いを受け、学校教育からは確実に排除されたにちがいない。また、遊牧民の「ノマドな暮らし」や共同体のつくり方は、定住的なチベットやネパールのそれとは違ったであろうから、原始宗教的な「アニミズム」や「シャーマン」が祖型として残ったと推測できる。まして)今31歳のガイドに、それへの関心が薄くても、何の不思議もない。
 
 でも、そのせいなのだろうか。チベットの重い湿った(社会の)空気に比べて、モンゴルは軽快で明るい。チベットの人たちのいつも背中に重荷を背負わされて監視されていることを呪っているようにぶつぶつと何かを唱えている姿と違って、モンゴルの人たちは独立不羈の気配を感じさせる。宗教の呪縛に囚われているからなのか、漢民族という外部の圧倒的な支配圏力に抑圧されているからなのかわからないが、モンゴルがロシアや中国からそうした抑圧を受けていないようにみえるせいかもしれない。あるいは、かつて「世界の半分を統一」したモンゴル帝国の自負が、未だに彼らの背筋をまっすぐに保っているのか。むろんそうした自負をお札のチンギス・ハーンの肖像や、ウランバートル国際空港の壁面に掲げられた「歴代ハーン」の肖像画が証している。
 
 ガイドの話を少し紹介しておこう。彼女は日本語が達者だ。高校時代を留学先の日本で過ごしたという。静岡県が受け入れたというが、たぶん優秀な学生だったのであろう。もう十年も観光ガイドをして過ごしている。日本人鳥ガイドの現地ガイドをしていても、おっと思うような機転の利いた采配をしたことがあった。南ゴビの最終日、午後1時半にウランバートルに向かうことになっていた航空便の出発が遅くなることが(午前中に)分かった。なんと、午後10時発になるという。鳥ガイドは「では、どこかに(鳥を観に)行こう」というのに応えて、彼女は南部の山岳地帯へ向かって数時間を過ごし、その空港への帰途のゲル・レストランに予約をして夕食を確保し、8時に空港へ到着するというスケジュール変更をテキパキと片づけてしまった。それを「たいしたものだ」と思うのは、その山岳地帯を鳥ガイドは知らなかったこともあるが、そこで目にしたオオノスリの巣と3羽の雛、給餌の様子、ワシミミズクの巣と雛2羽、イワシャコという珍鳥5羽など、たっぷりと楽しませてくれたからである。彼女は双眼鏡ももっていない。日本人の鳥ガイドについて歩いているだけで、鳥を見分け、野鳥の本を手に入れて、識別を確認し、いつか双眼鏡も手に入れて鳥ガイドができるようになりたいと意欲的だったからだ。ちなみに気付いたことだが、モンゴルの人たちは驚くほど目がいい。つまり私たちが双眼鏡で見ている対象を裸眼で見極めることができる。車の運転手もそうだ。ただただ広い草原を運転しながら彼が指さす方向を双眼鏡でのぞくと、草原にポツンと立っているオオノスリがいたことが何度もあった。
 
 モンゴルの女の子は、18歳から26歳くらいまでに結婚して家庭を持つといい、いま31歳で独身の現地ガイドは、〈あの子一体、どうするんだろうと〉周囲の注目の的だと笑っている。モンゴルでは「見合い結婚というのはなくて全部恋愛結婚です」と彼女は言うが、いま仕事が面白くて仕方がないという風情。同行した女性客たちは「お目当ての人でもいるの?」「今度来るときは子ども連れだったりしてね……」と容赦ないセクハラ発言をしていたが、「そうかもしれません。またお越しください」と軽く受け流す彼女の笑顔は、そういうことへのこだわりを乗り越えているのかもしれないと思わせた。つまり、日本の非婚・少子化と同じで、近代化が急速に進んでいるモンゴルでも、優秀な女子は(二者択一を迫られたら)結婚・出産よりも仕事を選び取るのかもしれない。
 
 もっとも彼女の幼い時の話を聞くと、たいへん牧歌的で面白い。彼女が小物入れから出して見せてくれた一枚の白黒写真には、馬に乗った幼い幼児が写っていた。2歳のころの馬に乗った彼女の写真。とても誇りに思っているという。聞くと子供のころ、ヤギの群れを連れ、馬に乗って草原へ出かけて一日過ごし、帰ってくることをしていたそうだ。ところが、何か足をのせる高い石や台でもなければ馬に乗れないにもかかわらず、一日を過ごしていた。馬の背なかで眠っていたのだそうだ。ヤギや馬は賢いから、道は全部知っている。時刻も彼らが見計らって帰宅していたという。
 
 モンゴルで使われているキリル文字は、ロシア語に用いられる文字を借用したもの。だが、1991年に「社会主義国から民主主義国」になったときに、小学校教育では昔のモンゴル文字を使うように変更した。縦書きで左から右へかきすすむもの。ちょうど日本の筆で書いた草書のようにくにゃくにゃと流麗な文字だ。当時小学生になったばかりであったガイドの彼女は、モンゴル文字とキリル文字の両方を習ったのだが、その両方が読めるのは祖父祖母世代まで、父母の世代はモンゴル文字が読めない。世代間の齟齬と社会的な混乱が起こり、結局、5,6年後にすべてキリル文字にすることに改めなおしたのだそうだ。そういえば日本でも戦後、ローマ字表記にしようという動きがあったが、もしそうなっていたら、ちょうど小学校に入る年齢に近かった私などは、彼女と同じ体験をしたかもしれないと思った。実際に今回困ったのは、キリル文字とアルファベットが入り混じっていること。ロシアに運ぶ途中でアルファベットの入った箱をひっくり返したためにむちゃくちゃになったといわれるキリル文字は、似て非なるもの。ついアルファベット読みにして、モンゴル語で読み上げる彼女の音が拾えず、???となったことが何回かあった。
 
 モンゴルの人口300万人の半分、150万人がウランバートルに住んでいるという。日本の4倍という広大な国土の残り部分に、150万人の遊牧民が住む格好だ。ウランバートルは盆地。四辺を山に取り囲まれた盆地だそうだ。高層住宅が立ち並び、山のふもとから山頂へ向かって、住宅が密集している。車が多く大気がひどく汚染されるので、月曜日から金曜日まで、車両ナンバー末尾数字の1,6、2,7と二数字づつ走行禁止を設けて入域車両規制をしている。メーカーやスーパーや小規模工場や商店の看板も、日本の都市のそれとあまり変わらないように見える。つまり、全速力でグローバル化が始まっているのだ。そのせいか、ウランバートルを車で一時間ほど外に出ると、広々とした草原が広がり、国立公園と呼ばれる森と草原と岩山の自然が展開していた。
 
 そういう意味で言えば、ガイドの彼女のセンスの中には、近代化と遊牧的な暮らしとがきっちりと分けられて併存しているのかもしれない。モンゴルの人たちは、近代化はウランバートルだけにしておいて、あとは昔ながらの暮らしをしていこうというのかもしれない。そういう「棲み分け」と考えたら、少子化日本の今後のイメージも、無理なく描けるように思った。
 
 根底に流れる「国民性」は「ない」幸せを満喫する不羈の精神。もっと根底的に言えば、幸せとか不幸せとか価値的に考えない。存在それ自体を大切にする感性が受け継がれることを坦々と担っているという見切りではないか。(つづく)