mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

250年後のアダム・スミス

2024-01-22 10:35:16 | 日記
 一昨日note.comの篠田真紀子のエッセイを取り上げた。この方が「きのう、なに読んだ」というエッセイを書いていることを知り、開いてみた。福原義春という方の書いた『文化資本の経営』を読み「25年前に見えていた資本主義の未来」と表題して紹介している。
 経営に関する経済論は、いかに効率よく資本を動かして多くの利潤を手に入れるかを、働き手と書いて双方の人を操作して実現するものと、これまで私は思ってきた。この紹介を読んで、あっ、ちょっと変わってきてるんだと感じた。
 どう変わってきたか。
《社会に対して、人類に対して、文化に対して、商品や価値をどうつくっていくのかということは、企業の大きな目的》
 と本文から引用している。これは、アダムスミスが説いた古典派経済学の論調である。
 周知のように、アダムスミスは経済学で知られるより先に倫理学者で名をなした人であった。彼は自由主義の元祖のように受けとられているが、実は彼が口にしていない社会倫理がベースにおかれていたと、後になって広く知られた。それはさらに後に、社会学者・マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で説いたように、経済活動は人類や社会、文化に対する貢献が前提とされていた。
 そうか、アダムスミスが『国富論』を書いた18世紀後半から、マックス・ウェーバーが前記の論を展開した19世紀末から20世紀初めに至る「自由主義」の実展開は、すでにキリスト教倫理からはすっかり離れて、最大利潤の追求こそが企業活動の主軸に据えられ、それ以外の人類や社会・文化、つまり倫理は後景に捨て置かれるように退いていた。だからアダムスミスがほぼ無意識に前提にした倫理を、違った角度からではあったが、マックス・ウェーバーが意識して書き記すようになったのか。
 も少し日本の舞台に引き寄せると、福原の著書本文からの引用のようなことは、江戸の末期に、農政家・二宮金次郎が説いていたことと重なる。つまり日本に於ける資本主義の自由主義的展開は、明治から敗戦頃までは、まだ日本的な家族制度や社会規範が旧来の陋習として残っていて、企業活動もただ単に最大利潤の追求とばかりは言えないと、キリスト教倫理とは異なるが江戸文化的な規範として、人や社会・文化が視界に入っていた。それがWWⅡ敗戦後は、軍事的な軛も解けて経済専一となり、まさしく自由主義を謳歌した所為で、日本企業も様変わりしてきた。それでもすっかり様子が変わるまでには、産業資本の隆盛を超えて高度消費社会への突入まで待たなければならなかったと言えようか。
 そう考えると、『文化資本の経営』のトーンも、ただ単にアダムスミスの焼き直しなどというよりは、最大利潤の追求という企業目的を、人類・社会・文化を視界に入れた新しい経済社会の考え方として受け止めた方がいいかもしれない。
 紹介している篠田真紀子は「ESGという概念が全くない時代に、ESGのコンセプトを端的に示している」と高く評価している。ESGというのは「環境/E」「社会/S」「統治/G」の頭文字を取って会社経営の社会的責任を表す、経営学の用語のようである。篠田さんのいう「ESGという概念が全くない時代に」というのが見当違いであっても、ま、言葉の勢いっていうものと見ておいた方がいい。
 むしろ、現下の世界情勢を牽引する欧米的な思潮は、ほぼ、トランプやプーチン、ネタニヤフやバイデンといった人たちに象徴されるように、人類・社会・文化を二の次にして、我が利得しか眼中にない世界政治の惨状である。WWⅡの戦後に、人類史的反省としてリスタートした国際協調も、すっかり色褪せて、ただの飾りになっているから、人権や平和、人々の命と安寧というのは、ただの枕詞のように偽善的な上着扱いされている。
 この現状に鑑みると、アダムスミスや二宮金次郎の編み直しとは言え、改めて企業活動を人類・社会・文化と深く関連付けて見直すというのは、新しい踏み出しととらえた方がいいかもしれない。
 篠田は「文化とは何か。資本とは何か」と小見出しを付けて、福原の言を更に紹介する。《文化は、感性や知を蓄積しながら常に生成・発展する生き方/文化とは「異質な相反する物事の出合い」によって生み出される/異なった文化の出合いや混合では、葛藤や対立が起きることが大事/文化への理解がないと、定義づけられた世界と現実世界の落差が起きる/文化の発信とはこちらから知っていることを伝えるのではなく、あちらの内部に眠っているものを掘り起こしていくこと》
 と引用する。言葉の限りではふむふむと受け容れる。でも、主語がすべて省略されていることが気になる。言葉を紡いでいる福原は神のような目を以て人類・社会・文化を眺めているような感触がある。
 ところが、「文化への理解がないと、定義づけられた世界と現実世界の落差が起きる」という一文が亀裂を見せている。
(a)「定義づけられた世界」って、誰が誰に対して定義づけるって言うのか?
(b)「現実世界」って、誰がいつどんな場面で「認知する」世界を指すのか?
 前者は企業を取り巻く経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」。後者の現実世界とは、顧客の「しこう(嗜好・思考・志向)」か。
 経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」がどう形づくられているのか私にはワカラナイが、業界の常識、行政や法的規制のインフラ的コンプライアンス、国際的活動をする場合には国際関係の構造的インフラもこれに含まれるか。それが顧客の「しこう(嗜好・思考・志向)」と食い違うことにぶつかってこそ、経営者の「しこう(嗜好・思考・志向)」を手直しすることも出来ようから、それに続く《文化の発信とはこちらから知っていることを伝えるのではなく、あちらの内部に眠っているものを掘り起こしていくこと》という言葉が繰り出されるわけだ。
 でもこういうことってのは、市井の庶民にすると当たり前のようにしている振る舞いである。何だ、このズレは?
 そうか、これまでの企業経営者は、人類・社会・文化を領導していると錯覚していたのか。それを、顧客である市井の民に聞いてみようってことか。なるほど、とまず思った。でも企業家は庶民からなにを聞こうというのか? 需要を知って供給しようというコンセプトとしたら、市場調査でいくらでもやっていることではないか。
 読み進めると、一つヒントがあった。
《「自然や社会」は具体、「商品」は抽象》と小見出しを付けて《本来、自然も社会も場所によって様々なのだが、そこから分離した「商品」の世界が、経済が拡大する原動力だった》
 つまり、需要は「具体」であるが、供給は「抽象」であるとみてとる。オモシロイ。資本家社会の論理は、個別特殊を普遍に読み替え、顧客がそれに適応することをいいことにして世界の人々を「普遍」に切り換えてしまった。
《福原さんは、そうした抽象化した「商品」が行き着くところまで行ったと指摘している》
 という。福原は、この行き詰まりからの離脱を《資本とは本来、お金と文化のセット》という「資本」の概念を梃子にして、《「商品」を崇め利益第一の経済資本から本来の資本へ、中心を転換すべきではないか》と進め、《ここでいう文化とは感性や知を蓄積しながら常に生成・発展する、ある集団の人々に共有される生き方》と起点を構築する。福原が言う「本来」とはアダムスミスの無意識に染みこんでいた倫理に生きる社会である。
 つまり企業は、顧客という個々人を見るのではなく、彼らが集う社会・コミュニティを視野に入れて、自らの活動の評価(ESG)を考えていこうと提案している。そう受け止めて私は、ただ単にこれは、単体企業の経営の話ではなく、私の棲む、この社会の話だと思うようになった。そう考えることによってやっと、経済学が、当初、ポリティカル・エコノミーと呼ばれた次元に立つことになった。『国富論』から約250年後の現在である。

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